大切な人が死んだ。
興味を持って頂きありがとうございます。
文章が下手だと思いますが、見て頂いたら嬉しいです。
大切な人が死んだ。
父だ。
四十八歳だった。周りの人間は、若死にと言っているが、僕は全くそう思わない。誰よりも楽しく人生を過ごしていて、いつも幸せオーラが出ていた人だったからだ。
だが、家族としては、あまり一緒に過ごせなかった。家に帰ってくるのは一年の中の二カ月くらいしかおらず、帰ってくるのは、決まって十月から正月くらいまでで、それ以外の日は海外を飛んでいて、僕の中で父と過ごした記憶はあまりなかった。
だが、僕は父のことは嫌いではなく、むしろ好きで、僕の父であり、友達でもあり、憧れの存在だった。
父飛葉月影は、月を撮る有名な写真家で、アメリカやイギリスなどの雑誌にも何度も表紙を飾っていた。名前の通り、月の写真を撮るために生まれてきたような人だった。テレビでも、何度も見かけることがあったから、不思議と、父と会っていないという実感は持っていなかった。
そんな、父が死んだ。転落事故だった。
皮肉にも、日本に戻っている期間に、カメラも持たず、好きな月を見るという理由だけで、僕が憧れる人生に終止符が打たれた。
父が亡くなったと知った理由は、テレビの速報だった。飛葉月影、死去。その文字を見た時は母はおらず、姉と二人家にいるとき、自分の部屋で、テレビを見ていた時だった。テレビの速報で父の訃報を知り、すぐさま、母に電話をかけると、すでに病院に居て、電話越しでも、伝わるほどの慟哭していた。
姉にも父の訃報を伝えると、姉は、「そぉ」と、冷たく言う。だが、冷たい態度を取る理由は、わかっていた。
姉は僕とは反対に、父をひどく嫌っていた。真面目な姉は、楽観主義者の父を毛嫌いし、いつも家にいないことに怒っていたのも知っていた。
父が、このような生活をし始めたのは、僕が生まれてすぐだったので、僕自身は父がいないということに寂しさを感じておらず、普通の生活をしたことのある姉は、父がいなくなったというのは、辛かったのだと思う。
僕が退室すると、ドア越しでもわかる、この部屋で悲壮感が埋まっていくことも感じられた。少し漏れた声は母と同じで、親子は似るものだと知った。
僕が父と似ているところは、何かあるのだろうかと考えるが、あまり言われたことがない。
「お父さんと似てるね」
言われたことがなかった。
当然なのかもしれない。父は、普段僕の周りにいないのだから。近所の人や親戚の人がいる集まりには出ないし、その時には、海外に飛んでいる。
姉は言われていたらしい、顔がお父さんに似ていると。
赤ちゃんの頃から、親戚、クラスメイト、同僚からも。
僕は、父に似ているものがひとつもなかった。
だけど、いつも、母に言われたのは、
「大切なもののためなら何でもできるのが、お父さんと同じね。でも、危ないことはしないでほしいけど」
母に一度、言われたことがある。多分、この時だけだろう。父と似ていると言われたのは。
あと、自分でも分かるのは月を撮るのが好きだということだろう。
一度、父と写真を撮りに行き、その時の月がとても綺麗で、父が持つカメラをまだ、カメラを持つには早い小さな手に置いてもらい、僕の返事で、父がシャッターを押した。
その時にファインダー越しから、実際の眼に変わった時の月を忘れることはなかった。
その影響もあって、写真一本では、食っていけないけど、父の背中を追って、写真家になった。まだアマチュアだけど。
だが、真反対のものがある。父を知ってる人に名前を言うと言われる、
「お父さんと真反対の名だね」
それが、僕の名前、飛葉太陽。
父の月と、僕の太陽。父の背中を追う僕にとって、父が僕になぜ、こんな名前を付けたのかわからなかった。
父の葬式などが終わり、父が亡くなってからひと月くらい経った頃、父を追悼して、父がこれまで撮った展示会を行われることになった。
僕もお世話になった、編集者の狩野さんから提案してもらい、母も喜んでいた。父が亡くなってからひどく昏睡した様子だったので、共に過ごした期間は少ないはずなのに、そこで二人の愛は本当なのだと、僕と姉は、初めて理解した。
展示会は、五都市で行われ、東京、大阪、名古屋、福岡、最後に父の出身地であり、僕の出身地である、広島で行われる予定だった。
最初の東京の展示会が行われる場所に向かうと、改めて父のすごさを実感した。少し喋ると反響して、すごいという声が、何度も発せられる。
