第七十六話 《黒き尾の影 — 封じられし邪気の胎動》
ROOM内の空間が静けさを保つ中、琴吹神楽の隣には小狐丸が控えていた。封印は一応の完成を見せたものの、術陣の中心にはいまだ濁った気配が残っていた。
それは、封印の地と妖力との共振によって、九尾から切り離された“邪気”そのものだった。
本来、九尾という存在は膨大な妖力と邪気をその尾に蓄えていたが、術式の深奥における共鳴がそれらを分離させた。九尾は浄化され、小狐丸として新たな姿を得た一方で、邪気のみが実体化し、意志なきエネルギー体として術陣の中に居座り続けていた。
神楽の背の五尾が微かにざわめいた。それは未だ滅しきれていない存在が、この場に何かを呼び込もうとしている前兆だった。
金属が擦れるような音がROOMの静けさを切り裂く。神楽の表情がわずかに変わり、小狐丸が一歩前に出る。
「琴吹様。外より、邪気に引き寄せられた何者かが近づいています」
神楽は静かに手を上げ、術式を展開させた。空間に浮かぶ紋から映し出されたのは、黒漆の鎧を纏い、尾のような瘴気を引く異形の影。まるで切り離された邪気が、外の闇と共鳴して扉を開いてしまったかのような光景だった。
「……妾の封印を揺るがすとは、ずいぶんと無作法な客人にござりますな」
神楽の声が冷たく沈むと同時に、五本の尾が静かに光を放ち始めた。妖力が封印術と連動し、ROOM全体を再び戦場の空気へと変えていく。
小狐丸の手が自然と霊刀に伸びた。その刀はまるで意志を持つように震え、邪気の余波を拒絶するように輝いていた。
「懐かしさは感じます。しかし、私はあれには戻りません」
神楽は頷き、彼に目を向ける。
「さればこそ、妾たちがこの術の“端”を担わねばなりますまい」
術陣の奥で、安倍晴明が静かに瞼を開けた。眼差しは鋭さを帯び、封印核の内部に巣食う異質なものへと注がれる。
「……なるほど。君に助けられるとは。何とも皮肉なものだ」
晴明の声に、神楽は目線だけを向けて微笑を浮かべた。
「晴明殿の封印に歪みが見えたゆえ。妾とて命惜しさに動いたまでのこと。人であれ狐であれ、生きる意志に勝る理などござりませぬ」
晴明は軽くため息をつき、立ち上がる。
「邪気を核とするだけの残滓にしては、妙な存在感だ。まるで、形なき獣が今にも形を得ようとしているかのようだな」
「放置すれば、また禍根を残しまする。いずれ封印を喰らい、異形として立ち上がるやも」
晴明はわずかに目を細めた。傍らに立つ小狐丸を見やると、かつての九尾であるとは思えぬ静かな力がそこにあった。
「名前まで与えられ、刀となったか。その名も小狐丸。……なるほど、名が魂を縛るというのは、あながち嘘でもないらしい」
「私は名を得て、ようやく定まったのです。もう、あの禍々しき力には戻りません」
晴明は無言で頷き、再び封印の中心を見据える。神楽もまた、空間の震えに意識を集中させていた。
封印の術が完成を迎えたのは事実。しかし、その完成とは新たな均衡を生んだというだけに過ぎない。切り離された邪気は、なおこの場に何かを喚び続けている。誰の意志でもなく、ただ力として。
神楽は軽く扇子を閉じ、その手に力を込めた。
すべては、ここから始まる。今はまだ、封印は守られている。だが、静かに蠢く邪気の塊が次なる変化を迎えるのは、時間の問題だった。