父親の思いはどのような結末を迎えるのだろうか (最終回)
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「最後、碧さんにこの胸のうちを告げなんだら、あの世に逝ってからも後悔だけの生活を送らねばならん」
父親が胸が張り裂けそうになりながら、光也に頼んだ内容はこうだ。
「思いを伝えんだら、地獄にいったも同然じゃ。
碧さんに最後に会いたいんじゃ。
碧さんもわしのことを好意的に思っていてくれているはずじゃ。
でも……、わしは幽霊の身じゃ。
そんなものがいきなり碧さんの前に姿を見せたらどうなる?
碧さんが、それこそ恐怖のあまり、気を失うことになりかねん。
光也よ、頼むからわしを連れて、碧さんの家まで行き、わしと碧さんをうまい具合に合わせてくれ」
光也は玄関ドアの前で、チャイムを押してよいものか戸惑った。
父親が幽霊であることも理由のひとつであるが、父親の年齢のこともあった。
父親のような初老の男に、四十代の碧さんが好意を寄せているとは考えられなかった。
きっと、父親のことなど、ただの茶道教室の生徒のひとりで、ほとんど赤の他人と思っているに違いない。
それこそ父親が幽霊になって会いに来たと知ったら、恐怖で狂乱するに決まっている。
それを考えると、父親が思うように、碧さんとふたりきりになりたいなどという願いを、とてもじゃないけど叶えられるはずもない。
光也はひとつ息を吐くと、横目でかたわらに立つ、白髪ですこし猫背の父親を見た。
その横顔は無理して平静を保とうとしている。
光也は、悲しむ父親の顔を見るのが一番つらい。
それでも、チャイムを押した。
返事がない。
夜の訪問者だ。
こんな時間に人が訪れてくるとは碧さんも思ってもいないだろう。
しばらくして、
「はい。どちらさまでしょうか?」
インターフォン越しに碧さんの声が聞こえた。
光也は緊張で唾を飲み込んだ。
「あの……、わたしは、以前、こちらで茶道を習っていた山田の息子で山田光也と申します。
生前、こちらの教室で父がお世話になったということなのでご挨拶に参りました」
しばらくの沈黙があった。
カメラ付きのインターフォンだから、真ん前にいる光也の顔は、玄関扉を隔てた、向こう側にいる彼女に見えているはずだ。
碧さんはどんな顔をしているのだろう? 困っているに決まっている。
扉の鍵が開錠される音がすると、扉が開いた。
そこから姿を見せたのは、色白で整った顔をした女性だった。
若く見える。見た目、光也とさほど齢の違いを感じさせさせないほどだ。
お茶を教えていたときの姿のままなのか、浅紫色の着物を着ていた。後ろで結われた髪は、なぜ肩の着物姿と相まって和風の美しさを醸し出していた。
「山田さんの息子さんで……」
玄関口に顔を見せた碧さんは、深々とお辞儀をした。
「このたびはご愁傷さまで…」
「いえ……」
光也は頭を下げたあと、どうにでもなれという気持ちで話を持ち出した。
碧さんは父親が幽霊と知って、きっと恐怖で悲鳴をあげるに違いがない。だいたい、息子の光也には父親が見えるが、碧さんには見えるかどうかもわからない。
「聞いてください。こんなこと信じがたいのですが……」
いきなり確信に入ったので、碧さんのほうはきょとんとしている。
光也ははっきりと言った。
「わたしの父がいま隣にいます」
それまで、開いた扉の陰に隠れていた父親は、回り込んで、碧さんの前に姿を現わした。
父親も躊躇することなく出てきた。
ふたりの連携がうまくいった。
さきほどまで怖気づいていた父親が胸を張った。
「碧さん。わたしです。こんなにも早く逝ってしまいました」
碧さんは、平静を保っていた。
生前と同じように白髪頭で眼鏡をかけた父親が申し訳なさそうに立っている、その姿を真直ぐに見た。
実のところ、碧さんの心臓は、恐怖で一瞬鼓動を止めたかもしれない。
それは分からない。
「父です。死後、幽霊となって、最後にあなたに会いたいというので、ぼくが連れてきました」
光也は父親が幽霊であることもきっぱりと言った。
碧さんの眼は大きく見開かれたまま、唇は小刻みに震えていた。
続いて、その眼にみるみる涙が溢れてきた。
「どうぞ、おあがりください」
涙声で碧さんはそう言った。恐怖で騒ぐこともなく、拒絶することもなく、父親と光也のふたりを家のなかに招き入れた。
光也は、果たして彼女が、父親が幽霊になって、この世にいることを、理解したのかどうかが不安だった。
だが光也のそんな心配は無用であった。
碧さんは茶室で、父親に最後のお茶をたてると言った。
光也にも
「お茶を飲まれては」
と勧めてくれたが、ふたりだけの時間を持たせてやりたいので、茶室とはホールを隔てたリビングで待つことにした。