広島以外での父の展示会は行ったことがなかったので、なぜこんなにも大きいか分からなかった。僕の家はそれほど、裕福ではないのだから。こんなにも大きい場所で行われるとなると、ある程度の収入があるはずなのに。一緒に来ていた母に尋ねた。
「ねえ、お父さんは展示会の収入はどうしてたん?」
「展示会のお金は、全部寄付よ。海外の子供たちに」
父の収入のことは、あまり聞いてこなかったが、こんなにも大きい場所で行われ、僕も大人なので聞く権利はあると思い、詳しく聞く。
「雑誌の方は?」
「ある程度もらっていたけど、ほとんど、あの人の旅行代で無くなるの」
家族を優先してくれよ。と思ったが、父に尊敬の念も感じられた。
東京の展示会が、始まった。
人だかりが予想されるので、予約制で、即予約が埋まったらしい。
父のすごさは、ある程度分かっていたが、想像以上だった。
人が入り始めると色んな人が入ってくる。男性女性関係なく、高校生や、老夫婦、外国人も来ていた。
母の方を見ると、僕の年齢程度の外国人に話しかけられている。
話を聞くと、アイルという、父の友達らしく、父が命の恩人らしい。
父の募金によって、文字を覚え、飢えることもなくこの年齢まで生きることができたらしい。
もしかしたら僕より一年の時間を共にしたのかしれないと思うと嫉妬心が少し芽生える。
でも、僕の知らないところで、父はたくさんの人の命を救っていたのだと知った。
最後にアイルが母に言う、
「あなたが羨ましい、月影の奥さんになれるなんて」
母は、満更でもない様子で否定する。
だけど、僕も思う。こんなにもすごい人を旦那さんにもらえるなんて、どれほど徳を積んだのだと。
だが、そこで思った。少し父が他人のように思えた。
父の何も知らず、そして、自分が父の息子だなんて、まったく思わず生きてきたからだ。
大阪、名古屋、福岡の展示会が終わり、最後、広島で行われることなった。
僕は、仕事の影響で東京以外の展示会は、行けなかったので、スケジュールを調整して、広島の初日は行けるようにした。
太陽は登山ガイドの仕事をしていた。
ガイドをしていて、苗字を言うと聞かれる、「飛葉さんの子?」
珍しい苗字なので、同じ質問を何回も受けてきた。
最初は、「はい、そうです」慣れると、「はい、名前は父と真逆ですけど」子供達の遠足の場合だと、「はい、私が飛葉の子です」と、テレビで見るような芸をして、ウケを取る。
そんな日常を送っていた。
広島の展示会が始まり、東京と比べたら小さいが、僕の写真を飾るなら埋まらないくらいの大きさだった。
会場はロープで通路ができており、写真を順番に回っていくような設計になっていた。
広島には、最後に個室があり特別な写真が飾られていた。
そこに入ろうするが、編集者の狩野さんに「写真家になりたいなら、入らない方が良い、飛葉月影史上、一番の写真だから」と言われ、諦めることにした。
展示会が始まると、僕は会場に唯一あるソファに座り、通る人たちを見る。
人によって、見る時間、見るもの、感じるもの、泣くもの、過ぎるもの、人によって、父の作品を見る目が違うのだった。
だが一人だけ、一枚目の写真、真ん中に月だけが撮られている写真で、ずーっと止まっている女性がいた。
僕はその女性が目に留まっていた。
大切な人が死んだ。
初恋だ。
その人に出会ったのは、八歳のころだ。
お父さんが本屋から本を持ってきて、その人の存在を知った。
お父さんが本を持ってきたとき、私は無視をしていた。
見ても何も変わらないと。
ある時、家の壁に大きな月の写真が飾られており私は感動した。
こんなにも綺麗な月があるなんて。
右下に文字が書かれており、ローマ字で、
HibaTukikage。
その人飛葉月影の名前だった。
飛葉月影は、月を撮る有名な写真家で、色々な国で写真集が発売され、私もわざわざ海外から取りよせていた。
飛葉月影はメディア露出が多く、写真集や雑誌、テレビで見ていて、会ってみたいと何度も思っていた。
日本にいるのは、一年の中の数か月くらいしかおらず、その期間はメディアの露出が多いので、今帰って来ているのだと容易に想像することできた。
私の中で飛葉月影は、アイドルのような存在で、学生時代、みんなが山P、水嶋ヒロなどをカッコいいという中、私は飛葉月影が初恋だった。
