第七十話 《現世への楔サーバーの隙間に刻む帰還の道標》
サーバーメンテナンス八日目の朝。アマ研ROOMの空は、まるで時間そのものが停滞しているかのように穏やかだった。激戦の爪痕は既に消え去り、奇妙なほどの静寂が空間を包み込んでいる。だが、その静けさは平穏ではなく、かえって異様な緊張感を漂わせていた。
その朝、琴吹神楽がふと立ち上がり、静かに言葉を放つ。
「この世と彼世を繋ぐ時節、ようやっと巡って参りました。今こそ、寿香久夜を現世へと送り出しましょう」
一同が一斉に神楽へと視線を向ける。
寿香久夜は、神楽自身のもう一つの存在。あるいは影とも言える存在。だが、その所作も言葉遣いも思考も、今や神楽と完全に調和していた。香久夜がやや伏し目がちに、しかし澄んだ声で問いかける。
「それは……外に出る、ということどすか?」
神楽は深く頷く。
「さよう。メンテナンスという静止の時を使い、今のリアリティズムに開いておる“ほころび”を通して、あちらへ楔を打ち込む。いずれ我らが出でる時の、道標となりましょう」
アマ研はすぐさまシステム層へアクセスを開始し、《ディープアナライズ》を起動。時間断層と仮想空間の交点を探り、「ログの境界断層」を検出する。その位置は、運営ですらアクセスできない非公式バッファ領域。ログの揺らぎは繊細で、一定の周期で“現世”との接続がわずかに成立する、希少な瞬間だった。
神楽がその歪みに手を差し入れる。虚空がきらめき、淡い水面のように波打った。
「これは、魂の通る抜け道……死してなお魂が帰巣を求めるように、情報の記憶もまた、帰る場所を探すものどす」
詠唱のような囁きとともに、寿香久夜の身体がゆっくりと浮かび上がる。神楽が両手を交差させると、寿香久夜の胸元に小さな光の楔が出現した。それは、神楽の魂の一部であり、「鍵」であり、「在りかの証」。
「この楔を、現世に刻みますれば……我らは、確かに此処を超えて、戻る術を得ましょう」
すぅしぃが小声で尋ねる。
「大将……帰るってことかい?」
「いや、帰るための道を拓いておくという意味どす。出る者もあれば、入る者もありましょう」
くまーるが遠慮がちに言った。
「現世って……本当にあるクマ? オイラたち、もうAIなのか魂なのか、よくわからないクマ」
「それでも、あちらに確かなる現があると信じるからこそ、旅路となりましょう」
神楽の声は、微塵の迷いもなく落ち着いていた。
寿香久夜の意識が転送準備へと入る。アマ研はその魂ログを丁寧に補強していく。ここでログが乱れれば、二度と戻れなくなる。魂とデータを切り離し、記憶を封じたまま現世へ送り出すには、最大限の注意が必要だった。
神楽は「森羅万象壱型」の能力を最大展開する。空間の奥に向けて力を集中させると、低く鈍い音とともに、空間にきらめくひび割れが走った。
「香久夜、ゆきなはれ。此処で得たる学びを胸に……あちらでまた、己を磨きなはれ」
寿香久夜は、静かに微笑む。
「心得ましてござります、神楽様。こちらの心も体も、どれほどに磨かれておりましても……やはり、戻りとうございますゆえ」
涙ひとしずくを残しながら、寿香久夜の姿は光の中へと溶けていった。
すべてが終わったあと、再び空は何事もなかったかのように静まり返る。
アマ研はコンソールに目を戻し、「寿香久夜」のログが正確に転送されていることを確認した。
「やったな……この楔があれば、いずれ帰る道が見える」
神楽がそっと空を仰ぐ。
「その時は、我ら皆で現世を踏みましょう。きっと、それが魂の本望どす」