第1話 空は、海と星を護るために
繰り返し見る夢がある。
最愛の兄が、赤髪の化け物と対峙する夢。
夥しい死体の群れの合間。
化け物の、碧のぎらいついた眼は、野生のそれだ。
手には、妖しく光る剣。
兄は、その男と闘い――。
――必ず殺される。
※※※
空には、晴天が広がっている。
広大な土地を持つ一角に、それに見合うだけの巨大な屋敷が立っていた。
その庭に干されていた白いシーツを、一人の少女が取り込んでいる。
彼女の年の頃は、十前後だろうか。腰まで届く水色の長い髪をし、金の瞳を持っている。華奢な体つきをしているが、腕に抱えるシーツの数は多く、わりと力はあるようだ。
「セレス、また君が、そんなことをやっているの?」
セレスと呼ばれた少女の頭上に影が差す。穏やかな声が聞こえた。その方向へと、彼女は振り向く。
太陽に煌めく金の髪、優しい茶色の瞳をした青年が、そこには立っていた。
「カーネリアン王子……。兄に用ですか……?」
とても小さい声で、彼女は青年に尋ねる。
カーネリアンと呼ばれた男は、彼女に微笑む。彼の笑顔は昼の日差しを思わせるような、暖かさがあると、セレスは思っていた。
「そうだよ。アズライトに会いに来たんだ」
「兄は、今は、隣の町に出かけております……」
カーネリアン王子に向かって、セレスは答えた。
セレスの兄であるアズライト。彼は、今日は用事があると話していた。
朝から彼は馬に乗り、隣の町へと出かけていた。用事の内容が何かはセレスには分からない。けれども、隣の街までは半日もあれば帰ってこれる。もう、昼下がりだ、時機に帰ってくるだろう。
カーネリアン王子は、セレスに向かって尋ねる。
「じゃあ、君の家の中で待ってても良いかな?」
彼女は、その質問に対して、こくりと頷いた。
セレスは、シーツを抱えると、彼を屋敷の中へと案内した。途中、玄関先にシーツ類は置く。彼女は彼を、客間へと通した。
カーネリアン王子に、客間にあるソファを勧める。
セレスが、部屋から出ようとすると、王子に呼び止められた。
「セレス、君の青い髪、いつ見ても素敵だね」
「そんなことを言うのは……王子だけです」
セレスは、とぎれとぎれになりながら声を出す。
「君のお兄ちゃんも、言うだろう?」
兄の話を出されたセレスは、耳まで赤くなってしまう。
カーネリアンは、彼女の様子を見て、ほほえましく感じた。
「王子、今日は、雨に気をつけて……ください」
セレスが、カーネリアン王子へと視線を向ける。
王子は、彼女の金の瞳の煌めきに、息を呑んだ。
彼女は、時折、何かが視えているような発言をする。
「こんなに、晴れているのに? そう言えば、シーツを取り込んでいたね」
「ええ、降るようです」
神妙な表情で、セレスが頷いた。
「……君がそう言うなら、そうなのだろうな。分かったよ」
カーネリアン王子も頷く。彼の様子を見た後、セレスは部屋から出て行った。
※※※
カーネリアンを客間に送り、廊下を歩いている最中だった。
「セレス! あなた、私の部屋の掃除は終わったのかしら?」
そう言ってセレスの背に、言葉を投げかけてきたのは、彼女の義理の母だった。丸々と太った身体を揺らして、彼女はセレスに近づいた。はちきれんばかりのドレスが特徴的だ。
セレスは、義母に振り返って、か細い声で「まだです」と答える。
彼女の返答に、義母は怒り始めた。
「そんなこともできないなって、本当に愚図な子だね!」
彼女の怒声に、セレスはびくりと震えた。
幼少期から繰り返される彼女の叫びに、未だにセレスは慣れることができない。
叱られるのが怖いので、いつも義母の言いつけは守るように心がけていた。毎日毎日、彼女の言いつけの内容は変わるが、なんとか言うことに答えようと頑張っている。だけど、何をやっても怒鳴られてしまう。
言われた通りのことをやっているつもりだが、出来ない自分。そんな自分を、セレスは情けなく感じていた。
「お義母さま、申し訳、ございません……」
「あなたに、『おかあさま』などと呼ばれたくありません! 下女の娘の分際で!!」
彼女は金切り声を上げる。
義母の言う通りだった。
セレスは、この家の主であるカルセドニー侯爵が下女に手をつけて出来た子どもである。
そのことで、正妻である義母は、相当腹を立てている。十年以上経った今でも、父である侯爵を、彼女はなじり続けている。
父は、義母がいないところで、こっそりセレスを可愛がってくれる。けれども、義母がいる前では、セレスがどんなに責められようともかばったりはしない。
セレスが俯いていると、さらに彼女の罵倒が続いた。
「母さん、やめないか」
凛とした声が、廊下に響いた。
義母の後ろに人が立っている。
「アズライト!」
「また、セレスに家事をさせていたのか? 母さん、使用人たちにどうしてさせない?」
そう言って、アズライトと呼ばれた青年は、義母を諭す。
彼女は、ぐっと言葉に詰まっている。
「お兄様……」
彼は、アズライト・カルセドニーと言う。セレスの水色よりも、より海の色に近い髪の色をしている。瞳はやや吊り気味で、榛色をしている。セレスの金の瞳とは異なっていた。身長は高く、引き締まった体型をしている。セレスの住むスフェラ公国。その騎士団の服を着ており、腰には剣を差している。