名前の通り、月を撮るために生まれてきたような人で、神様が私のために産んでくれたと自意識過剰になるほど私にとって大事な存在だった。
そんな、大事な人が死んだ。転落事故だった。
日本に戻っている期間で、何度もテレビで元気な姿を見ていて、死ぬ前の人という感じはしなかった。
カメラを持っていなかったと報道され、この人は月を見ることも好きなのだと、好き度が増すと同時に、羨ましくとも思った。
飛葉月影が亡くなったと知った理由は、友達工藤さくらからの電話だった。
第一声目が「もしもし」ではなく、「大丈夫?」という言葉を選択した理由が分からなかった。
なぜそんな言葉を使ったのか聞くと、先ほど使った「大丈夫?」の意味を知った。
その意味を聞いた後、私はたぶん死んでいたのだと思う。
その時の記憶は一切無く、ショックで脳が勝手に記憶を消去してくれたのであろう。電話越しから聞こえた、私の嗚咽を聞いて友達はすぐ駆けつけてくれたらしい。
二日経って、鏡を見ると、目が閉じていた。
腫れすぎていて、惨めな姿になるほど、私は泣いていたと考えられる。
枕の横にあった小さな頃から使っていた、気持ち悪い蟻のぬいぐるみから、綿が飛び出していた。
後日聞くと、綿を出したのは私ではなく、さくらだったらしい。
別にお気に入りではなかったので、名前も無く、綿を戻し縫うことにした。
何度も吐く私をさくらは、汚物扱いせず、ハグしていてくれたと、弟から聞き、マルティネスの件は許そうと思った。
私は小さな頃から、一人だった。
小さな子供でも分かる私の異質さ。
十歳くらいまでは、コミュニケーションを取ろうとする努力もしたが、私に残る負のオーラが、小さな子供にはわかりやすく伝わってしまっていた。大人相手には伝わらないように、慣れない敬語を小さなころから覚え、自分を隠して生きていた。
その頃、出会ったのが、さくらだった。
さくらはとても優しく、可愛く、クラスの中で中心人物で、こういう人が主人公になるんだろうな、と羨ましく見ていた。
そんな彼女がなぜ、異質な私に興味を示したのか、分からなかった。
朝読書の時間に隠れて、月の写真の本を見ていた時、後ろの席のさくらが話しかけてきた。
後ろから、「綺麗だね」と聞こえ、私は数秒止まり、唖然としていた。
さくらは、月、月、と私の本を指し、初めて綺麗と言ったのは、月のことだと知った。
この時、不覚にも、「私のこと?」と思ったのは秘密だ。
緊張しながら、飛葉月影の存在を教えてあげ、布教活動をした。
朝、支度する私の席に来て、飛葉月影の情報をさぞ、私が持ってきたぞ!っとした顔でやって来て、誇らしげに語るが、私は「もう知ってるよ」っと自慢げに言い、優越感に浸っていた。そして、さくらは全身で感情を出し、その姿を見た時、初めて友達という存在をわかった気がした。
私は飛葉月影に一度も会った事はない。
だから、少しでも飛葉月影のことを知っておきたいと、発売される雑誌や写真集を発売初日に本屋に走り込んで、飛葉月影の最初のお客さんになろうとしていた。
帰宅途中の公園で読みたいのだけれども、耽ってしまい、時間を忘れてしまうので、家で読むようにしていた。
この時点で、私は最初のお客さんになれないと肩を落としていた。
だが、帰って読むと、時間を忘れてもいいので、何度も写真集を繰り返し読んでいた。
一枚、一枚、月の写真が貼られており、右下には国名と場所、日付が書かれている。
その国を調べて、グーグルアースでその街を探検することがルーティン化しており、飛葉月影が通った道、と想像し、自分も通ったとにやけながら歩いていく。
この店には入ったであろうか、地元で有名なお店や観光スポットには行ったのだろうか。
海外に行けない分自分の頭を働かせながら、デート気分を感じていた。
乗ったことない飛行機。山頂で感じる風。国によって違う言葉や人。匂い、空気、食べ物、街並み、建物。
飛葉月影が撮ったであろう場所に行き、自分もその場所に立ち、少し悲しい気持ちになっていた。
一枚開くとまた新しい月が映され、私が見たことない月を見せてくれた。
飛葉月影の展示会が行われることになった。
飛葉月影の追悼するための展示会。
当然私は行く。
東京、大阪、名古屋、福岡、最後に飛葉月影の出身地であり、私の家がある、広島で行われることになった。
