鳩山市白の導き
「来るな! 来るな!」
「ひろし何やってんだ! やめろ!」
「お願い! 源則を、よしくんを返して!」
火事場だった。文字通り、床には火が回っているし、同級生と警官が押し合って叫び声を上げている。私の目線の先には、血走った目で唾を飛ばす『ひろし』。そして、炎を隔てて、泣き叫ぶ『まほ』が見えた。
もう、何が起こっているのか、わからなくなりそうだった。
(夢かもしれない。なんでこんな……)
先ほどまで、私はただ聴取を待って座っていたはずだった。それが、簡易取調室にされた部屋から飛び出してきた『ひろし』によって、一変してしまった。
落ち着いた色のカーペットは赤々とした火の燃料に変わり、整っていたはずのロビーチェアや調度類は、防火扉の影に追いやられている。
「おい、なんでスプリンクラー回ってないんだ?」
(じんくん?)
幼馴染の声が遠くに聞こえる。
腐ってもここは高級ホテルだ。普通なら、スプリンクラーがあちこちから水を噴き出して、一般人が起こした火なんて止められるだろう。普通なら。
「ナトリウム撒かれてます! 危険です!」
平苗刑事が叫ぶ。
ナトリウムは、「禁水性物質」だ。水と接触してかえって危険性が増大してしまうため、放水などで消化するのが難しい。おまけに、それ自体が劇物にも指定され、よく燃える。
山口警視は吐き捨てながら、拳銃を構える。
「なんでそんなの一般人が!」
「いまは通販で買えるんですよ!」
ひろしくんは、まほの子を抱えてナイフを突き出し、ゆっくり揺らした。
「ちっ」
誤射してはたまらないだろう。山口警視は銃口を下げる。
「『池上 ひろし』、お前が倉田と佐々木を殺したんだよな? 『げんちゃん』の爪に、チョコレートが付いてたぜ」
「なんでこんなに早くバレたんだ。事情を聞かれても、もう少し時間があったはずなのに。そうすれば、そうすれば……」
そうか、と私は気づく。
平苗刑事が生身でチョコやお茶を口に含んだのは、そのため。彼女が何かを鑑定してしまったから、彼の予想より追及が早かったのだろう。
「そうすれば、ちゃんとした火事にしてやれたのによおお!」
ひろしは叫びながら、通路を下がる。炎の壁で遮られ行く手を阻む者はいない。いや……一人だけ、私だけが、止められる。
「待ちなさい!」
震える膝を押さえつけて、私は立ち上がった。立ち上がってみれば、剣道の試合直前かのように神経が研ぎ澄まされる。火の熱気、焦げる臭い、振り向きながら逃げる『ひろし』の姿がとてもよく見えた。
(やれる? いや、やるしか)
まほの子を守らなくちゃいけない。それに、それに。私だって、名探偵の相棒になるのだから……
(このまま見過ごすなんてできない!)
◇◆◇
「ひろしくん! 源則くんを離して!」
「なんで?」
「なんでって……そんな子をどうしようって言うの!」
昔の面影をすっかり消した彼は振り返って私に向き直る。壁を背中に預け、左右の通路どちらにも行ける姿勢で、彼は表情をひどく歪めた。
「君は知らないだろうね。佐々木も倉田も尾形も、奴らが僕に何をしていたのか」
殺された二人と、立てもしない齢の子を人質にされた旧姓『尾形 まほ』。一体、彼らが何をしたというのか。『知らない』いや、察しはついている。
小学生が不登校になる理由、そんなもの、そう多くはない。ただ、私は本当にその現場を見たことがなかっただけだ。
(虐め、でしょうね)
でも、それはそれとして、今の彼の行いは放っておけない。確かに、憎い相手だったのかもしれない。それでも、その相手を殺した上でホテルに火をつけ、何も分からない赤子に手を出しているのだから。
「だからって……」
「だからも何もない! 虐められた方は、いつまででも覚えているんだよ」
目の前の逃走犯は、赤子を抱えたまま、ポケットから小瓶を出す。そのまま床に叩きつけられた瓶は、白い粉を吐き出して割れた。
「知らないふりしてたやつらも同罪さ。せっかく手伝ってもらってこれじゃあ、残念だけど、せめて君くらいには問うとしようか」
もう名前で呼びたくもない小太りの男は、私を睨みつけてくる。時間を稼げば、じんくんや山口警視が追いつくかもしれない。一人で取り押さえるのは、竹刀があっても無理だろう。人質さえいなければ簡単なことなのに。
「おい、こっちじゃないのか?」
何人かが走ってくる音がした。
「ちっ。質問だ、服部。相手を殺すか自分が死ぬかしかない問題。お前はどっちを殺すのを選ぶ?」
言い終わらない内に、彼はこちらに向けて何かを投げてくる。私はその軌道を見切って半身で逸らすが、背中の方で何か音がした。
『パンパンパンパン』
乾いた破裂音の元から反射的に離れた。通路の角に置かれた観葉植物の前に倒れ込む。幸い、コテージや豪華客船で見たような爆弾じゃないみたいだった。実物を見たことはないけれど、音だけで廊下が壊れた様子はない。
(でも、さっきの白い粉が燃えてる)
まほの子を抱えたままの『ひろし』はどちらに行っただろうか?
