春夏、2人の少女は恋をする
短編小説第六作目です。
七海は目の前にいる彼女を一筋の涙を流しながら見る。そして震える声で言う。
「碧ちゃんは、私を嫌いになったの?」
嫌いになった、などと答える事は出来ない声色だった。こんな姿今まで一度も見たことがない。
それほど今の七海は平常では無いということだろう。
この質問に対しての答えによって、七海という人間との関係は信じられない程違う結果になると思った。
嫌いになったと言ったら彼女は病むのだろうか、好きだよと言ったら彼女は安心するのだろうか。だが、どちらを答えるにも覚悟を決めなければならない。
全ては自分のせいなのだから。彼女と関わってしまった、過去の過ちを繰り返した。
やっぱり私は孤独に生きるべきなのだ。これ以上大好きな彼女を苦しませないために。
私は言葉を返す────────
■
4月上旬
終わってほしくない春休みはなにかのスタンドでも食らったかのように瞬く間に終わり、このままじゃ人生もすぐに終わるな、なんてことを考えながらも新生活は始まる。
「あ!柳ちゃん!よかったーまた一緒のクラスで!」
奈々瀬七海は、中学からの親友である奥州柳と、同じクラスになれたことを喜び合う。
高校2年生、よく言われる中だるみの学年だ。そして人生で最も青春を謳歌できる年。
「七海ちゃん、うん、これからもよろしくね」
「うん!あっ!みゆきちゃん達も同じクラスなんだー!」
ライトブラウンのミディアムボブの髪を揺らしながら七海は教室中に響く声を出して別の友人に話し掛けに向かった。男子達はそんな七海の姿を目で追う。
『あの子かわよくね?』
『んまーそうだけど、何?お前狙ってんの?』
『ワンチャン?だって見ろよあんな小さいのにあの胸。超俺好みだわー』
『…………だからお前はいつまで経っても彼女が出来ねぇんだよ』
この歳の女子の平均身長より少し低い程の身長に、うっかり二度見してしまいそうな豊胸。多くの人のタイプに当てはまりそうな見た目をしていた。そんな七海が通う高校────────
『あさひが丘高校』 。県内随一の人気高で、全36クラス全校生徒数約1400人のマンモス校。様々な学習コースが用意されていて、広大な敷地にある3棟の校舎やサッカーコート、野球グラウンドで勉学や部活動に励む。
そんな全校生徒の多い学校だからこそ3年間この高校で過ごしても顔も知らない同学年の生徒は多い。
────────柳は目を見開いた。
廊下側一番後ろの自席に座り鐘が鳴るのを待っていた柳だったが、教室に入ってきたその人物には見覚えがあった。
「緋瑞 碧……」
彼女とは中学が同じだけでなんの関わりも柳にはないが、中学で一部の生徒に緋瑞はこう呼ばれていた。
────────『異端児』
しかし、緋瑞をそう呼んでいた人達は全員生徒指導室に連れていかれた。
彼女がなぜこのような呼び方をされていたのか、その原因は彼女自身が作ったもので、誰もがそう呼ばれても仕方ないと考える行為をしたからだ。
(まさかこんなところにいるなんて、でもそっか、近くの高校だったら同じ中学の人いるし)
あさひが丘高校は七海や柳の出身中学から遠く、同じ中学出身の生徒はほとんどいない。だからこそ、中学の出来事を知っている人がいないこの高校を選んだのだろう。
柳は緋瑞のことを警戒するような目で見つつも、鐘が鳴るのを待った。
■
新しく担任になる先生から自己紹介を終えて、次は生徒達が自己紹介をする番になった。
淡々と自己紹介を終えていき、七海も柳も自己紹介を終えて、次は緋瑞の番となった。
クラスメイトは全員緋瑞に注目する。
「日暮丘中学校出身、緋瑞碧です。よろしくお願いします」
女子にしては高い身長に、ショートヘアの水色の髪の毛。体躯は運動部のようにすらっとしている。顔立ちはクールで、男子からだけでなく女子からもモテそうだった。
緋瑞は短い挨拶、またはあまり目立ちたくないようにも見えた挨拶をしてすぐに椅子に座った。
緋瑞の過去を知らない人からしてみれば、まさかあの人があんなことをしたとは全く思わないだろう。
そんな緋瑞の自己紹介を聞いた七海は気づいてしまった。
彼女は何かを押し殺して、ずっと我慢してこの学生生活を送ってきたのだろうと。
それが何かは分からない。しかし、人の心を読むことが得意な七海はそう思った。
後で話しかけてみよう、そう思いつつ、七海は次の生徒の自己紹介を聞く。
■
「緋瑞さん、今少しいいかな?」
今日は2年生初日ということで学校は午前中に終わった。ガヤガヤと他の生徒が教室を出る中、七海は早速緋瑞に声をかけた。
椅子に座り帰る支度をする緋瑞は前に立つ七海のことを見上げながら少し威圧するような声色で答える。
「なに?」
「あ、今日これから暇?」
って私いきなり何言ってるんだー!初対面でいきなり遊びに行かない?みたいに誘うとかいくらなんでもフレドリー過ぎる!
己の軽率な行動を悔いる。
「え、暇だけど……あ、やっぱり暇じゃないや」
「……うん私が悪かったから1回言い直すのやめてよすごい傷付くから」
トホホと言いたげな七海だが、緋瑞は至って真面目に、
「それはごめん。でもほんとに用事はあるからボク行くね」
どうやら用事は本当にあったらしい。そうならそうと早く言ってくれればいいのにー。
席を立ち、カバンを肩にかけて教室を出ようした緋瑞だったが、思い出したかのように振り返り七海を見る。
「まぁこれからよろしくね、奈々瀬さん」
これが七海と緋瑞の初めての会話で、運命の分かれ目だった────
■
1週間後
いよいよ授業が始まりだし、憂鬱とした空気になってきた校内。そして今日も今日とて平穏に終わったある日の放課後。
「いやーまさか七海が生徒会副会長になるとはねーまぁでも適任ちゃ適任かー」
七海は友人達に囲まれながらそんな話をしている。
今の話の通り、七海はこのあさひが丘高校生徒会副会長に就任した。
これは自分から立候補したもので、七海を知る友人達(ひぐれ丘中では無い)は満場一致で七海に票を入れた。
「でも七海真面目過ぎるとこあるからあんまり無理し過ぎんなよー?」
「分かってるよー、逆にそっちはもうちょっと勉強したらー?」
そんな和気藹々とした会話に、柳の姿は無かった。しかしそれはいつもの事で、七海にとって柳は特別で、本音を言える唯一の友人だ。だからこそ明確に他の友人と関わり方に違いをつけている。
数分後、会話を終えた七海達は各自帰路についた。
しかし、七海は違った。
「あ、緋瑞さん、ごめんね待たせちゃって」
あさひが丘高校の図書室はそこらの図書館とさして変わらない大きさを誇る。そんな図書室のある席で、緋瑞は本を読むことなく暇そうにスマホを弄っていた。
「あーやっと来た、あのさ、そっちから呼んどいて待たせるって何?嫌がらせ?」
「……そうだよね、私最低だ。本当にごめんなさい」
七海は深く頭を下げた。幸い緋瑞の座っている席は人目につきづらい場所にあるので変な目で見られることは無かった。しかしこうも申し訳なさそうにさせると居心地も悪い。
「まぁうん、もういいよ。それより用事って何?」
緋瑞は七海から用事があると言われて図書室に呼び出された。
「……多分こんなこと言っても余計なお世話だって言われて終わる気がするんだけど、それでも言いたいから言うね」
七海は改まりながら緋瑞の隣の席に座って目を合わせて言う。
「緋瑞さんは今の学生生活楽しい?」
────緋瑞はこの子は何か違う。そう思った。
「どういう意味?」
「そのままだよ、今の緋瑞さんは何かを隠しているような感じがしてさ、素の緋瑞さんじゃないんじゃないかなーって思って……」
だから、何かを隠しながら生活している今を楽しいのか聞いた。
もちろんただの勘違いだったら今度何か奢ってでも謝ろうと思っていた、だが、緋瑞はあっさりと認めた。
「なるほどね……そんなに簡単にボクが秘密を隠してるって見破られちゃうか」
緋瑞はどこか悲しそうな顔をして大きなテーブルに目を落とす。
「ううん、ただ私が人の心読むのが得意なだけだよ、他の人は何も感じてないと思う……」
「へぇーすごい特技だね、ギャンブルとか得意なのかな」
「心を読めるのは初対面の人かすっごく仲のいい人だけなんだよね」
なぜそんな極端なのか、しかしそんな事聞いても意味が無さそうなので緋瑞はこのことについては一旦置いておくことにした。
それより今すべきことは……
チラッと、水色のショートヘアの隙間から七海の方を見ると、緋瑞にとって嫌な表情をする七海が見え慌てて目を逸らす。
変な汗が出てきた。これは、いつの日かかいた汗と同じだ。思い出したくもない、最悪の過去の記憶が嫌でもフラッシュバックしてくる。
何よりも嫌だったのはフラッシュバックしてくるあの出来事より、フラッシュバックしてしまった事実だった。
まさか、まだ会って1週間程度でろくに話したこともないのに、しかもあの時決意したのに、それなのに!
