月模様のハンカチ
朝、十時から始まった、広島での展示会。
昨日、仕事場の先輩公家李人に誘われた飲み会が明朝まであったせいか、数十分ほど遅れてしまった。
だが、姉の月紅がいたので問題なかった。
広島会場では、これまでの会場とは違い、こぢんまりとした会場で、一日、三十名のみ入れるようになっていた。
これは母の要望で、今回の展示会の最後ででは、ゆっくり見ていただきたいという理由だった。
僕は多くの人に見てもらいたい、父もそう願ってると思い、異論するが、編集者の狩野さんも母と同意見だった。
僕は不服で、それもあって、前日飲みすぎたのかもしれない。
僕が遅れて、会場に入ると、一人の女性の方が写真をじっくりと見ていることが目に留まった。
それは姉も同様だった。
一枚の写真に十分もかけてみていたらしい。
こう思うと、数人しか入れない日があってもありなのではないかと思った。
そして、父が羨ましく思った。こんなにもじっくり見てくれる人がいるなんて、それだけ、父の存在があの女性の中で、大切なのかと思うと父の存在の大きさがわかる。
女性が一枚見て、もう一枚に行き、また一枚見ると、もう一枚に進んでいく。
この女性は、父の写真のどこが好きなのだろうか、どの写真が好きだろうか、父の写真をいつから好きなのだろうか、名前はなんだろうか、年齢は何歳だろうか、仕事はなんだろうか、生年月日は、趣味は、彼氏の存在は、そして、父の背中を追う、僕の写真もじっくり時間をかけて、見てくれるだろうか。
僕は、彼女の跡を追ってしまっていた。
すると、彼女から僕の方にやって来て、話しかけてくる。
「お手洗いはどこですか?」
不意の質問で、しどろもどろになって、数秒して答えた。
「突き当り、左手にあります」
幸運にも噛まずに言えたことに安堵して、阿呆なことを言ってしまう。
「付いていきましょうか?」
相手はどう考えても成人しているだろう見た目で、子供相手かのようなことを言ってしまって、すかさず早口で訂正する。
「えっと、分かりづらい場所にありまして僕も一度、迷子になったことがあったので」
数年に一度あるくらいの修正と見事な嘘でやり遂げる。
「それじゃ、付いてきてもらってもいいですか」
またも、不意を突かれてしまった。こんな回答で、それも女性から。
彼女は歩きだし、教えてくださいという目で僕を見て、僕は三歩、いや、五歩以上前を歩き、先導した。
歩き出してわかった。僕は緊張してしまい、早歩きをしてしまい、彼女は僕の歩くスピードに合わせているかと思い、彼女の足を見ると、なんと彼女の足が僕の四歩に近づいていた。
彼女も僕同様に緊張しているのか、それともいつも早歩きなのか。
トイレまでの道のりは、短いのに関わず早歩きなのに、とても遠く感じる。
彼女をトイレに運ぶと、彼女は何も言わず、トイレに行く。
僕はその姿を見て、次はどのような行動すればいいか分からないでいた。
この場から離れた方がいいか、この場で待っておくべきなのか。待っていたら、とても気持ち悪いのではないか。
「ちゃんと出ました?」
そんな質問をしてしまうかもしれない。
そんな大惨事が起きる前に、僕はこの場を去ることにした。
でも、僕は彼女のことが気になり、隠れて、トイレに出るところを見ていた。
彼女は二分ほどで出てきて、ハンカチで手を拭いている。
ハンカチを広げ、ハンカチの模様が目に飛びこんでくる。
いろんな形の月の模様。
満月に半月、三日月に新月、彼女はどの時の月が好きなのだろうか、僕と同じ、三日月なのだろうか。
そう考えると、彼女はこちらにやって来て、先ほど見ていた、写真の方に戻っていった。
その後は数人ほど、お客さんが入って来て、彼女を見守ることは叶わなかった。
