番外編〜前編 「予感の夜」
詩恵が景を見送った後、家の中は静まり返っていた。いつもとは違う感覚が胸に残っていたものの、詩恵はその不安を振り払うように、日常の活動に戻った。午後になると、台所からは肉じゃがの香ばしい香りが立ち込め、心地よい音が響く。
夕方近くになると、詩恵は時計をちらりと見た。「そろそろ帰ってくる頃かな」とつぶやきながら、夕食の準備を整えた。彼が帰る前に、できるだけ美味しい料理を用意しておきたかったからだ。
しかし、その時間が過ぎても景の姿は見えなかった。詩恵は心配が募り、再度窓の外を見た。空はまだ明るいが、夕暮れの気配が漂い始めている。普段ならばこの時間に帰ってくる景が、どうしても帰ってこないという事実が、彼女の不安を一層深めていた。
「何かあったのかな…」詩恵は自分の不安を紛らわせようと、家の周りを少し歩いてみることに決めた。釣りに行った場所へ行き、もしかしたら景が何かで立ち止まっているのではないかと考えたからだ。
街灯が灯るころ、詩恵は釣り場に到着した。ここはいつも景が釣りをしている場所で、まだ薄明るい空と海が広がっていた。詩恵は海を見つめながら、景の姿を探したが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
その時、詩恵は突然の冷たい風を感じた。風がぴたりと止まり、波も静まり返った。普段はこの場所の潮の流れが強いのに、今日はどこか違う。何か不吉な予感が彼女の心を掴んでいた。
「景さん、大丈夫…?」詩恵は海に向かって声をかけたが、もちろん返事はない。彼女は心の中で、何かの間違いであってほしいと願った。
突然、海の向こうに月が顔を出し、満月の光が海面を照らし始めた。その神秘的な光景に詩恵は何か運命的なものを感じ取っていた。
気温が一気に下がり、詩恵は身震いしながらも、その場に留まっていた。月明かりが海を照らし、どこか不安定な雰囲気を醸し出していた。詩恵は不安に駆られ、もう一度景がいるかもしれない場所を探すために、周囲を歩き回った。
その時、彼女の目にふと、景が以前釣りをしていた場所に残された痕跡が映った。景の使っていた釣り道具が散らばっているのが見える。詩恵はその光景に、胸が締め付けられる思いがした。
「景さん、どこにいるの…?」詩恵は心の中で叫びながら、周囲を探し続けた。彼の帰りを心待ちにしていたあの夜が、まさに運命の分岐点となるとは、彼女はまだ知らなかった。
夜が更け、月明かりが海を静かに照らし続ける中、詩恵は深い不安とともに、その場に佇んでいた。月が満ち、海が静まり返るその瞬間に、何か大きな変化が起こるのではないかと、彼女は感じ取っていた。