「緋瑞さん……もしかして今私、緋瑞さんを苦しめてる?」
だんだん分かってきた、緋瑞は恐らく人が嫌いなんだ。だからこの1週間誰とも話してこなかった、だとしたら私は────
「違う、君は何も悪くない、悪いのはボクの方」
この1週間誰からも話しかけられなかったからのは単純で、話しかけるなオーラを出していたからだ。ボクは中学の時ある少女を傷つけた。だかこれから誰とも関わらず過ごしていこうと決めた。
なのに、この子はどうして……
「そんなに裏のない純粋な目でボクのことを見るの、ある意味ボクは君みたいな人が1番苦手かも」
緋瑞が何の事を言っているのか分からない七海は困った様子で首を傾げる。その一つ一つの動作が可愛かった。
「よく分かんないけど一応ごめん?」
「別に謝んなくていいよ、それより、君はボクをどうしたいの?確かにボクは秘密を隠してる。けどそれを君に言うことは出来ない」
「…………」
七海はぎこちない笑みを浮かべる。
まさかこの子は後先何も考えずに話をしようと言ってきたのか?とんだお節介がいたものだ。
「大丈夫!こう見えて私口は堅いから!誰かに言いふらすなんてこと絶対しないから!」
「そんなんで信用出来るわけ無いじゃん、そろそろ帰っていいかな、あんまり遅くなるのは嫌なんだけど」
緋瑞は七海と目を合わせずそう言った。
このままじゃダメだ!きっと緋瑞さんはこのまま二年間誰とも関わらない悲しい学校生活を送ることになる!
そんなの、そんなの私は嫌だ!
七海は立ち上がろうとする緋瑞の肩を押さえてそのまま自分の方に向かせる。
「……っ!」
数センチの距離にある七海の顔を見て、緋瑞は驚いた表情を見せる。
「なななな、何!?」
「……え?」
先程の会話からは想像も出来ないほど、緋瑞は頬を赤くして動揺を隠せずアワアワしていた。
■
まさか緋瑞にここまで動揺されるとは思っていなかった七海は少し違和感を覚える。
そう、今の緋瑞からはまるで好きな人にいきなりこれをやられたような、そんな恥ずかしさを感じられた。しかしそれはどういうことだろう?私は女で、好きでもないのに。
「緋瑞さん!やっぱりダメだよ!本当の自分を隠して過ごすのは!高校生は人生でたった1回しかなれないんだよ!それなら楽しまないと損だよ!」
いつもの調子を取り戻してきたのか緋瑞は少し抵抗しながら言葉を返す。
「そんなの知らないし、それにボクには高校生活を楽しむ権利なんて無い」
「どうして?一体どんな秘密を隠してるの?」
「…………だがらっ……っはぁ……もういいよ。君しつこすぎるから言うよ」
緋瑞は自分の肩を掴む七海の手を掴む。
七海は急に言う気になった事にキョトンとしている。
しかし────────
「ボク、“同性愛者”なんだよね」
七海の耳元で緋瑞は囁くように言った。
予想外の返答と耳元で言われたことで七海は硬直する。
俗に言うLGBT。世間では最近よく話題なっている話だが、実際に会ったのは初めてだった。
しかし、硬直したのは耳元で聞き慣れない言葉をいきなり言われたからで、決して緋瑞を引いたからでは無い。
「……ありがとう、言ってくれて」
七海は笑顔でそう返す。
「引いたりしないんだ」
「もちろん、さすがに過去に人殺ししましたーとか言ったら引いてたけどー、同性愛者程度じゃ引かないよ」
「程度、ね」
そういうのも仕方ない。この子には同性を好きになる気持ちが分からないんだから。それに、言ったのは賭けだった、もしかしてこの子なら本当に受け入れてくれるのではないかという。
「ねぇ、これからどうする?ボクの秘密を聞いて、まさかまたどうしようなんて言わないよね?」
緋瑞は脅すような口調で七海に寄りながら言う。
「え、ちょと近いで、す……」
相手の吐息を感じられる程、2人の距離は近づいていた。
クールでかっこいい印象の緋瑞に見つめられた七海は、だんだんとその表情にのめり込む。何も考えられなくなる。
「ボクをその気にさせた責任はとってくれるよね?」
この人からはもう逃れられないな、と。たった一言で確信させられた。
「あ、は、はぁい」
その返事を聞いて、緋瑞はふっと笑って席を立つ。
今だ七海は動くことが出来ずにいた。
「じゃ、またね、七海」
こうして2人の関係はクラスメイトから友達以上の何かに変わった。
■
その日の夜。
七海はお風呂の天井をぼんやり見上げながら思考する。
(私、これからどうすればいいんだろう。責任とってって言われたけど……)
具体的に何をすればいいのかは何も分からなかった。
でも、私が無理矢理聞いたようなものなんだから、ここで嫌だなんて言ってはいけない。
(とりあえず柳ちゃんに相談……緋瑞さんのことは言わないで相談してみよう)
お風呂上がり、可愛らしい内装の自分の部屋で、早速七海は柳にどうすればいいか聞いた。
『恋愛相談か〜、生憎私も恋愛未経験なんだよねー、だからごめん、アドバイスになることは言えないかな』
まぁこう返事をされるとは何となく分かっていた。柳とは小学校からの付き合いだ、彼氏がいた事がないということは分かっていた。それでも柳なら何か参考になることを言ってくれると思った。
「だよねーごめんねー変なこと聞いて」
『うん、それは全然いいけど、でも、その人の言うことを聞くのは最低限の責任なんじゃない?何もしない事が一番だめだと思うよ』
やはりそうだ、何もしないなんて論外。やるなら全力で!