ここからは茶室の襖戸が見られ、角度によっては中の様子も見ることができた。
だが、あっさりと茶室の襖は閉じられた。
光也があずかり知らない、閉じられた茶室の中で、父親と碧さんはふたりだけの時間を持った。
三十分ほどの時がたったであろうか、静かに茶室の襖が開いた。
着物の膝を畳について、部屋の中から、襖を開ける碧さんの姿が見えた。
碧さんはうつむいていて、リビングの光也がすわる椅子からは、その表情が見えなかった。
続いて父親が姿を現した。意識してのことだろうか、光也に対して背中を見せていた。
その背筋はピンと伸びていて、まるで壮年期の父親のものだった。
父親は光也のほうを見ずに、言った。
「光也。帰るぞ」
その声は、光也が少年のころに接した父親のものだった。張りのある低音だった。
返事をすると、光也は父親の背についた。
父親は玄関口で立ち止まると、くるりと振り返った。
すぐに光也は父親の視線から避けるように、身体をずらした。
見送る碧さんと、父親はしばし眼を見交わした。
光也は言葉にならなかった。
ほんとに同時の出来事だった。二人の眼からは、一滴、大粒の涙が溢れ出した。
二人は見交わしていたいに違いなかった……。
それを振り切ると、父親は碧さんに背を向け、さっさと玄関を出た。
それから父親は振り返ることもなく、早足で碧さんの家を後にした。
実家までの通りを父親と光也は無言で歩いた。
茶室での二人の時間に、何があったのか、何を話したのか、光也は聞くこともなかった。
触れてはいけないことだと感じていたからだ。
実家の前にたどりついた。
足を止めると、父親は夜空を仰いだ。
「ごくろうじゃったな。光也……」
光也にはそろそろ別れが来たことが分かった。
「ああ……」
「わしは、こうして、いつまでもこの世にうろうろしていることは許されん。
もうあの世に逝かねばならん」
「分かっている……」
「最後の願いをきいてくれてうれしかった」
光也は黙って聞いた。
ポツリと父親は言った。
「いい人生じゃった」
光也はこの日、何度目かの涙を流した。
父親のまえで泣くことは最後だった。
子どものころの光也を思い出しながら、見ているのだろうか、父親はほんとうに優しい顔をしていた。
何かを思い出したようだ。
「おおっ、最後に言っておかなければならないことがあった。
お前の嫁の明日香さんのことだ」
こんなときに何を、と思いながら、光也は泣いたまま「うんうん」とだけうなずいた。
父親は光也の言葉を聞かずに、こう言った。
「そうか……。大事にせにゃあかんぞ。
ただ、お前にも、たまには気晴らしも必要じゃ。ガールフレンドぐらいならつくってもいいぞ。それが家族円満の秘訣じゃ」
光也が突然の言葉に呆気にとられていると、父親は笑った。
これまでだって皺の目立つ顔だったが、さらに皺だらけにして笑っている。
優しい顔だ。まるで、光也が幼子であるかのような眼で見ている。
父親は右手を小さく上げた。笑いながら手を振った。もう何も言ってくれなかった。
じょじょに、父親の姿はぼやけていくと、そのまま消えていった。
残ったのは、街灯で照らされた、薄暗がりの、山田家の前の通りだけだった。
光也はしばらくぼんやりしていたが、次に空を見上げた。
夜空には星がいくつもきらめいていた。
都会と違って星の数が多く、ひとつひとつの粒が大きかった。
父親も、祖父母を見送った夜には、星空を見たに違いない。
父親は、あの星のひとつになっているのだろう。
光也は、明日の朝一番で関東のマンションに帰ると、明日香には言ってあったのだが、予定を変更することにした。
探し物で手間取って、少し時間が遅くなると、連絡することにする。
光也は、自分が育った家が恋しかった。
ひとりだけのゆっくりとした時間を持ちたかった。
( 完 )
追記
それから半年たって、光也はこの日、愛田県の実家に訪れた。
時間をかけて、父母が残したものを整理するつもりだ。
将来的に実家をどうするかも考えなければならない。
遺品を色々と見ているうちに、ふと外の空気が吸いたくなった。
自然と、脚は碧さんの家のほうへと向いた。
すると、門扉の傍らに置かれていた、かつてコスモスが植わっていたプランターには乾いた土だけが残っていた。
家の玄関扉の横にかかっていた秋月茶道教室の看板もはずされて、すべての窓には雨戸が閉まっていた。
光也はたまたま通りかかった婦人に、以前、ここにあったお茶教室はどうなったのかと聞いた。
すると、夫人は悲しそうな顔をした。
碧さんは、三か月ほど前に、心臓の持病が悪化してらぬ人となった。若くして、この世を去るのは気の毒だと。
光也は、碧さんの死を聞いて悲しかったものの、ふと思った。
もしかして、あの世で父親と碧さんは結ばれているのではないのか……。
そうあって欲しいと思った。