予約制したのは私が住む広島会場のみだけど、それぞれの会場で、その会場で予約した人間だけが貰える写真のためだけに、全会場の写真をゲットしたいと思う感情が、高ぶっていたが、そのせいか広島会場以外、抽選に外れ、愛が強いほど当たらないよねと、ゲームとアニメのコラボガチャで外れた時や自分が観戦に行く日に限って、推し球団が負けた時と同じ気持ちだ。
東京会場の初日、人が凄かったとネットニュースになっていた。
予約制、一度入って閉店時間までずっと入れるようになっていて、多いときは三百人ほどいたらしい。
私が当選した広島会場での日程は、二カ月後。
この二カ月、待ち遠しい気持ちと飛葉月影を失った悲しみが混同していた。
広島会場開催前日。
浅井家の食卓には、鮭、骨付き肉、エビの天ぷら、ポテトサラダ、おむすびと私の飛葉月影の話で溢れかえっていた。
私は家では饒舌で、明日が楽しみで、夕食をいつもより多く作りすぎてしまっていた。
実家暮らしの私は、父の厚と弟の正広の三人暮らしだった。
母は、私が六歳の頃、事故で亡くなっており、私は子供のころから、家事をやっていて花嫁修業なんていらないほど、家事は得意種目だ。
母が居ないせいか過保護で育ち、大人になった今でも、分かっているのに早く帰ってきなさいと言われている。
私は基本家に居て、デザイナーの仕事をしていて在宅でも平気だった。
広島会場初日。
私は朝早くに起きて、飛葉月影に会うわけでもないのに、あまりしない化粧をし、美人の顔に拍車をかかっていた。
あまり開かないクローゼットを開け、奥から秘密兵器の一軍の服を出す。
この服は代打の神様として、大事な場面で出すことにしている。
用意ができて、ルンルン気分で階段を降りキッチンで一杯のお茶を一気飲みする。
玄関に向かうと、父が立っており外に出るときは必ず言う、「門限までには帰ってきなさい」
そして、私も必ず返す「大丈夫、今日はゲームの発売日らしいから」といつものように返す。
私は開場する二時間も前に外に出た。
久しぶりに朝日を浴び、こないだまで咲きそうだと思っていた桜も、白線が見えなくなるほどの床桜になっていた。
外で感じられるものの時間がとても早く過ぎていて、自分だけが取り残されているような気がしていた。
忘れられた桜の木を見ると、昼月が見え、私はとっさに木の陰に隠れ、昼月とかくれんぼをしていた。
飛葉月影は昼月を好きだろうか、昼月と夜月はどちらが好きなのだろうか、自分と飛葉月影を照らし合わせていた。
展示会会場に着くと、こじんまりした会場だった。
東京ではすごい人だってニュースにもなっていたのに。
私はスマホを取り出し、検索する。
飛葉月影 追悼展示会 大阪
飛葉月影 追悼展示会 名古屋
飛葉月影 追悼展示会 福岡
やっぱり、どこの会場でも人だかりができていて、福岡会場では開場二時間前から行列ができていたとニュースにもなっていたのに、広島会場はご覧のあり様だった。
飛葉月影の地元で愛されていたはずだったのに。
私が日程を間違えたのかと思い、検索するも今日の日付だ。私は誰もいない会場に足を踏み入れることにした。会場に入ると、写真がずらっと飾られている。この会場が飛葉月影の展示会とも確信に変わった。
入ってすぐ受付があり、女性が立って、悲しそうな顔で立っている。
この女性にはその顔は似合わないと思った。
飛葉月影に似ていて、いつも笑っている飛葉月影と真反対の顔をしていたから。
その女性は、マニュアル通りであろう口調で私に「予約の時にお書きになった、名前、携帯番号、パスワードを入力してください」
私はこの人の顔はあまり見たくなかったのですぐさま入力する。
名前 浅井 りえ
完了すると、入場券が渡される。写真は予約した時にお家に送られてきた。また一枚コレクションが埋まったと喜んでいた。
最初の写真。
B4サイズほどの大きさに埋まるほどの綺麗な満月の写真が飾られていた。
僕は一年前まで文字を見るのにも億劫で、吐き気もしてました。
そんな中、救われたのが映画で、自分もこんな映画を作れたなぁって、思ってて何個か、案を出してました。
文字が読めるようになってから、小説が楽しくなり、今自分が持っている案を形にして、たくさんの人に見てもらい、誰かが救われたら良いなと思っています。
まだ、書き始めたばかりで下手なので、どんどん意見を言って頂きたいです。
良い意見だったり、悪い意見だったり、全て受け止めて自分の成長の一歩だと考えたいと思います。
なので、これから色んな小説を書きたいと思います!