「ありがとう柳ちゃん!私頑張るね!」
『う、うん、何を頑張るのか分かんないけど、とにかく頑張って!』
柳の声援を聞いてから七海は電話を切る。明日から何をするかを頭に思い浮かべながらベットに潜った。
■
「え?で、デート?」
「いや、ただ一緒に出かけようって言っただけなんだけど」
翌日の放課後、昨日と同じ席で七海と緋瑞は話をしていた。早速言われたことは明日一緒に買い物に付き合ってほしいと。
「うん、買い物はぜんっぜん大丈夫だけど、いきなりだね」
「キミ、昨日なんでもするって言ったよね?これからいっぱい言うこと聞いてもらうよ?」
「なんでもするって私言ったっけ??」
不思議と嫌な気持ちは無かった。むしろ、何をさせられるのか楽しみなような、こんなかっこいい人と一緒に過ごせて嬉しいような、そんな気持ちになった。
なぜなんだろう、こんな気持ち初めてだ。確かに言うことを聞くとは昨日決めたことだけど……
“同性愛者”昨日の緋瑞の言葉が頭によぎる。まさかね、私はそんなんじゃないし、緋瑞とはまだ会って1週間なんだから、そんなはずがない。
「さぁ、言ったんじゃない?まぁ言ってなくても付き合ってもらうけどね」
自分の立場が圧倒的に上だという事実を存分に使いながら、緋瑞は逃がさないと言う目付きで七海を見る。しかしそんな目をしなくとも七海は逃げようとは微塵も思っていなかった。
「うん、わかったよじゃあどこ行くか決めよう!」
七海が元気にそう言うと、緋瑞の心はなぜかチクッとした。
2人は明日の予定について楽しそうに話し始めた。
──────────
偶然、図書室にいた七海の友人グループのひとりがそれを見た。
七海がクラスメイトと仲良くしている、ただそれだけなのだが……
「ふふ、面白いの見ちゃった!」
友人はまるで浮気現場を見つけたような気持ちでその場を離れた。
いつもの放課後なら七海は友達と帰る。しかし、今日は用事があると言って一人で先に帰った。ところが結果はこれだ。なぜわざわざ用事があると嘘までついて緋瑞と一緒にいるのか、気にならない訳が無い。
この事は七海の友人グループにすぐに広まった。
そんなことは露知らず、七海と緋瑞は一緒に過ごす時を増やしていった。
■
季節は6月、どんどん高くなっていく気温とそれに比例して増えていく憂鬱さを感じながら、今日も今日とて平穏な日常を過ごす。
大会が近づいてきた運動部はあさひが丘高校の広大な土地を移動して各部練習に励んでいる。
「こんなに暑いのによく練習できるよね〜」
放課後、校門に向かって歩く七海はグラウンドでバッティング練習をする野球部を眺めながら呟く。
その隣を歩く七海より身長が高い緋瑞は言われて同じ方向を見る。
服装はとっくに夏服で、クールな見た目の緋瑞には真っ白い半袖の制服と膝上程の丈のスカートが非常に似合っている。
そして水色の髪と汗ひとつかいていない白い肌を見るともはや異様な雰囲気さえ感じられる。
着ている服は同じで髪型も似ている二人だが、圧倒的に違うことが一つある。それは女性、特に七海くらいの年齢なら一番気にする、胸のサイズだ。
「まぁこの学校野球部強いからね、ほら、去年は県大会準優勝だったじゃん?」
緋瑞はぺったんな胸を七海に向けながら言う。
二人の関係はあの日からゆっくりと進展し続けていた。
既に何度も遊んだり、家にも行っている。
「あーそういうば応援とかもガチだったなぁあれ今年もやるのかー」
男子からすれば理想の胸を持つ七海は嫌そうな顔をする。
今年は絶対に全国へ行くため、死ぬ気で練習しているが、応援する側も側で適当な応援はしない。毎年県のニュースで取り上げられる伝統のようなものだ。
そんな野球部を横に二人は西門をくぐる。
都市部にあるこの学校は、東門から出れば少し歩いたところに駅があり、放課後は多くの生徒がそこでたむろする。逆に西門の方向には閑静な住宅街が広がっている。
とことこ並んで歩く二人、その距離は変な間は空いておらずまるで恋人のように近い。
──トンッ
並ぶ二人の手がぶつかった。
緋瑞の手は驚くほど冷たかった。
いやそれよりも、
「あっ!ごめん!」
七海は慌てて手を自分の顔に近づける。
「別にそんなに動揺しなくていいでしょ?遊んでる時はいつも繋いでるんだから」
「うん、でも学校ではそういうの見せないって決めてるからさ」
「ここは学校じゃないよ?」
緋瑞の言う通り確かに今いる場所は学校では無い。2人は他の生徒から変な目で見られるのを避けるため、学校ではあまりそういう姿を見せないようにしていた。
「あ、確かにそうか、あはは、ごめんごめん」
七海は誤魔化すように笑う。そして話を変えるため別の話題を話す。
「そういえばさっき言ってたキャンプの件どうする?」
放課後、七海は友達グループの一人からキャンプに行かないか誘われていた。他に誘いたい人がいるなら誘っても構わないと言われたため、七海は先程緋瑞をキャンプに誘った。
キャンプと言っても車で行ける場所で面倒なことは無い。
「みゆきちゃん結構金持ちだからさーいいお肉とか食べられると思うよー」
「肉で誘ったらボクが行くと思ってるの?」
「あいやそういう訳じゃないんだけど……行かない?」
七海は可愛げに小さな顔をコテっと傾げる。
か、可愛い。緋瑞は内心そう思った。だから、ここで行かないなんて言うはずも無かった。
「いや、行くよ」
緋瑞は顔を逸らして言う。
「もーツンデレなんだからー」
「うるさい、ボクはツンデレなんかじゃない……」
こうして二人はキャンプに行くことになった。
■
6月中旬
「もしもし柳ちゃん?ちょっと聞きたいことあるんだけどさー」
七海は例のキャンプのことを言う。
『ごめん、本当は行きたいんだけど親が厳しくて、多分勉強しろって言われるから』
「ウソっ!?柳ちゃんもう受験勉強やってんの!?さすがだな〜」
上級大学を目標としている柳は2年生から受験勉強を始めていた。なのでキャンプには行かないと言う。
「そっかー分かった!勉強頑張ってね!」
『うん、そっちもキャンプ楽しんで来て』
■
キャンプ当日。
「うん!絶好のキャンプ日和ね!」
七海の友人であるみゆきは父親が運転していた車から降り、体を伸ばす。
それに続いてぞろぞろと人が降りてくる。
あさひが丘高校の同級生計9人がキャンプ場に来ていた。
「いやーほんとだねーみゆきちゃん、ちゃんと日焼け止め塗った?素敵な肌が日焼けしちゃうよ?」
サラサラヘアーの金髪の男子はみゆきのことを心配するように見つめる。
「心配ありがと!たくまくん!」
二人の会話を他の人達はフーフーとおだてる。それを横目に七海と緋瑞は荷物の入ったリュックを背負って外に出る。持ち物はそれほど多くなく、緋瑞の背負っているリュックは出掛ける時にも使うものだ。
緋瑞は燦々と輝く太陽光を手で遮る。
あさひが丘高校から車で約一時間、キャンプにはもってこいの立地にあるこのキャンプ場は、みゆきの親戚が経営しているもので、今日はみゆきが頼んだことで貸切となっている。
ここではキャンプの他に近くの森でハイキングや川で釣りをすることも出来る。
まずはテントの設置だろう。このキャンプには男子もいる、また貸切でテントや場所に余裕があるためテントは三張り建てることになっている。
しかしこれが苦戦した。
「待って七海、その杭はそこじゃないよ」
「えぇ!?あ!ほとんどーごめんね碧ちゃん」
「いいよ別に、私も慣れてないから」
テントなど滅多に建てることが無いので二人は何度も間違えやり直しながら建てていった。
■
「七海〜そっちどんな感じー」
そんな中みゆきは涼しそうな薄着の服装でアイスを舐めながら様子を見に来た。その目は様子を確認しに来た、と言うよりどんなもんか蔑みに来たような目だった。
「うん、もうすぐ終わるとこだよ、みゆきちゃんの方はもうできたの?」
七海はタオルで汗を拭いながら答えた。
作業に集中していて周りを全然見ていなかったが、今見てみると既に他2張りは建て終えていた。
「まぁね、たくまくんが手伝ってくれたから」
たくまは建てたばかりのテントの中で汗を拭きながらアイスを食べ、友人と写真を撮っていた。
手伝った、というより建てたという方が正しい。しかしたくまはそれについては全く嫌がっていない。
「これ建て終わったらみんなで川で遊ぶことになったから七海も準備しといてね」
「うん、りょーかーい」
「…………緋瑞さんは、キャンプの経験あるの?」
唐突にみゆきは黙々と作業していた緋瑞に話しかける。
「別に無いけど、なんで?」
緋瑞は一旦作業の手を止める。
