雪崩
(ようやく追いついた)
もう時間がない。賀央竜介のしでかした所業、そのせいでもうすぐ雪崩がやってくる。振り返って山頂方面に視線を向ければ、異常な程の白煙が立ち昇っている。
「お二人とも、どうしたんですか! そんなペースじゃ逃げられないですよ」
市白はスノーボードで二人の足跡を追って来た。賀央樹林と兎本葉が徒歩で逃げたことを思えば、移動が市白と比べて遅いのはわかる。とは言え、明らかにペースが遅い。それに男の方、樹林の歩き方が変だ。
「くそ……さっきの奴か……?」
「樹林さん、もう無理をしないで」
市白はスノーボードを外して二人に近づく。様子がおかしい。
「何しに来た? 俺は遊んでるわけじゃない。そう言ったろう。……ぐっ!」
苦し気な樹林を無視して近寄った瞬間、市白は顔を歪ませた。木の枝に引っ掛けたか岩にぶつけたか、彼のスキーウェアはところどころ破れ、額は血で赤黒く染まっている。
「な、何ですか……この血の痕は……」
「樹林さんは、私をかばって……」
葉が絞り出すように呟く。振り返ってよく見れば紅い筋が小さく点々としていた。見渡す限りは雪景色。吐く息は白むと言うのに、樹林の顔には汗も浮かんでいる。相当我慢しているのは明らかだった。
(この怪我じゃ……ここから動くのも難しいぞ……)
兎本は健気にも抱きかかえるようにして樹林を支えている。身を寄せ合っての雪原行軍。このままだと、逃げるどころか二人揃って遭難する可能性すらある。
「五人目……いや、竜介さんが温泉汲み上げ施設を壊しました。もうすぐ、この辺は雪崩に飲まれます」
「そうか。まあ、あいつならそうするだろうよ」
「どうするんです?」
予想していた、とでも言うのだろうか。賀央樹林は動じなかった。
「行けるところまで行くしかない。できれば、葉だけでも連れて行って欲しいが」
「樹林さん! 私は、行きませんよ」
あぁそうか、と市白は理解をした。なぜ、兎本妹がこの場に残ることになるのかを。冬山コテージで語られた顛末を思い返す。
確か、柴田は兎本を救出できず、その場に残したと語っていた。その理由は目の前にある。この『救出者』たちは、二人揃っていないとこの場から動かせない。
(言い換えれば、柴田のスノーモービルには、三人を乗せられない)
物思いに耽ったのはせいぜい五秒もなかったろう。市白は地鳴りのような音を感じて、弾かれたように山頂に視線を向けた。
「も、もう崩れてきますよ! とにかく、逃げましょう!」
「でも、樹林さんを置いては……」
「二人揃って死ぬ気ですか!」
半ば絶叫して市白は兎本の手を掴もうとする。兎本は手を振り払って強く拒絶した。
「私は、それでもいい!」
舌打ちして辺りを見渡す。もう時間がない。心なしか、足元が揺れている気がする。逃げないといけない、そう思った瞬間、素早く滑り降りる影が目に入った。
低いエンジン音と急旋回。雪が巻き上げられる。柴田だった。
「おい! 君たち、早くこっちに!」
「……何人。いや、三人行けますか?」
「三人?! とにかく、無理にでも……」
市白の言葉に柴田がゴーグルを外して駆けてくる。賀央樹林はぐったりして表情は見えない。兎本葉は何を考えているのか、樹林の頭を抱くように撫でながら、小さく呟いた。
「あなたが行ってください。樹林さんと一緒じゃないと、私はいけません」
「葉。や、め……ろ……」
樹林は葉を制そうとするが、朦朧としてそんな余裕もなさそうだ。
もし、市白がスノーモービルに乗れば、兎本と樹林のどちらかしかスノーモービルには乗れない。兎本を置いていく選択は取れうるだろう。しかし、兎本には生き残ってもらわなければならない。そうしないと、このループからは抜け出せない。
(わかっていたことじゃないか)
三人とも乗れれば楽だったが、それが出来ないのは予期できていたこと。スノーモービルで一人しか助けられないのだったら、完全に詰んでいた。それを思えば、まだ望みは繋がっている。
「この怪我している彼と付き添いの彼女を連れて逃げてください」
「……君は?」
「私は、これでなんとかします」
市白はスノーボードを掲げて片足に添えつける。
柴田は承服しかねるように表情を曇らせたが、賀央は怪我人だ。最優先とばかり、賀央を肩で支えてスノーモービルへ連れていく。
「……狭いが、我慢してくれ」
「あ、ああ……」
これで、兎本がこの場に残る理由は無くなった。柴田が無事に賀央と兎本を連れて助かってくれれば、竜介が仕掛けた執念の策からは逃れることができる。
(あとは……)
市白は兎本の前に膝をつくと、最後のピースを嵌めていく。
「葉さん、私に『神託』を。何が得られるか竜介から聞いています。それで全員、いや、私が助かります」
「ど、どうして……あなたは、一体?」
「私は……」
言い終わらない内に、地響きが迫る。ばきばきと、何かが砕けて、折れていく音が一刻の猶予もないことを知らせていた。柴田の怒鳴り声とスノーモービルのエンジン音が耳に入る。
「急いで!」
兎本は目を伏せると、天を手で仰ぐ。水を注ぐように市白の唇に冷たい指が触れる。頭の中で『聞き慣れた機械音声』がして、一瞬目の前が白くなる。
「君、すまない!」
柴田の声。我に返ると、兎本は柴田に担がれている。雪飛沫を上げながら、三人を乗せたスノーモービルは加速し離れていく。兎本の口が何かを告げるように動いた。
『幸運を』
言われるまでもなかった。これで兎本が助かって私が生き残れば、すべては丸く収まるのだ。もらった『神託』もある。長かったが、ようやく最後の勝負が始まる。
「『底力』なんて、年頃の女にくれるんじゃあ、ないよ」
背後に迫る雪の波を一瞥すると、市白は不敵な笑みを浮かべた。




