大学准教授である妻からの言いつけ
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光也は主をなくしたこの家で、妻の明日香の顔を思い浮かべ愚痴をこぼした。
「父親が死んだら早々に財産を調べにいけというのか? うちの女房は人でなしかい」
居間のテレビはつけっぱなしにしておいて、キッチンへと移動した。
水道の蛇口をひねった。
季節は秋だが、まだ喉が渇く。
この家で飲めるものといったら水道の水だけだった。
葬儀の前の日に来たとき、腐るといけないと言って、明日香がすっかり冷蔵庫のなかのものは処分した。
光也はペットボトルのお茶を買ってくるべきだったと思いながら、水を飲み、ゆくゆくは電気、ガス、水道も止めてもらわなければいけないのだと考えた。
喉を潤すと、次に和室に入った。
部屋の隅には、しめやかなに三尺仏間(幅が約九十センチ)仏壇が控えていた。
光也は仏壇の前に正座をした。
かたわらに、父親の遺影が置かれていた。楽しそうに笑った写真だ。
六十九年間生きてきて、色々辛いことや苦しいこともあっただろう。
特に妻を先に亡くすなど、断腸の思いだっただろう。
でも、写真に写った父親は、そんなことは露ほども見せていない。
笑った父親。
その遺影を見ながら、これから家探しをさせていただくなんてのは……。
こんなことになるとは、生まれてこのかた考えたことなどなかった。
今、自分がしようとしていることは、父親を裏切るようなことだ。
光也は線香に火をつけた。その後、おりんを鳴らすと仏壇に手を合わせた。
親の寿命に関しては恵まれていなかったと思った。
光也は二十七になるが、周りの同じ年代の連中は、両親とも健在か、悪くて片方が病気で早死にしたかであった。
両親とも亡くしてしまったのは光也ぐらいのものだ。
普段は親の存在など気にも留めていなかったのだが、こうして両親を亡くしてみると、その心細さ、空虚感は半端なものではなかった。
仏壇と睨めっこしながら、今後のことを考えた。
光也夫婦とその幼い子供ふたりは関東で買ったマンションに暮らしている。
勤める工学系のメーカーも、妻の明日香の勤める大学も東京周辺だ。
さすがに仕事もマンションもほっぽり出して、愛田県の父親の残した家に帰ってくるわけにはいかない。
この無人となった家をどうするかが問題となる。
それとこの大きな仏壇だ。こんなにスペースをとるものを、明日香が易々と関東のマンションに受け入れるはずがない。
親がいなくなるってことは、山田家の煩雑なものをすべて光也が引き受けるということなのだ。これから頭を痛めることになる。
お参りをすませ立ち上がろうとした。
すると、座卓に茶道の道具が置かれているのを眼にした。
天井から吊り下がった和風の照明のせいか、抹茶用茶碗、茶筅、棗、茶杓と、それらが鈍い光を放っていた。
放つ光沢は、この家を表すかのように寂しげで、妙ななまめかしさを持っていた。
父親が定年後に茶道を趣味として習っていたことは聞いていた。
脳卒中で倒れたのも、昼間にお茶を習いにいって、ちょうど先生の家を出たときだったそうだ。
お茶の先生が外でなにやらドスンという音がしたので、玄関扉を開けると、前の通りに父親が倒れていたらしい。
光也は父親の思い出の品なのだと、しばらく茶道具を見つめた。そのあと、重い腰を上げた。
明日香から言われている宿題に取りかからなければいけなかった。
明日香いわく
「お義父さんの通帳類を真っ先に見つけることよ。
銀行は死んだ人の通帳をすぐにも取引停止にしてしまう。
電気代、ガス代、保険代など口座引き落としになっていた料金が引き落とされなくなるのよ。
その先は、無人のお義父さんの家に督促がきて、それでも支払いがないと、回りまわって、あなたのところに来るのよ。そんなのいやでしょ」
言われてみればその通りだ。
明日香は続けた。
「まだ、これですんだと思っちゃ駄目よ。お義父さんの生前の支払いが終わったら、預金類や、株式などの有価証券は、一人息子で相続人である、あなたの名義に書き換えなければいけないのよ」
まだ続いた。
「それとここで注意しなければいけないのは、こんなことはないと思うけど。
お義父さんが残した財産より、借金のほうが多かったりした場合。
一定の期間内にあなたが相続放棄しなければ、お義父さんの借金も全部かぶってしまうのよ。
それってわたしたちの家計を破たんさせるわ」
明日香はいったいどこからこんな知識を得たのだろう。
あいつの両親は健在だからこんなこと考える必要がないだろうに――。
友人の家でのもめ事でも聞いたのか?
それともネット情報だろうか?
いずれにせよ、たとえ面倒であっても、無知のままであることよりも、知識を授けてもらったことに感謝するしかない。
光也は和室の角にある箪笥から探索を始めた。
最上段の小さな引き出しから開けてみた。
ガス代や電気代その他買い物の領収書が出てきた。種類別にきちんとクリップでまとめてある。
母親が生きていたころはすべて彼女がやっていたのだろうに、父親一人になってからは自分でこまめに整理していたのだ。
その隣の引き出しを開けると、こちらは薬コーナーにしていたようだ。
市販の胃薬、風邪薬、湿布薬に、医者に通っていたようで薬局で処方された袋もあった。
その下の二段目以降の幅広の引き出しはタオル類や下着類で占められていた。
箪笥には、通帳類やその他父親の財産は入っていなかった。
そのほかにも和室で考えられるところは探したが、こちらも見つからなかった。
続いてキッチンへと回った。
食器棚の引き出しも小物入れに使えそうだったが、そこにもなかった。
今度は居間へと移った。
先ほどスイッチを入れておいたテレビから、NHKのアナウンサーの声だけが静まり返った家のなかに聞こえるので、いささか気が楽になる。
サイドボードを開けてみると、父親が一人になってから観ていたのだろうか、ずいぶんとDVDが並んでいた。昔の映画が多い。
本も並んでいた。小説やらエッセイ集に混じって、とりわけ眼についたものがあった。
『茶道ガイド』という茶道の指南書だった。
生前、父親が茶道に入れ込んでいたことがわかる。
妻に先だたれ、男やもめになった父親は、女性であるお茶の先生に会うことがひとつの生きがいになっていたかも知れない。
光也からしたら、いつまでも死んだ母のことを思っていてくれよという気持ちもあるが、年老いて妻に先だたれた父親の気持ちを考えると、それが自然なのかとも思う。
光也は丁寧に茶道ガイドを元の位置に戻した。
和室からキッチン、居間と通帳類がしまってありそうなところを回ったが、何も見つからなかった。
そうなると、考えられるのは二階か。
( 続く )