「いや、ただ何となく慣れてるなーって思っただけ、まぁ頑張って。私は休憩してるから」
二人の関係はただのクラスメイトというには少し関係が悪かった。しかし明らかに敵対している感じは無く、気にしなければなんの問題も無い。
だがそんな二人の関係は七海とって嫌なものだった。
みんなと仲良くして欲しい、これが七海の一番の願いだった。
■
全てのテントを建て終えたい後、一同は近くの川に訪れていた。
水は川底まで見えるほど透き通っていてさらに流れは緩やか、川遊びをするには最適な川だった。
「うん、ちょっと冷たいけど中々気持ちいいわね」
各々川に入り自由気ままに遊び始める。川で遊ぶなんて滅多に無いこと故、女子達はまるで小学生に戻ったかのようにはしゃぐ。
一方男子達は少し上流で魚釣りをしていた。
「じゃボク達も入ろうか、七海その服似合ってるね……」
七海は少し照れくさそうに笑う。
「うん、ありがと。碧ちゃんも似合ってるよーまさに名前の通り今の碧ちゃんは青そのものだよ!」
二人は水着の上に生地の薄い服とショートパンツといった格好で、川遊びをする女子高生の象徴のような格好をしている。
「うん、ちょっとよく分かんないけどありがと、じゃ、早速入ろうか」
緋瑞は透き通る川に足を入れる。今の気温的に川に入るには少し冷たいと予想していたが、いざ入ってみるとそれは杞憂だった。
強い日差しの中テントを張っていたため暑かった体温は徐々に下がっていく。さらにこの川は木々に覆われているため日差しが直接当たるところは川の反対側だけだ。
「よーし?遊ぶぞぉぉ──うわっ!」
気合を入れて川に入ろうとした七海だったが、濡れてた石に足を掬われ盛大に転ぶ。
「ちょ、七海大丈夫!?」
緋瑞は慌てて七海の元へ駆け寄る。幸い七海に怪我はなく直ぐに立ち上がった。
「ごめんごめんちょっと転んじゃった」
七海は頭をかきながら誤魔化すように笑う。
「もう、本当に七海は可愛いんだから」
緋瑞はほっとしてからまた川に足を入れる。それに続いて七海も入り二人は川遊びを楽しんだ。
■
時はあっという間に過ぎていき、時刻は22時。
川遊び、ハイキング、BBQに花火、9人は1度しかない高校2年の青春を満喫した。そして疲れきった一同は遅くまで起きず割り振っていたテントに入る。
七海と緋瑞のテントは二人だけである。
「今日は楽しかったねー碧ちゃん」
寝袋に入り、七海は寝そべりながら正面にいる緋瑞に話しかける。
緋瑞も同じような体勢で腕に顔を沈める。
テントの中は淡いランタンの光に照らされてどこか雰囲気がある。緋瑞の水色の髪はその光に照らされ美しく輝いている。
「そうだね、思ってた以上に楽しかった」
今日のことを振り返るとしかし、一つだけ気がかりなことがあった。
それは七海と友達グループの関係だ。なんとなくだが、4月に比べてどこか距離が空いたような、それだけがずっと気にかかっていた。しかしそんなこと七海に言えなかった。
そして、バーベキューの時、誰かがこのテントに入っていったことも。何をしていたのかは分からないが、何故わざわざこのテントに入ったのかは気になっていた。
しかしまさかこれが後にあの悲劇を生むとは、誰も予想出来なかった。
「でも今が一番楽しいな」
サラリと言った緋瑞の言葉を、七海は理解するのに時間がかかった。
そしてだんだん顔を赤くする。
「え、えとそれって、そういうこと?」
「ふっ、そういうことだよ、七海」
緋瑞は相変わらずクールで直視されるとうっかり惚れてしまいそうな笑みを浮かべて七海を見る。
「うぅぅ!緋瑞ちゃん大好き!このまま一生2人っきりで過ごしたいよぉー」
そんな熱々カップルの様な会話をしつつ二人はだんだんと眠りについていった。
■
七海は目を覚ました。スマホで時刻を確認すると23時27分。どうやら慣れない環境で中々寝つけられないようだ。
少しトイレに行きたいと思ったので七海は正面で眠る緋瑞を起こさないようにゆっくりとテントから出る。
冷たい空気が漂う外には驚きの景色が広がっていた。
『満天の星空』とは正にこれを指すのだろう。見渡す限り夜空には星が見える。
「綺麗……」
七海は一枚、スマホで写真を撮る。
明日碧ちゃんにも見せようと決めながら歩いて一分ほどのところにあるトイレに向かう。
夜のテントには街灯が所々にあるだけで、一人で歩くには少し恐ろしいほどだ。
そんな中。
────────誰かの声が聞こえた。
「ダメだってこんなところで、誰か来たらやばいっしょ」
「大丈夫。こんな時間にこんなところに来る人なんていないよ」
それは七海の友達のひとりとたくまの声だった。
トイレの入口には扉がついていないタイプで男女の入口は左右に分かれている。近くまで来た七海はその声が女子トイレの方から聞こえることに気づく。つまりこのままトイレに入れば会話をしている二人は確実に人がいることに気づく。
具体的になんの会話をしているのかは分からないが、ろくでもない話なのはすぐに分かった。
「それにいいの?みゆきのこと」
友達Aは改めて確認するように聞く。だが本気で気にしている様子は無かった。
「いいって別、あいつはただの金鶴なんだから。そんなことより──」
聞きたくなかった。
これがたくまの本性だったのか。
飛んだクソ野郎だ。
だが、このことをみゆきに言ったところで、何の意味も無いだろう。それに、みゆきだけでなく友達もたくまも、悲しむ。七海にとってそれは嫌だった。
(見なかったことにしよう……)
七海が一番嫌いなことは友達が傷つくことだ。だから七海はこの事を自分の心に閉まっておこうと決めた。
(それに、そっちの方がみゆきちゃんにとってもいいよね、こんな事実、知りたくないだろうし)
トイレが出来なかったことは少し困るがまぁ仕方がない。七海はテントに戻る。
出る時と同じようにゆっくりと開けて寝袋に潜り込む。
何も見ていない。それだけを考えながら七海は目を瞑った。
■
「なんかさ、最近七海変わったよね」
「それな、なーんか私達なんかどーでもいいって感じ?」
「緋瑞だっけ?あいつとばっかずっといるよね、七海の親友って柳さんだったよね」
「そういえば柳さんと七海が話してるの最近全然見てないわ。こーれ柳さんかわいそすぎる」
「ねぇどうするみゆき、明日柳さんに聞いてみる?正直な気持ち。それであれなら私達から七海に言おうよ、柳さんのことも気にかけろって」
「そうね、言ってあげましょ」
青空が見える放課後の教室。開いている窓からは入ってくる風で白いカーテンが靡く。七海の友達グループは教室の後ろの方にあるみゆきの机を囲んで、イタズラする前の子供の目付きで話をしていた。
■
6月上旬。放課後。
「なんかごめんねーこんな面倒なこと手伝わせちゃって」
七海はテーブルに置かれているメガホンの内側に、番号の書かれたテープを貼りながら隣で同じ作業をする緋瑞に声をかける。
今二人が作業しているのは近々行われる野球応援で使うメガホン整理だ。全校生徒の多いあさひが丘高校ではメガホンの紛失を防ぐためにそれぞれに番号を付け管理する。
その整理を応援委員会と生徒会が行っている。
緋瑞は七海に頼まれ手伝っているが、もちろん頼まれなくとも手伝っていただろう。
本格的に気温が高くなってきたこの頃だが、幸い作業している場所は生徒会室で、クーラーをつけているため暑さを感じることは無い。
「それは別にいいんだけど、途方もない量だね、これほんとにやる意味あるの?」
と言いつつも一番作業が早いのは緋瑞だった。
本当に彼女は何をするにも優秀で、スタイルもよく顔も良い、七海にとってもはや彼女は何よりも大切な人になっていた。
そんな緋瑞もさすがにこの量には愚痴を漏らした。
「うん……これはさすがに多過ぎるよね……」
七海は絶望した様子で目の前の悲惨な光景を見る。
大きなテーブルにはとんでもない量のメガホンが置かれていた。
作業を開始して1時間半、残りは三分の一といったところで整理済みのメガホンが壁を作っている。
「ほんと、教師ってバカだよね、普通に考えてこんな作業時間の無駄でしょ」
「まあまあ、こうして二人で共同作業することなんてあんま無いんだからいいんじゃない?」
学校ではあまり二人で何かをすることは無い。それは緋瑞との関係を誤解されないようにするために学校ではあまり関わっていないようにしているからである。
しかし。
二人が思っている以上に二人の関係は隠せていない。
なぜなら傍から見れば付き合っているようにしか見えないから。
「うん、確かにそうかも」
仲良く並びながら緋瑞は穏やかな笑みを浮かべる。
