ロザリオの歴程 一
遠くでシャランシャランという音が聞こえる。ロザリオの鎖が揺れる音だ。あれは和美のつけていたはずのロザリオ。あの戦いの最中に和美を助けて倒れた孝夫の首に、和美が掛けたものだ。孝夫にすがりつく和美を避難させることはできたが、あの時その後の孝夫を再び見ることはできなかった。夢うつつのまま、その音が遠くへ消えていく。その時に美奈乃は目を覚ました。この夢を皆のは何度見たのだろうか。今はクラスメイトとなっている弟の輝夫に聞いても、孝夫に関する情報はなかった。
あの戦いでウブスナは天の大軍によって粉砕され、クヴィルは火山のるつぼへ再び封じ込められ息の根を止められていた。早まったクヴィルたちのせいで、ベリアル達の戦いは充分な準備もなく開始されていた。ベリアル達は、クヴィルの戦いのあと、東京の高校群をはじめ、日本、アジア、そして世界の果てにまで、ベリアル達の呪縛、すなわちタールの沈殿のように若い魂を殺していく。しかし、限られた祈りの力によってベリアル達悪魔の呪縛から若い魂を解放する戦いが広がって行った。
ただ、その後の戦いのあいだ、その戦場に孝夫の姿はなかった。彼には美奈乃を守る任務があるためだが、それならば美奈乃の高校に現れてもよさそうなものである。しかし、彼女のクラスには孝夫の代りにその双子の弟の輝夫が加わっていた。
美奈乃と二人の少女は攫われた一件の歳の十二月、東京から北の北浦和へ移り住んだ。二駅程行った処に父母の治療を継続してくれる病院と和美を預かってくれる保育園があった為でもあった。美奈乃たちが新たに通いはじめた高校は、吉田先生の母校のミッション系一貫校で、来年度は和美も入学する予定だった。そこは、ロゴスと聖霊の、またその配下の御使いたちのお膝元であり、一番安心できるところであった。
学校にいつも通りつくと、朝の洗面室で身繕いをする。外ではいつも自動掃除機を引き受けている下男がいるのだろう。彼は弱視であるためサングラスを外さないで作業をしている。小鳥達が雪の止んだ森の中から、彼の周りに出てきて騒いでいた。教室の中では、小鳥たちの代わりに若い男女が集まって騒いでいた。
「輝夫くん、寒いのに早いわねー。」
「向島から一時間ぐらいだから……。」
輝夫の周りを、美奈乃と同じように転校して来た遠藤由美や川本敏子が囲んでいる。
「輝夫くん。宿題見せてくれない?」
「またかよ。まぁいいけど。」
美奈乃は孝夫の行方が少し気になっていた。しかし、こんな打ち解けたお喋りの時間は久しぶりだった。輝夫や御使い達が美奈乃を守るためにここを選んだところから見ても、一番安全なはずである。
「輝夫君はとても頭がいいのね。由美達が宿題の答えを参考にするぐらいなのだから。お兄さんの孝夫くんは、…その…教えても理解してくれなかったもの。まるで中学三年生から成長してなかったわ。」
輝夫は美奈乃の顔を初めて真正面から見た。彼女に見とれながらも、孝夫の現実の姿を思い出し、孝夫が可哀想に思えた。
「兄が学校に来られないのは、成績が悪くて辛いからかなあ。」
輝夫は美奈乃が孝夫にどんな思いを持っているのか試したかった。美奈乃に、孝夫が不登校になっているという発想も持って欲しかった。
放課後、和美を迎えにいく時刻まで、美奈乃は輝夫が文芸部部室へ来るのを待っていた。輝夫は孝夫と同じように文芸部に入ってくれた。どこの高校でも文芸部は少人数であった。それは想いを文に託すことにしかままならない者は、実は少ないからであった。美奈乃にも漠然とした不安が募り、彼女の作品にはそれが現れていた。部室には、美奈乃が持ち込んだ孝夫のホトトギスの十数冊もあり、そこにも描写の裏に隠れた人々の思いが載せられていた。
ほどなくして輝夫が元気なく部室に入ってきた。やはり孝夫の行方が分からないためだろうと思われた。美奈乃は輝夫に孝夫の面影を見いだすためか、最近輝夫の顔を見つめることが多くなった。それに呼応してか、輝夫も美奈乃の気持ちは受け止めていた。二人とも孝夫のことを少しは忘れてはいないが、若さゆえ次第に盛り上がる気持ちがほとばしるのは、時間の問題だった。
「このホトトギスは、僕の母のだ……。」
なんらかの痕跡を見つけたのだろうかと思われたが、輝夫はしばらく何も言わなかった。その後、輝夫は思い出したように会話を続けた。
「これは兄さんが持ち込んだの?」
「そうね、もう九月も前のことね。亡くなったお母さんのものたと言っていたわ。」
「僕にも覚えがある……。」
