「好きなように読めや」という作者の矜持
作品を書いたときに
「作品内の言葉だけでは説明足らずで、読者にうまく伝わらないかも」
という懸念を抱いたとします。
それならば「正確に伝えるために」もっと細かく描写をしたり、説明的な文章を足せば良いのですが、
あえてそれをしない、という選択があります。
「何から何まで細かく説明してしまうのは無粋だ」
「作品の味わいがなくなってしまう」
「読者の想像の余地を残したい」
と考えるからです。
何を読み取り、何を想像して何を思うか、読み手に委ねます。
そうすると作者の意図したものとは別の読み取り方をされることもあります。
そして意図したものとは違う反応をもらって、
「あー、そうじゃないんだけどなあ」
「あー、そっちと思ったかあ。そっちと思わせて、実はこっちなんだけどなー」
「あー、誤解されてるなあ」
などと思ったとします。
「説明しなくても分かってくれると思ったのに分かってくれなかった……」
このとき作者はどうするか、大きく分けると2つでしょう。
①作品本文とは別に(あとがき、感想の返信、活動報告、エッセイなどで)解説を書く。
自分はコレコレ、こういうつもりで書きました。これを表現したかったのです、と。
②なにもしない。
あくまでも「好きなように読めや」というスタンスを貫き通す。
個人的には
②、かっこいいやんと思うのです。
その昔、別サイトで純粋な読み専をやっていたときに、好きな作者さんがいました。
いつも楽しく読ませてもらっていましたが、とある作品で「どうしても分からない部分」があって、とても気になりました。
作品全体の感想としては「すごい、面白い」だったのですが、一点だけ腑に落ちない点があり、引っかかってしまったのです。
聞けば教えてくれるだろうと、安易に感想を書きました。
決して批判や文句と受け取られないように、「すんごく面白かったですが、一点だけどうしても分からない部分があり……」と。
すると、その作者さんから
「作品内で伝えられなかったことを、作品外で説明する気はありません。作品でうまく表現できなかったのは、ひとえに自分の力量不足であります。今後精進いたします」
なんとも職人気質のキッパリとしたお返事をいただきました。
「作品中で伝えられなかったことを、作品外で伝える気はない」
書き手の矜持を感じました。
しかし実際にこうもキッパリと言われてしまうと、突き放された感じがしてショックでした。
細かいことを聞いて怒らせてしまったかな。面倒くさい読者だと思われたかも。嫌な気にさせちゃったかな。
もはや確認したかった事よりも、そちらのほうが気になって、聞かなきゃ良かったと後悔しました。
1聞いたら1000教えてくれるような作者にもちょっと引いてしまいますが、
ファンなら嬉しいし、親しみやすさから言うとそのほうが良いのかもなと思います。
1聞いたら3教えてくれるくらいがちょうどいいのかもしれません。
ただ私は基本的には、②がかっこいいと思っています。
「これは作品だけ読むと分からないかもしれないので説明しますね」
と作品外でくどくど解説を書くことはやはり無粋な気がして、
「作品で表現できなかったことは説明しない!」
と言える作者はかっこいいなと。
親しみやすくはないけど。
これと似た意味合いで、
「作品だけで理解してほしい。作品外の余計な情報を読者に知らせたくない」
と考える書き手は、自身の情報(年齢、性別、職業、居住地など)も伏せる傾向にあります。
先入観なしに作品を読んでもらいたいと考えるからです。
同じ作品でも
「これは17歳のJKが書いたもの」と知って読むのと、
「これは定年間近のサラリーマンが書いたもの」と知って読むのと、
作者のことを何も知らずに読むのでは、
感じ方が違ってくると考えるからです。
ただ純粋に作品を読んでほしいため、作者の情報を出さない。
これもまた、書き手のストイックさの表明だと思います。
でもやっぱり親しみやすいのは、何でも気さくにオープンに話してくれる作者でしょう。
読み手にとって、どちらがいいかは分かりません。
エッセイはまた別物です。
作者の情報を出してこそ、説得力や共感性の高いエッセイが書けるからです。
ゆえにエッセイの難しさもあると感じます。
エッセイを書く(作者が前面に出る)ことと、
作品を純粋に読んでもらいたい(作者に対するイメージ抜きで)という希望は、相反するからです。