こんな時間まで学校に残るのは珍しい二人だったが、窓の外からは野球部がボールを打つ音が響いていた。
「ねぇ、これ終わったら私の家来ない?」
「え? 別にいいけど、碧ちゃんから誘うなんて珍しいね」
「まぁそうかもね……なんか、本当に幸せだなって、今の関係が」
緋瑞は昔の事を思い出す、その表情は暗かった。思い出したくない過去。
「……どうしたの?碧ちゃん……」
自分の過去の事をまだ七海には言っていなかった。
そう、まだ。七海との関係を続けるにはいつかは必ず言わなければいけないあの過去。
しかし、これを言うのはあまりにも勇気のいることだ。
「…………七海、あのさ、ちょっと話があるんだけど、聞いてくれる?」
「え、あ、うん。なに?」
七海は作業の手を止めて緋瑞の方を見る。
「うん、ちょっと長くなるかもしれないからそれ続けながらでいいよ」
緋瑞は七海から顔を背け、独り言のように話し始めた。
■
中学2年の時、ボクはあるクラスメイトのことが好きになった。そうだよ、その人もボクと同じ女子生徒。つまり女が女を好きなった。
でもその人は結構人気者でさ、一緒に行動する人も多くて私もその一人になっただけだった。
それは嫌じゃん?他の人たちはただの友達としてその人の近くにいるけど、ボクは本気で好きだから一緒にいたいの。
だから私は告白した。
「私と、付き合ってくれない?」
「えと、それってどういう……?」
その人は困った笑みを浮かべる。
場所は誰もいない所を指定したはずなのに、なぜかクラスメイトが隠れている気配がした。うん、前話した通りボクはちょっと武道やってたかそういうのは何となく分かるんだよ。
「もちろん本気だよ。男が告白するのと同じ意味」
「…………」
その人はじっくり黙考した。それからこう言ったの。
「ごめんね、そういうのはちょっと……」
あははーとその人は苦笑いした。そして後ろからもクスクスと笑い声が聞こえた。
その人は何にも悪くない。悪いのは全部ボクなんだから断られても悔しいなって思っただけだった。でもさ、後ろで笑っていた奴らにはイラついたよ。なに人の不幸見て笑ってんだって。
次の日からクラスメイトからいじめられるようになった。ビックリしたよ、この阿呆共は自分達がどんだけくだらないことしてるのか分かんないのかって。そしてこう呼ばれるようになった────『異端児』
そしてその人とは全く関わらなくなった。目が合っても、申し訳ないことしたな、と思うように逸らすだけで。
ある日、いつものようにボクが暴言を言われているとその人はいじめグループにこう言った。
「もうそんなことはやめて」って。
そして道端に捨てられている子猫を見るような慈愛の目をしながらボクにこう言った。
「もう前の事は忘れるから普通に仲良くしよ?」
あぁ、この子はボクの事をなんにも分かっていないって。ボクがどれほど悩んだが、告白するってことはボクが同性愛って告白するってことだから。
そして────────気がついたらボクはその人を殴っていた。
多分無意識だったんだろうね、その人は痛がってたというよりただただ驚いていた。それからボクはいじめグループからも何もされなくなって、まるで幽霊のように残りの中学を過ごした。
今思い返すと狂ってるとしか思えないね。当時のボクはその人が好き過ぎて自分以外の事が何も考えられなかったんだと思う。だっていきなり女の人から『好きです付き合ってください』なんて言われても『はい』なんて言えるわけないしね。
そして高校生になって、一年の頃は誰とも関わらず過ごした。そして二年生になって、七海と出会った。
■
緋瑞は話し終えたのか、沈黙して七海の方を見る。
「これがボクの過去。今まで隠しててごめん。ねぇ七海、こんなボクの事、今でも好き?」
同じ過ちは繰り返さない。ここで七海が嫌いと言うのなら、ボクはもう七海と関わるのは絶対やめようと思っていた。しかし、
「碧ちゃん、私もさ、その頃の碧ちゃんと同じ気持ちくらい今の碧ちゃんが好きだよ、この気持ちはもう死ぬまで変わらない。だから嫌いになんて死んでもならないよ?」
「…………」
緋瑞は七海が天使に見えた。
七海の頭を撫でる。すると七海はコテっと首を傾げる。彼女の全て好き。もう七海のいない世界なんて考えられなくなっていた。
「ありがとう、七海」
緋瑞は今まで見せたことがない程の満面の笑みで七海に笑いかけた。
■
ある日の放課後。
七海の親友である柳は七海の友人グループに話しかけられていた。
「ねぇ柳さん、最近七海とあんまり話せてないよね?」
帰宅しようと身支度をしていた柳はいきなり話しかけられ驚いた表情をする。七海の友達グループが話しかけてくることはあまりない。だが仲が悪いという訳でもない。むしろ七海と柳との関係を知っているからこそ少し気を使っている。
「え?あ、うん……そうだけど……」
「緋瑞とばっか話してるよね……あんまり嫌なら私から言ってあげようか?」
友人は顔色を伺うように話す。
…………柳は少し考える。それは彼女達が緋瑞の過去を知っているかどうかだ。
緋瑞の過去を知りながら言ってくれているのと、単純に七海と話せていない私のことを思って言っているのでは全く意味が違う。
過去を知って言っているということならこの人達は『七海の心配』をしていることになる、だが、知らないで言っているということは『私の心配』をしているということだ。心配してくれるのはありがたいが、私の心配はしなくてもいい。
でも、それを確認するには緋瑞の過去を教える必要がある。
他人の黒歴史を言いふらすなどしたくない。
「うん、気を使ってくれてありがとう、少し言ってくれたら助かるかも」
友人はその答えを聞いて何か悪意のある笑みを浮かべる。
まぁどちらにせよこのままにしておくのは七海にとって良くないだろう。
なんせ七海と一緒にいるのはあの緋瑞なんだから。
■
緋瑞は柳の事を知らない。所詮ただのクラスメイトという認識だ。しかし、柳は緋瑞の事をよく知っている。それはただ同じ中学だからという訳では無い。
中学の時、緋瑞が告白し、振ったクラスメイト。その友人の一人が柳だったのだから。
緋瑞が何をしたのかを柳はよく知っている。柳から見れば緋瑞は勝手に告白し勝手に断られた挙句にその子を殴った。そういう人間なのだ。
嫌いとか苦手とかそういうものではなく、緋瑞には関わらないべきだと、そう思っている。だから七海が緋瑞に関わっていることが、心配で心配でたまらなかった。
「七海、なんで緋瑞となんかと……」
柳は心底心配した様子で学校を出て行った。
────それでも緋瑞の過去を言わなかったのは柳の優しさ、それだけだった。
■
8月
最高気温32℃。天気は快晴。最悪の野球日和だ。誰がしたくてこんな日に外でスポーツをしなければいけないのか。
「甲子園予選、決勝戦、ね……」
緋瑞はスタジアムのベンチに座りながら呟く。なぜか両隣に人はいない。幸い席は日陰なのであの灼熱の日差しを浴びることは無い。
甲子園予選は決勝戦まで順調に行われ、あさひが丘高校はここまで進むことが出来ている。
大きめのスタジアムの客数はスタジアムの半分を埋めるほどだ。
あさひが丘高校の永遠のライバル、日中太陽高校の応援団は広大な観客席の一部を埋めつくしている。もちろんあさひが丘高校の全校生徒も多く、毎年両校の応援はニュースになる。
さらに、去年敗北したあさひが丘はさらに熱気ついている。今年こそは、絶対に日中になど負けないと。
試合開始まであと10分弱。七海は生徒会が応援委員の手伝いをするために今は席を外している。さらに七海は副会長のため、他のメンバーの指示役でもある。
「…………それにしても暑い」
持ってきた水筒はもう中身が半分ほど減っている。これは後で買いに行かないとダメかな、と思ってると、 「あ、碧ちゃんおまたせー!」
外にいるだけで汗が吹き出る。七海は汗を拭きながら緋瑞の隣に座り水を飲む。
「うん、おつかれ、試合始まったら応援に行く感じ?」
「ううん、私の担当は5回表からだからそれまでは一緒にいられるよ」
七海は嬉しそうに緋瑞の隣に座る。こんな暑い中密着するように座るので余計暑く感じるがそんなことはどうでもいい。今は七海と一緒にいられることが何より嬉しかった。
なにせ────────
「いやまた七海と馴れ合ってるじゃん、アイツまじなんなん」
「ほんとにね〜うわ〜七海かわいそー」
喧騒なこのスタジアムだが、その陰口だけは意識しなくても聞こえてきた。
ひと月ほど前のメガホン整理から、今まで傍観の立場だった七海の友人グループは積極的に二人に関わるようになった。
「…………あんな奴ら気にしなくていいよ」