輝夫は愛おしそうにその古い雑誌に触れていた。その時、彼の心のうちには亡き母への慕情か、それとも行方不明の兄への心配か、いろいろな思いが渦巻いていたはずである。輝夫は独り言のように喋っている。
「どこにいるのかな?。みつかいに聞いても……」
「みつかいって?」
「いや……みつか………るひとにきいても、なあ。」
輝夫はごまかしたが、美奈乃は何のことかと不思議に思った。輝夫は相変わらずホトトギスをめくっている。
肉親の顔落葉さえ飛ばす風
雪の日や何処と問う声風の音
輝夫はメモにそう書いて、窓辺へ歩いていった。兄の孝夫と同じく高いはずの背中が丸く小さくなっていた。詠んだ句の内容からすると、行方不明の兄を追い求めているのだろうと思われた。美奈乃はその背中にそっと手をかけた。慰めるためだった。ふと、懐かしい孝夫の匂いがしていた。輝夫は孝夫の一卵性の弟であったから、当然のことだった。しかし、美奈乃の心は突然に動き、慰めるはずの片手は輝夫の背中に寄り添う両手となった。輝夫は美奈乃の左手を取った。
「冷たい。」
輝夫の心の中を温めるはずの手は、しかし、冷たすぎた。手では温まることはできない。いつしか二人は、互いの心を温め合うように身を寄せ合った。近ければ互いの心の中がわかったような錯覚がある。その思いは、若さにより増幅され、日の短い夕闇の部室の中に一つの影となって沈んで行った。
その窓の外では二人の様子をうかがっていた下男がいた。彼は左手のないままでも自動掃除機は動かせていた。夕暮れの部室の窓から沈んでいく二人の姿から踵を返し、何かを耐えるように肩に力を入れて掃除を続けていた。
暗い部室に携帯電話が鳴りわたった。ハッとしたように美奈乃は電話に出ていた。
「すみません。和美は私の妹です。はい、今から迎えに行きます。」
和美という声は、外の下男にも聞こえたようだった。
「いがった。美奈乃さんも和美ちゃんも無事だったんでねか。」
下男はそうひとりごち、静かに仕事を終えて去っていった。下男が戻った用務員室にはお湯が沸かされていた。下男が帰る前に警備員がもう来ていた。
「ご苦労様です。」
「お先にすつれえすます。」
下男は下校していった。歩いていくと、その前を輝夫が歩いていた。輝夫はこの学校の生徒らしく、聖書を諳んじていた。
『最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなれ。
父なる方による武装を身に着け、悪魔の策略に対抗して立て。
われらの戦いは、暗闇の支配者、悪の諸霊を相手にするものなれば、
父なる方の武装によって、この邪悪な日によく戦い、達成せよ。
正義を胸当てとし、信仰を盾とし、悪魔の放つ火の矢をことごとく消しつくせ。
救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取れ。』
下男はそれを聞いて話しかけてきた。
「今おかいりですか。遅くまで勉強ご苦労様でっす。」
この下男は少し訛りがある。そう思いながら、輝夫は懐かしそうにそのイントネーションを味わった。
「おらは、弱視だから本は読めねえけんど、今のは聖書の言葉みでだな?」
「ええ、そうです。僕に取っては特別なところです。兄と別れる前にともに授かった言葉なので……。」
「お兄さんけ?。何て名前の人だぁ?。なにか、えんがみたんけ?」
「孝夫といって僕の双子の兄です。」
その言葉を聞いて、下男は顔色を変え身じろぎした。輝夫はそれに気づかず、話を続けている。
「ある人を助けに飛び出していって、そのまんまやられてしまって………。」
「そのお兄さんはちゃんとかんげえて行動してねえよな?」
「止むに止まれず…。」
「そりゃ、でれすけだあ。」
輝夫は顔色を変えた。
「僕の兄を侮辱するのか?。」
「侮辱ではねえべ。事実だ。最愛の人を放っておいて、問題になってから勝算もなし自分勝手に戦い、ぶざまな姿に成り果てたんだべ。」
「なんで最愛の人を放っておいたとか、勝算もなしにとか、言えるんだよ。あんたがそんなにひどいことを言える立場なのかよ。」
「守るべき時に放っておいたら、取り返しがつかなくなるんだべ。」
「知った風なことを……。」
輝夫は下男に掴みかかった。しかし、下男は若く強く右手だけで軽々と輝夫の腕を振り払った。
「お前までここにきてるんか…。」
捨て台詞のように言いながら、下男はそのままさっさと輝夫を置いて歩いていってしまった。その下男は普段清掃作業をしているためか、下男からは饐えた臭いがした。そのひどい臭いにむせるように、輝夫は涙が止まらなくなり、立ち止まってしまった。