左右の通路は一見すると二択だが、現実はそんなに優しくない。男女のトイレ、自販機コーナー、喫煙室、更衣室がこれまた男女用。よく見れば、防火扉に隠され、非常用の階段まであるし、休憩スペースなる小部屋もあった。
(虱潰しなんかしてる時間ないのに……!)
思わず、唇をぎりと噛む。鉄の味がした。その時……
(え?)
赤い服の小さい女の子が横を走り抜けて、扉の向こうに消えた。
私は弾かれたように走る。置かれていた掃除用のモップを引っ掴んで、休憩スペースの前で中段に構える。掴まれても体重をかければ、相当に対抗できる。ここまで来たら、禁じ手と言われようと首をつく。
「さっきの問いの答えは、『どっちを選んでも地獄行き』さ」
声のした方を向くと、ひろしくんは何をしたのか、血を吐いていた。
まほの子『源則』くんは、彼の服で丁寧にくるまれて椅子に寝かされている。響いてくる鳴き声は、元気な印か悪い知らせか、私にはわからない。
「私はそんな道選ばないわ。解けない問い。それを解くのが、名探偵なんだから」
何も言わずに動かなくなった元同級生に向かって私は呟く。
感傷に浸るような時間はない。さっきの非常階段から下に降りて、源則くんを助けないといけない。私はモップを投げ捨てるとしっかりと抱きかかえる。
「もう大丈夫だから……」
しかし、甘かった。既に通路には火が回っている。これでは、非常階段のところまで行けない。
「どうしよう。火が・・・」
左右を見回して逃げ場を探していると、再び、赤い服の女の子が走ってくる。通り過ぎ、隣にある喫煙室に入っていく。そして、その時、何かが聞こえた。
『中に入って、バルコニーへ!』
胸にぐっと何かが込み上げる。聞き覚えのある声だった。
それに、思い返せば、あの姿と服装は……。
「市白お姉ちゃん!」
喫煙室から繋がるバルコニーへ出る。外の空気は美しいと思った。緊張の糸が、急に解けていく。
「もう大丈夫だ」
煤に塗れた顔の山口警視がいた。そんな気がした。
「この子を……お願いします」
源則くんは笑っていただろうか。私の意識は、そこで途切れた。
◇◆◇
美しい川。花が咲き乱れている。ずいぶんと自分の身体が小さい。
川の向かい側には懐かしい顔、市白お姉ちゃんがいる。
「市白姉さん、わたし……あなたの……」
市白は、指を人差し指にあてて笑った。
そうしてゆっくり、私の背中側へ指先を向ける。
口が何か動いているが、聞こえない。
私は、そこで目が覚めた。気が付けば病院のベッドの上で、涙が出ていた。
最後の言葉、それは「じんを、お願いね」
私には、そう思えた。
◇◆◇
入り口の方には山口警視と平苗刑事が俯いて座っている。
視線を上げると、まほが源則を抱いて目を腫らしていた。
「ありがとう。瞳……。よしくんを助けてくれて」
まほは嗚咽を漏らしている。源則くんは、特に怪我もなく、無事だったと聞かされた。良かった、私はそう思った。
「ひとみん! 死ぬな!!」
病院に似合わない大声で、ばたばた走ってくる男子がいる。
白猫の『げんちゃん』を抱える、見慣れた幼馴染、犯人を特定してくれたのは彼だろうか。
とにかく、名探偵を目指している彼、『鳩山 二』へ私は呟く。ちゃんと、言っておきたいことが、たくさんあった。
「ばかね。あんたの姉さんに、追い返されたわよ」
でも、ひとまずはこれくらいだろう。あの火事場で起こった不思議な体験は、きっと超常的な何かだと思う。どんな謎でも、きっとじんくんは解いてくれるだろうけど、この謎は、解かれなくてもいい。
(だって、もう一度、市白お姉ちゃんに会えたのだから)
次の新章で一旦終わりの予定です。
何とか早めにまとめられれば……