「うん……」
緋瑞は優しく、しかしどこか強い口調で七海に言う。
そして通路を挟んだ後ろの席に座るその人達を紅い目で睨む。
それからその人達はニヤニヤ笑って何かを話す。
だが七海は気にせずにはいられなかった。
(柳ちゃん、嘘だよね、ずっと親友だと思ってたのに)
一週間前のことを思い出す────────
七海はほとんどいじめのようなものを受けていた。今まで友達だと思っていた人達からのそれはただのクラスメイトから受けるそれより何倍も辛い。
私はこんなに簡単に切り捨てられおもちゃにされる人間だったんだと、自分を否定し自分がなんなのか分からなくなった。
だが、緋瑞を心配させないために吐かれた暴言や叩かれた事、陰湿なイタズラの事も言わなかった。
そして七海はなんでこんな事するのか聞いた。その答えとして帰ってきた言葉は、
「だって柳さんがやってって言ってたから、七海の事、心配してたよ?」
信じられなかった。あの柳ちゃんが、こんな事しろって言うなんて……
そして、今まで緋瑞に見つからないようにやっていたであろういじめは遂に緋瑞に見つかった。
何人もの女子に囲まれ涙を流す七海を見て、過去の自分の姿を重ねる。
トラウマ。
緋瑞は叫んだ。その日から、『七海のことは命に変えても守る』と誓った。
────────
こんな状況だからこそ、今七海と一緒にいられることが幸せだった。正直もうずっと七海から離れたくなかった。
ライトブラウンのミディアムボブ、長いまつ毛にクリっとした目。小柄な見た目なくせに嫉妬してしまいそうな立派な二つを持っている。こんな可愛い彼女をなぜいじめるのか、緋瑞は一生分からないと確信していた。
そして、いよいよ待ちに待った戦いが始まる。
「只今から、甲子園予選、決勝戦を開始します」
アナウンスの声が鳴り響く。それから数秒して両ベンチから選手が走ってグラウンドに向かう。
審判も並び整列。一瞬の静寂から……
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
サイレンが開始の合図を街に響かせた。
早速観戦席からは応援や色んな声が混じり喧騒に戻る。
「やっと始まったね、今年は勝って欲しいなぁ」
七海はメガホンを片手に守備位置に向かうあさひが丘高校の選手を見る。
「そうだね、日中高になんか負けたくないよね」
緋瑞は日焼け止めを塗りながら答える。ちなみに日焼け止めはさっきも塗っていた。
「七海は野球好きなの?」
「うーん、スポーツ自体あんまり見ないんだよねー、碧ちゃんは?」
「ボクもあんまり見ないかな」
「でも碧ちゃん運動神経すごい良いよねー私も碧ちゃんみたいに動けたらなー」
今は守備なので全体での応援では無いためこうして話をすることができる。攻撃に移れば話なんて出来ないほどの大音量の応援が行われる。
「運動神経が良くてもそんなにいい事なんて無いよ」
「えーそう言うものなのかな?」
「そういうもの」
そう、これでいいのだ。こんな何気ない会話をずっとしていたい。それを望んでいる。
■
3回表。両チーム動きはなく、未だ0-0。
実力は互角だった。この時点でどちらが勝つかは全く予想出来ずにいた。
2回裏にあさひが丘の選手がツーベースヒットを打った時は凄い盛り上がりを見せたが、相手のピッチャーも次は打たせなかった。
気温はどんどん上昇していき、太陽は先程まで日陰だった場所を照らし始め、七海と緋瑞の座っている観客席も太陽光に晒されていた。
「あ、暑すぎる……」
いやこれは相当キツい。太陽の日差しを受けると頭にタオルを置いて置かないと髪の毛が焼けるように熱くなる。
「緋瑞ちゃんってもしかして幽霊?なんで汗かかないで涼しそうにいられるの?」
七海の半袖の制服は既に汗でびっしょりだった。それに対して緋瑞は、なぜか汗一つかいていない。
「いや、ボクも暑いとは思ってるよ、汗が出ないのはそういう体質」
どういう体質なの……というツッコミも入れる余裕が無いほどの暑さだった。
■
動きがあったのは4回表だった。
「先制点入れられちゃったね」
4回表終わり。スコアボードは2-0になっている。
しかし周りから諦めの声は聞こえてこない。
「大丈夫!2点くらい絶対取り返すよ!」
その確信している言葉は、そっくりそのまま実現した。
4回裏、あさひが丘高校の攻撃で取られた2点をあっさりと返した。
■
「じゃあ私そろそろ行くね」
七海は席を立ち応援委員の手伝いに行こうとする。ちなみに今試合は休憩時間である。だがもうすぐ再開する。
「ん、じゃあボクもついでに飲み物買いに行こっかな」
ちょうど飲み物を飲み干した緋瑞はそう言いながらバックから財布を取り出そうとするが……
「あれ、財布が無い……」
緋瑞は常時バックに財布を入れている。それを無くしたことなど今まで一度もない。貴重品の管理はしっかりやっているつもりだったのだが……
「あれま、じゃあ私の飲んでいいよ」
七海はまだたっぷり入っている自分の水筒を渡す。
「え、でも大丈夫なの?」
「うん、私は財布あるから後で自販で何か買うから」
七海は可愛い財布を顔の横に持ってきてにっこりと微笑む。
それを見て緋瑞は安心したように笑う。
「じゃあありがたく飲ませてもらうよ。応援頑張ってね」
「うん!じゃあまた後で!」
■
応援委員の手伝いと言っても生徒会の仕事は応援をするだけでは無い。むしろ生徒の見回りや熱中症などで倒れた人の手当がメインだ。
気温は未だ猛暑日。大きな観客席は一度見回るのに時間がかかり体の水分はどんどん無くなっていく。
そんな中──
「はぁ、はぁ、はぁ……」
七海は倒れる寸前だった。
その原因は熱中症。
七海が委員として手伝いを始めてから一度も水分を摂っていなかった。なぜなら飲み物が無いから。
七海の悪いところは自分の責任を何よりも優先してしてしまうことだ。責任を果たすことは決して悪いことでは無いが、自分を犠牲にしてまで果たすのは間違っている。
だから委員として生徒の見回りを優先して、飲み物も買っていなかった。
緋瑞に飲み物を渡した時、買うと言っていたが。
試合は8回裏。スコアボードは4-3。点差は1点、ここまで来るとこの1点は勝敗を分ける大きな点となる。
っと、爽快な音を鳴り響かせあさひが丘がボールを打つ。
応援は一層激しさを増す。
しかし、ボールは守備のグローブの中に収まる。
いよいよ次は最終回だ。
だが、七海には今の状況ももはや分からなかった。
視界は白くかすみ、頭が宙に浮いているようにクラクラしている。
「あっ、やば」
多くの生徒が立ち上がり応援している中で七海は通路に倒れた。
■
『さぁいよいよ9回表!日中高はこのまま逃げ切り二連覇を飾るのか、それとも去年の屈辱を晴らしあさひが丘高校が勝つのか!』
テレビの放送でも実況者は盛り上がっている。もちろん会場での盛り上がりも凄まじい。
緋瑞は七海と一緒に見れないことを惜しみながらも試合に見入る。
ピッチャーがマウンドに立つ。この回で追加点を入れられるとあさひが丘からすればだいぶキツイ状況になる。なんとしてでも死守しなければ行けない。
っと、喧騒の中から応援とは違うどこか慌ただしい声と走っていく教師達が前を通った。何かあったのだろうか、しかし深くは考えず緋瑞はまたグラウンドを見る。
─────────────────
9回表終わり。電光掲示板には7-3と表示されている。
『あーあ、もう終わりだね』
『はぁ、マジあのピッチャー下手過ぎ、どんだけ打たせんだよ』
『あっちーもう帰らせてくんねー?』
『てかさっき誰か倒れてなかった?』
あさひが丘のムードは最悪。あと1回で最低4点。この点差を逆転できると信じている人は少なかった。
しかし、緋瑞はまだ逆転できると信じていた。
野球は最後まで分からない。よく聞く言葉だ。諦めるのはまだ早い。
(大丈夫、相手のピッチャーも猛暑にやられてる、全然逆転できる。それに、七海も応援してるんだから────)
「は?七海が倒れた?」
後ろから、緊迫したみゆきの声が聞こえてきた。
緋瑞は後ろを振り向き別の席から来た友人と話すみゆきを見る。その見開いた真摯な眼差しに気づいたみゆきは、苦しそうに頷いた。
いつもからかってくるみゆき達だったが、今はそんな状況では無いらしい。
あれだけいじめからかい嘲笑っていたみゆき達だったが、それでもみゆきとは中学からの友人。知り合いが熱中症で倒れて笑うほどクズには落ちていないようだった。
緋瑞は無意識に席を立っていた。もう試合なんてどうでもいい。とにかく今は七海に会いたい。
(七海、七海七海!)
