無人の家に父親の影
3
光也は照明をつけて、ゆっくりと階段を上った。
なんだか真っ暗な洞穴の奥へと進むような心細さを感じた。
二階には父親夫婦で使っていた寝室と光也の育った子ども部屋、それともうひとつ、小さな父親の書斎がある。
寝室に入ろうとして、光也は部屋の入口で足がすくんで立ち止まった。
十二畳はあろうかという広々としたフローリングの部屋に、ベッドがふたつ窓際に並べられていた。
主を失くした寝室は、ただ、ただ、広くて、森閑としていた。
もちろん、ふたつのベッドは空っぽだ。
部屋の隅には、ひとつ箪笥が置かれており、その他の収納は壁と一体になっていた。
ベッド脇のサイドテーブルに父親の眼鏡がぽつりと置かれていた。
あの世に旅立った父親の忘れ物だ。
生前、父親が身につけていたものだと思うと、光也の胸に悲しみの渦がこみ上げてきた。
眼が熱くなると、視界がみるみる滲んできた。
がまんできず、声を上げて泣きそうになった。
と、そこに妙なものが眼に飛び込んできた。
片方のベッドには布団が敷かれていて、あろうことか、その布団のなかに人が寝ていていたのだ。
光也は溢れかけた涙を飲み込むと、あらためてそのベッドを見つめた。
見間違いじゃないのか?
枕に白髪頭の父親の頭がのっかっているのだ。
気持ちよさそうに口を半開きにして眠っているのだ。
光也はとっさに様々な考えを駆け巡らせた。
こんなことはあろうはずがない。
何者かが死んだ父親をここに寝かせたのか?
それにしては息をしている。
いや、それ以前に父親の身体そのものが、火葬にされてこの世にはないはずだ。
光也は指先で目頭を強くこすった。
「ありえない! こんなこと。非科学的だ!」
改めて目を開けてみると、案の定、そこに父親の姿はなかった。
布団が敷かれたベッドだけがあった。
理科系の頭を持つ光也は、いまの現象を、自分の頭のなかで整理した。
――あくまでベッドに敷かれているのは布団だけである。この前、葬儀などで、この部屋に訪れたときに、畳んでしまっておくべきところを、雑事に追われてほうっておいたのだ。
そこで、布団とベッドを見て、あたかも父親がここに眠っている。そんなふうに錯覚にとらわれたのだ――
ただ、それだけのことだ。
父親の幻を見たことを、自分に言い聞かせた。
すると、今度はほんの一年前の、父親の思い出が蘇ってきた。
光也が妻の明日香と三歳と二歳の女の子ども子ども二人を連れて、盆や正月に帰省したときのことだ。(光也の妻は三歳年上のこともあって、光也は大学院時代に第一子を設けていた)
そのころはすでに母親は病気で死んでいなかった。
夜、この部屋のベッドに父親がごろ寝していると、光也の子供たちが
「お爺ちゃん。お爺ちゃん一緒に寝よう」
と言って、空いたほうのベッドに寝転びにいくのだ。
子どもたちにとっては、祖父である父親の部屋で遊ぶのが小さな冒険のような楽しみだった。
そのたびに父親は
「それじゃあ、お爺ちゃんと寝よう。今日はお母ちゃんとは別々だぞ」
と子供たちを可愛がった。
子どもたちは
「いいよ」
と、しばらくは父親の寝室で粘るのだが、最後には母親が恋しいのか、一階の和室に用意した、光也夫婦のいる布団まで戻ってくるのだ。
光也も幼い頃、祖父母に甘えていたような気がする。
自分の子どもと父親との思い出が、光也の幼いころの様々な思い出と相まって、悲しさが二重に膨れ上がった。
玄関の鍵を開けてから、順番に無人の部屋に入ってきて、ここまで泣きじゃくりたいという思いに耐えに耐えてきたが、それも限界だった。
泣き声を押し殺しながら、袖で涙をぬぐった。
いったん、気分がおさまると、家探しの続きをはじめた。
ベッド脇の小物入れから、箪笥の引き出しを開けては閉めた。
その間、光也は父親に何度も謝っていた。
「父ちゃん。ごめんな。ごめんな」
光也は自分は息子として失格だと思っていた。
贅沢ではなかったが、不自由な生活を送った思いはない。
関東の大学院まで卒業させてもらって、すべて父親と母親が支えてくれたおかげだ。
その後、関東で大学院最後の年に、すでに社会人となっていた明日香と所帯を持った。
今の生活だできるのも、父母のおかげだと思う。
いつかは父母に何とかお返しをしなければと思っていた。
ところが、何も返せないままに三年前に母親に逝かれた。
残った父親だけにはと思っていた。
しかし、それも出来なかった。
なによりも、愛田県の実家に一人で暮らしをさせておいた父親を、道の真ん中で孤独死させたことで、自分を許せなかった。それはすべて光也のせいだと思った。
愛田県のこの家が、父親にとって住み慣れた場所であろうと、独りでほうっておいてはいけなかったのだ。
悲しみで打ちひしがれながらも、光也は寝室を探し回った。
しかし、ここでも明日香の宿題にたどり着くことはできなかった。
( 続く )