十四時頃になってきて、何人か帰り始めていた。
僕がショップのレジ打ちをしていると、最初に入場した彼女がやってきた。
彼女は壁に掛けてある、写真を指指し、
「この写真をください!」
ほかの人にも見られるようにか、自信満々な顔で言っていた。
満開の桜と満月。
壁一面に埋まるかくらいの大きさで、父の写真の中でもとても人気な写真だった。
値段は十二万七千円。
安くない値段だ。まだ大学生かと思うくらいの見た目なのに、彼女は躊躇せず、選んでいた。
とても大きいサイズの写真なので、今日中には持って帰れないことを教えると、彼女はハブてたような顔で、
「わかりました」
僕は住所や名前、電話番号を書く紙を持ってきて、記入してもらい、この日のこの時間に運んでいくと教えた。
彼女は楽しそうな顔で笑みを見せ、それを見て、僕は彼女への好感度が上がっていく。
そして、彼女はスキップしながら、会場を去っていった。
時刻は十九時を回り、最後のお客さんが帰っていき、後片付けが始まる。
小さな会場なので手は焼かず、姉と僕だけで作業は進んだ。
ていっても、初日なので、片づけるものは少なく、床の掃除や写真の点検など、軽作業のみだった。
会場、最後の地点、ここは周りから閉ざされていて、個室状態。そこに、広島会場のみで飾られる写真がある。
僕は見ようと試みるが、狩野さんの言葉を思い出す。
「写真家になりたいなら、見ない方がいい」
僕はまだ、この言葉の意味も分からないまま、入り口の前から去った。
床や椅子の下の掃除をしていると、椅子の下に落とし物を見つける。
月模様のハンカチ
僕はすぐさま、誰のハンカチか分かった。
落とし物があったことを姉に伝え、来客名簿から電話番号を教えてもらう。
「なぜ、そんなこと覚えてるの?」
姉は疑った眼で僕を見て、薄気味悪く笑いながら言った。
電話番号を手に入れるのは容易だが、ここに私情を入れる、入れないは、また別だった。
彼女のことを思い出す。
肌は白く、背中は真っ直ぐで、指は長く細い、どこか守りたくなるような人だった。
彼女が写真を見る眼は、美しかった。
楽しそうに見るが、どこか悲しそうで、何 分もその写真を見て、次に行くと、また何分もかけて、その写真を見る。
見る時間は関係ないのかもしれないけれど、彼女が見る写真は普通の人が見る見方と変わっていた。
父の事がまた羨ましく思った。父としても写真家としても。
そして、僕は自分の写真を彼女に見せ、どういう感想で、どういう眼で見てくれるかと、彼女は、僕の写真を見て、父の写真と同じように美しいのかと。
来客名簿の電話帳に書かれている彼女の電話番号を何度も唱え、
「これは業務、これは業務、ただの落とし物、ただの落とし物」
心の中でも、口にも出していて、会場内には人がいなかったのもあり、会場全体に僕の悲しい独り言のみ広がっていた。
何度か唱えた後、意を決して、電話番号を受付場にあるアナログの固定電話に番号を打っていく。
数字によって違う出す音が、まるで自分の心拍音の音程と重なっていた。
一ボタン、一ボタン、進んでいく度に、押すスピードは遅くなり、まるでドラマでよく見る時限爆弾を解除する刑事になり切っているような気がしていた。
着信ボタンを押せば、電話が鳴り出す。
彼女の電話番号は珍しく十桁で、十一桁だと倍以上かかっていたと思う。
この人生の中で、こんなにも一つのボタンまでの距離が長いことなんてなかった。
だが、押すしかないと思い、意を決してボタンを押してみる。
呼び出し音は、よくあるもので、聞きなじみがあるせいか、少し安心感を覚えていた。
ガチャっと、電話が出た音がして、第一声目が聞こえてくる。
「もしもし、浅井ですけど」
男の声だった。