七海……ボクのせいだ。ボクが七海の水筒をもらったから倒れたんだ……何嬉しがってたんだボクは、ほんとに、最悪だ。
もはや試合はどうでもよかった。
いよいよあさひが丘高校の攻撃が始まり、ボールを打ったのかやけに騒がしい。だが今はその歓声も緋瑞にはただの騒音でしか無かった。
そもそも七海が今どこにいるのかも分からない。いるとすれば医務室か、それもどこにあるのか分からない。
緋瑞は先程までかいていなかった汗を垂らしてスタジアムを走った。
■
5分後、教師に聞いてやっと医務室に辿り着いた。そこにはちょうど出てきたのか七海の親友である柳が扉の前に立っていた。
「柳さん……」
「緋瑞、さん……」
2人は目を合わせて立ち尽くす。
2人の今の関係は前より悪い。直接会話をすることは無かったが、柳が緋瑞の事を嫌っていることは何となく分かっていた。
「……七海の様子は?」
緋瑞は息を整えながら話しかける。
「うん、軽い熱中症だって。今は眠ってるけど……」
柳の顔が曇っていく。
「そっか、良かった……」
緋瑞は壁に寄りかかり安心したように息をつく。制服は汗びっしょりで今すぐにシャワーでも浴びたいところだ。
「ねぇ、緋瑞さん。もう七海に付き纏うのはやめてくれないかな」
いつも穏やかなで優しそうな雰囲気の柳は珍しく、怒っているような口調で言う。
「え」
メガネの奥にある瞳は悪者を見る目をしていた。
「あなたが七海と関わってから七海は変わった。ねぇ、なんであの子は友達からいじめられてるの?なんであなたとしか話さないの?昔はそんなんじゃなかったのに」
──そうか。やっぱりそうなんだ。ボクのせいなんだ。
「あなたは七海をどうしたいの?七海を不幸にしたいの?」
「違うっ!ボクはただ七海と一緒にいたいだけで……」
「その願望のせいで七海が不幸になっても?そのせいで七海が七海じゃなくなっても?」
柳から見れば今の七海は中学の時から全くの別人だった。正しく緋瑞に染められたように、変わってしまった。
緋瑞は悔しそうに顔を顰める。
「もう七海に関わらないで」
強い口調でそう言い、柳はその場を去る。
今更七海に会いたいとは思えなかった。これ以上七海を変えさせないために、関わるのをやめようと。いや、そんな簡単に決められることじゃないが、それでも。
「ごめん七海。ボクはやっぱり一人で生きるべきなんだ」
医務室から離れ観客席に出ると、スコアボードは7-8になっていた。
あの状況から逆転したらしい。
つまり、仇敵だった日中高を破り県大会優勝した。これは喜ぶべきことだ。しかし、今はこの歓喜の声が不快で不快で仕方がなかった。
■
柳は観客席に戻り虚空を見る。グラウンドではあさひが丘高校野球部が全校生徒に頭を下げる。
それに対して拍手喝采が起こる。そんな中柳だけは──
「七海ちゃん……」
先程の七海との会話を思い出す。
────────
七海が熱中症で倒れたことを知った柳は急いで医務室に向かった。
そこは冷房が効いていて涼しく、七海はベットの上で横になっていた。
「七海ちゃん!」
柳は心配した様子で七海の元へ駆け寄る。
「……っ、柳ちゃん……」
七海は辛そうな表情をしながら入口の方を見る。
七海にとって柳は親友だが、今は違う。
自分と緋瑞にいじめをやれと指示した張本人、そういう人だと思ってしまっている。
だが。
「大丈夫七海!?」
それは心から心配している声色で、ずっと昔から知っている柳の声で、いじめをしろと指示した人間の声では無かった。
「……うん、ごめんね心配かけて……」
七海は相手を心配させないように無理に笑う。
「ほんとだよ!七海は昔から頑張り過ぎ!もっと自分を大切にしてよ!」
────────そっか、私は何考えてたんだろ。あの柳ちゃんが悪いやつになる訳ない。こんなに私の事を思ってくれてるのに、どうして私は関わるのをやめたんだろう。なんで柳ちゃんの事を疑ってしまったのだろう。
「ごめんね、柳ちゃんのこと無視してて……これからは柳ちゃんの事も無視しないで過ごすよ。」
その答えを聞いて柳は少し顔を濁らせる。
「そっか、緋瑞さんとはこれからも関わる……」
「え」
柳が何を言いたいのか七海には分からなかった。というか多分独り言のように呟いてしまったのだろう。
「七海は緋瑞と一緒にいて楽しい?」
「え、うん、そうだけど……なに?」
七海の口調が少し強くなる。
「ううん、なんでもない。それより今は休んで、生徒会には私から言っておくから」
そう言うと柳は逃げるように医務室から出ていった。
…………柳ちゃん、なんで緋瑞ちゃんのことが嫌いなの?分からない、分からないよ。
────────もう緋瑞ちゃん以外信じない。
■
あの甲子園試合から次の週。
学校では野球が表彰され甲子園の表彰式が行われた。
あの逆転劇はなかなか忘れられるものでは無い。この1週間は試合の話題で持ち切りだろう。
そんな中七海は浮かない顔をしていた。
何故か、
数分前。
熱中症で倒れたということもあり、一部のクラスメイトからは心配の声をかけられた。
そしてそれはみゆきからも。
「七海……大丈夫?」
まさかみゆきから声をかけられるとは思っていなかった七海は少し驚いた。だが、もうみゆきを友達と思っていない七海は素っ気なく「うん」とだけ答えた。当然だ、あんなことをしてきたのだから。
「よかった……ごめん、話しかけて」
いつもと違うのはすぐに分かった。そもそもいつもなら心配なんてしてこないのに、みゆきに少し違和感を覚えながらも七海は教室の後ろの席に座る緋瑞の元へ向かう。
出会った時から変わらないクールでキリッとした目つきをしている。だが緋瑞に対しての認識は昔とは全く違う。今や七海にとって緋瑞は必要不可欠な存在と言っても過言では無い。
それほど七海は緋瑞に──ある意味支配されていた。
しかし、そんな緋瑞は────
七海がこちらに近付いてきたのを見ると席を立ち教室から出て行こうとする。明らかに避けているというのは一瞬で分かった。だが、なぜ?