セレスよりも一回り以上、年上の兄は、現在スフェラ公国の騎士団で名誉ある職に就いている。
「もういいわ」
そう言って、義母は、セレスと兄のアズライトの元から去って行った。
「セレス、大丈夫か? すまなかった、俺が不在にしていたばかりに」
アズライトが謝ってきた。セレスは、首を横に振る。彼は何も悪いことをしていない。
兄は、そっと妹の頭を撫でる。
そうしていたら、彼は彼女に、「そうだ!」と言ってはなしかけてきた。
「今日は、今から一緒に、武術の鍛錬をしないか?」
彼女は、兄の提案に対して返答した。
「カーネリアン王子が、お兄様に会いに来ていらっしゃいます。それが終わってから」
「カーネリアンが来ているのか?」
セレスは、静かに頷く。
「王子は待っています。早く行ってください」
アズライトは首肯し、セレスの元から去って行った。
義母に会った時に感じた暗い気持ち。
それが、兄のアズライトに会った瞬間から、どこかに吹き飛んでしまうようだった。
この家で、セレスは彼だけを頼りにしていた。
父も、義母も、見て見ぬふりをする使用人たちも、誰も信じることが出来ない。
だけどセレスは、兄のアズライトならば、信じることが出来る。
彼の触れたセレスの水色の髪を、彼女自身もそっと触れたのだった。
※※※
「本当に、降り始めたねぇ」
客間の窓から外を見ていたカーネリアンが、ぽつりと呟いた。
セレスの何かを見通すような金の瞳を、彼は思い出していた。
時折、彼女は未来を見通すことがある。
「あの力、使えるだろうか……?」
カーネリアンが考え事をしていると、部屋の扉をノックする音が聴こえる。
彼の親友であり、この家の長男アズライト・カルセドニーが入室してきた。
「待たせたな、カーネリアン」
「いいやぁ、そんなには待ってはいないよ、大丈夫」
穏やかでのんびりしていると評判の、この国の第一王子カーネリアン・スフェラ・フローライト。
生真面目で凛とした印象の、騎士団の副騎士団長アズライト・カルセドニー。
対照的な二人だが、年も近い二人は、幼い頃から共に過ごしてきた幼馴染同士だった。
そして、彼等にはもう一人、共通の幼馴染がいた。
「ローズを誘いに家まで尋ねたんだけどさ、今日は別に用事があったみたいなんだ」
カーネリアンのその声掛けに、アズライトの眉がぴくりと動いた。
「そうか……」
ローズとは、彼らの共通の幼馴染の女性インカローズのことだった。やや赤みがかった茶色の長く緩く巻かれた髪に、垂れた瞳を持っている。彼女は公爵家の娘であり、カーネリアン王子の婚約者でもあった。
カーネリアンは、屋敷に来る前にインカローズの屋敷を訪ねたが、彼女は不在だった。
これ以上、この話をしても仕方がない。
カーネリアンは、話題を切り替えることにした。
「セレスの力のことだけど――」
※※※
先ほどまで雨が降っていたが、今は止んでいた。
葉に滴がのり、太陽に照らされてきらきらと輝いている。
雨の勢いが強かったのか、やや地面がぬかるんでいた。
義母と別れ、裏庭で一人、セレスは剣の素振りをしながら、詠唱の練習をしている。
女性でも扱いやすいようにと、兄から細身の剣をもらっていた。それでも、十一の彼女が扱うには重い武器ではある。
初め、女性が武器を扱うなど、と言って反対していた兄だったが、今では積極的に武芸の訓練を一緒に行ってくれていた。
他にも弓の扱いなども教えてくれていた。
セレスは、いつか、兄の横を並んで騎士になるのが夢だった。
戦場で駆ける兄の役に立ちたいと、願っている。
そう、あの恐ろしい夢を、回避するために――。
「セレス」
遠くから声が聞こえる。
兄だ。
振り返ると、そこには兄アズライトとカーネリアン王子が立っていた。そばには、別の騎士達もいる。
何事だろうか?
「城で急用が出来た。今日、戻れるか分からない。次に屋敷に帰って来た時には、お前の訓練に付き合うから」
そう言って、そこにいた皆が馬に乗り、屋敷の敷地内から駆け出して行く。
兄の口調は冷静でこそあったが、様子がおかしかった。
「お兄様」
セレスの長い、蒼い髪が、風にたなびく。
兄の乗る馬が見えなくなるまで、その背を、金の瞳が追う。
突然――。
雷に打たれたように、頭が激しい痛みが走る。
「いたッ」
痛みに耐えられず、彼女はその場にしゃがみ込んだ。
彼女の頭の中に、鮮明な光景が浮かび始める。
兄と、王子が何かを抑えようと戦っている場面。
彼らの前に立ち塞がっている、化け物。
うずくまるようにして、叫びをあげている。
「小さい、子ども?」
だけど、なぜか、彼女にはその子どもが――。
「黒い」
――伝承の尊ばれし生き物の姿に重なった。
「竜……?」
彼女は、頭を抑えながら、ゆらりと立ち上がる。
「行かなきゃ……」
最愛の兄が、駆けて行った方向を見据える。
あのままでは、間違いなく、兄の命は――。
そうして、自分を奮い立たせるために、彼女は叫ぶ。
「お兄様! 貴方は、私が、絶対に死なせない!!」
その声は、虚空へと消えて行った。
次回は、金曜日までには更新いたします。
前作『癒し姫』(本編完結)に過去編を追記していますが、そちらと一次連動させようかと思います。
どうぞお楽しみいただけましたら幸いです。
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