「碧ちゃん!」
教室から出ていく緋瑞に向かって叫ぶ。そのまま振り向いてこない緋瑞に話しかける。その表情は困惑していた。
「またみゆき達から何か言われたの?」
「ううん、別に」
「じゃあどうして私を避けようとするの?」
「…………ごめん」
緋瑞は立ち去る。その背中は「ついてくるな」と言っている様だった。
七海は時が止まったようにその場に立ち尽くす。
(どうしたの、碧ちゃん、私、何かした?)
■
あれから七海と緋瑞が一緒にいることは無くなった。七海はあの日からずっと迷っていた。
なんで緋瑞が自分を避けるようになったのか、どうすればいいのか。自分は緋瑞にふさわしくなかったのか。分からない。
だったら直接話すしかない。今のこの曖昧な関係を続けるならちゃんと答えを出した方がいい、そう思い七海は放課後、緋瑞を呼び出す。
9月上旬。
9月に入っても気温は下がらず18時を過ぎてもまだ暑さを感じる。
正直緋瑞は帰ってしまうと思っていたので校門で待っていたことに少し驚いた。
「碧ちゃん……」
七海は泣きそうな声を出す。緋瑞は鞄を肩にかけて俯いている。
「七海……」
緋瑞の声を聞いて七海の脳裏には緋瑞と過した記憶が浮かび上がる。
春、初めての会話、家に泊まりに行ったこと、夏にはキャンプにも行った。他にも沢山の思い出がある。
七海にとって初めての恋人、そして、最愛の人。
七海は目の前にいる彼女を見ながら涙を流して言う。
「碧ちゃんは、私を嫌いになったの?」
嫌いになった、などと言うことは出来ない声色だった。こんな姿今まで一度も見たことがない。
それほど今の七海は平常では無いということだろう。
この問に対しての答えによって、これからの七海という人間との関係は信じられない程違う結果になると思った。
嫌いになったと言ったら彼女は病むのだろうか、好きと言ったら彼女は安心するのだろうか。だが、どちらを答えるにも覚悟を決めなければならない。
全ては自分のせいなのだから。彼女と関わってしまった、過去の過ちを繰り返した自分の。
だから緋瑞はこう返事をする
「うん。七海、ボクは今の七海が好きじゃない」
「……っ!」
七海は声にならない言葉を発する。
「そっ……か。ごめんね。私っ!」
「なんで謝るの、七海は何も悪くない。悪いのはボクなんだから」
緋瑞は横髪を耳にかけながら顔を逸らすように横を見る。
「碧ちゃんは何もしてないよ!それに私は大丈夫!何も気にしてない!」
七海は何となくわかっていた。緋瑞が自分を避け始めたのは友人との関係悪化を気にしての行動なのだろうと。
「ううん、もう七海には無理させたくないだけ…………七海、ありがとね、ボクの彼女になってくれてて」
…………?
七海には緋瑞が何を言っているのか理解出来なかった。
「好きな人を避けるのは辛いよ、でも、好きな人に無理をさせるのはもっと辛い」
だから、もうボクの彼女のふりをするのはいいと、緋瑞はそう言った。
しかし、七海はどこかキョトンとした表情を浮かべていた。
「…………緋瑞ちゃん、私が嫌々碧ちゃんの彼女だったと思ってたの?そんな訳無いじゃん」
「え?」
「私は心の底から碧ちゃんが好きなの。それに、碧ちゃんだって本当は私と別れたくないんでしょ?」
「は、はぁ?そんな訳、私は本当に七海と別れ────」
たん……────────
七海は一歩前に踏み出て緋瑞を抱き締める。
「嘘だよ。私さ、すっごい仲のいい人と初対面の人の心だけは読めるだよ?今の碧ちゃんの心は『七海と別れるなんて本当は嫌だ!七海と別れるなら死んだ方がマシ!』って思ってるでしょ?」
────────まさか、さっきまであんな空気だったのに、こんなにいつも通りの七海を見ているとなんだかバカバカしく思えてくる。
いやそれより。
「なにそれ……私はそんなツンデレじゃない」
「でもあながち間違ってもないでしょ?」
緋瑞は誤魔化すように七海から距離をとる。肌白い顔は若干紅くなっているように見えた。
「…………碧ちゃん、もう一度、最初から始めない?」
「最初から?」
「うん。最初から。だって碧ちゃんは今の私が好きじゃないんでしょ?それってつまり昔の私は好きだったってことだよね」
「…………七海にしては珍しいね、その通りだよ。七海は無理なんてしてないって言ってたけどそれでも少しはボクに合わせてたでしょ?だってあんなに仲良い柳さんと喧嘩してるんだから」
「うーん、そうかもしれないね」
確かに、あの医務室で柳に対して思ったことは昔じゃ絶対考えなかったことだ。だとすればやはり自分は変わっていたのだろう。
「じゃあ、改めてお願いします!」
七海は言葉では言い表せない程愛らしい表情をして告白するかのように握手を求める。
「うん。こちらこそ」
緋瑞も全ての人を惚れさせるような笑みを浮かべて手を取る。
薄明の空、偶然か必然か校門近くに他の生徒は誰もいなかった。そして世界は静寂に包まれている。
そんな中、二人は誓い合う。今度は間違えないと。幸せな日々を送ると。
だが、その誓いを見ていたのは世界で2人だけではなかった。
校門近くの建物にひっそりと七海の親友である柳が隠れていた。
実は緋瑞が七海に呼び出された事を柳は見ていた。嫌な予感がした柳はバレないようにつけた。しかし、その悪い予感は外れたようだ。
(緋瑞さん、あなたも変わったんだね。任せていいのかな、七海のこと)
どうやら中学の時の緋瑞と、今の緋瑞を同じだと考えるのは間違っていたらしい。
後で謝ろうと思いつつこれ以上二人の会話を聞くのはやめようとその場を去った。
「じゃ、パーッとカラオケにでもいかない?」
「うん!もちろんいいよ……あのさ、よかったらみゆきちゃん達と柳ちゃんも呼んでもいい?」
七海は顔色を伺いながら聞く。しかし緋瑞はとやかく言う事無く言った。
「うん、あれを繰り返さない為にはボク達の関係言っといた方が良さそうだしね、でも、大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫!どうせみんな暇だから!」
「あぁうん……そういう事じゃなくてその、関係とか」
勘違いした七海に緋瑞は気まずそうに聞く。
七海は「あぁそっちね」と頭を掻きながら誤魔化すように笑う。
「うん。大丈夫だよ。みゆき達だって本当はあんなんじゃないんだよ。今まで一緒にいてあんなことすることは一度も無かったからさ。多分あれも私が変わっちゃったからだと思う」
だから────────
「ちゃんと話せば大丈夫!」
大丈夫なんて、そんな無責任な言葉好きではなかったが、この自信に満ち溢れてる七海を見ると、本当に大丈夫なんだろうなと思ってしまう。
「……うん。わかった。じゃあみんな呼んで行こう!」
緋瑞は七海の肩に手をかける。
「うぁ!?どうしたの碧ちゃんらしくない」
緋瑞がこんなに自分から来ることは今まで無かった。
「七海は気づいてないかもしれないけど、実はボクあれでも相当我慢してた方だったんだよ?」
「が、我慢って……何を?」
七海は顔を赤くして真横にある緋瑞を見る。
「七海とデレデレすること」
「碧ちゃん……それ言ってて恥ずかしくない?」
「…………いいからさっさと電話して!ボクはカラオケの予約取るから」
二人は恋人、というより今は昔からの幼なじみのような関係に見えるが、お互い笑い合いながら学校を後にした。
正直、これが正しかったのかは分からない。だが、彼女がそう言ってくれるのなら信じよう。わたしは彼女が好きだから。
ご精読ありがとうございました。