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霹靂の荒神、クヴィル

 九月末になった。もうすぐ学園祭だった。孝夫と美奈乃は心の衝動に悩まされ続けた。意識する感情の高ぶりは、彼らの頭脳を曇らせた。特に、孝夫はあの一件以来、硬い表情のままだった。

時間とともに、彼なりに感情に折り合いをつけて克服し、今では美奈乃の前でも硬い表情を隠せるようになり――――校内でも、再び、成績の悪い明るくおかしな男子として良く知られるようになっていた。

ある日後ろの黒板に細い綺麗な字体で「北川先生、あなたは私に絶望しか与えません。そんな先生は嫌いです。」と書かれていた。ちょうどこの日は数学が一時限目であり、北川先生の目につくように書かれていた。授業開始ギリギリできた孝夫は、クラスの異様な雰囲気をすぐに悟った。

「オラみたいな一番成績の悪い絶望的な生徒でさえ、北川先生は根気よく教えてくれるべ。ましてや、オラより成績が良いなら、なんでセンセがきれえになるんだべか。」

その一言はいかにも孝夫らしいものとして評判となり、この一件以来目立った軋轢は消えていった。そのせいか、孝夫のクラスの周りでは、夏休み前の軋轢の残滓は残っているものの、意地悪く人を扱うよりも過ちを許し合う校風を取り戻していた。

 しかし、孝夫は美奈乃との接触が増えたのにもかかわらず、美奈乃の前で緊張を解くことはできなかった。そのためか、孝夫は誘われても決して校外で美奈乃と過ごすことはなかった。


 他方、美奈乃は遠藤由美や川本敏子に誘われて柴又帝釈天の庚申の縁日に出かけた。美奈乃は直人と美代子が支援施設のリハビリ病棟から退院していないため、和美を連れていた。孝夫をも誘ったのだが、彼は相変わらず来なかった。

 帝釈天のお堂は、柴又街道を小岩駅から金町行きバスで三十分ほど行ったほどのところであろうか。待ち合わは夕刻だった。夕刻になると境内は賑やかになり、出店も客で混雑していた。その喧騒のせいか、美奈乃と和美は由美達を見失い、境内裏へ迷い込んでいった。

 狭いはずの境内なので、回り込めばまた表に出るはずだった。しかし、稲荷のような廃社を通り過ぎた辺りからぐるぐる歩き回されていた。いつしか縁日の喧騒はきえ、ざわざわと言う樹々のざわめきのような音しか聞こえなかった。それらは、七月に孝夫の周りで散らされた漆黒のの匂いがした。匂いが強まったときには、漆黒の広げられた翼のようなものが頭上に見えた。和美はなきだし、美奈乃は立ち止まって慰めたものの、自らも泣きそうになっていた。

 翼の細かな幾重にも重なった羽は次第に一枚の膜に変化して行った。しかし、翼の根本は見えず、それらによって次第に美奈乃と和美の頭上から周囲まで漆黒の闇が覆い尽くしてしまった。和美の身柄が美奈乃の手から力づくで引き離され、あたりは二人の悲鳴に似た泣き声が響くだけだった。


 いくほどの時が経っただろうか。そこに響く擬似声音は、美奈乃への呪い、孝夫への復讐を繰り返していた。

 我、奥那須の荒神、クヴィル様の配下なるべら。おめえら、孝夫の宝なれば、人質なるべら。


 その頃、孝夫は家に引きこもり、草履作成に励んでいた。美奈乃と話すことを意識的に避け、由美と敏子たちとも接触を絶っていた。しかし、そこへ柴又から来た由美たちが血相を変えて訪ねてきたため、応対せざるを得なかった。

「美奈乃がいなくなっちゃったの。和美ちゃんもいないのよ。自宅にも戻っていないし…。」

 孝雄にはまだわだかまりがあるようで、伝えられた言葉の深刻さを理解していない。三人がまだ話していると、そこへ叔父が飛び込んで来た。由美達はほかの心当たりを探すと言って出て行った。

「おめえ、何か大変なことが起きているんじゃねえのか。おめえの弟、輝夫が慌てている。こちらへ来るそうだぜ。」

「なんでだべ?」

「知らねえけどな。関谷駅で会いてえといっているぜ。」

「なんで鉄道の駅なんかで待ち合わせるんだべか?」

 気の乗らない孝夫は、それでも歩いて関谷駅に向かった。牛田駅との間の路地で、先に来ていたのは御使だった。怒ったような待ったような顔をしていた。

「孝夫、美奈乃様に付き添わなかったのか。」

「おら、美奈乃さんのそばにいてはいけねえべ。」

「美奈乃様はさらわれて行方不明だ。連れていた幼子もいなくなっているぞ。」

「えっ。」

 御使にまで行方が分からないことは、尋常ではない。孝夫はようやくことの深刻さを理解していた。そして、誘われたなら、素直に応じれば良かったと悔やみ、美奈乃への想いを断ち切って行動したいと祈った。しかし、それは叶わぬことだった。ここにおよんでは、事態はかなり大掛かりになっている。

「彼女たちがさらわれたことは、荒神の、いやクヴィルまでが絡んだ祟り、つまりお前への復讐だ。しかし、もはや孝夫だけの問題ではない。既に天の大軍が用意を済ませている。それゆえ、輝夫にも来てもらう。」

「なぜそんなに大げさな。」

「お前は山川家の祭壇から落ちた書を見たはずだ。なんと書いてあったか?」

「『恐れることはない、私はあなたとともにいる神。

 たじろぐな、わたしはあなたの神。

 勢いを与えてあなたを助け

 わたしの救いの右の手であなたを支える』………。」

「そうだ。それほどのお方なのに、お前は理解せず自分の感情で動きすぎた。付き添うべき時は付き添うべきだった。父なる方はそれゆえにこの事態を、役立たずのお前から外して天の大軍に任せたのだ。」

 孝夫は、さとっていた。もう、彼には万に一つのチャンスを狙い、命に代えて彼らを助けねばならなかった。

 しばらくして、駅に降り立った輝夫がいた。彼は孝夫とは異なりここまで鉄道できていた。

「兄さん、久しぶり。」

「ここまでどうやって来たんだべか?」

「えっ、東北本線で上野まで来て、そこで京成線に乗り換えて……。」

「歩いて来たんではねえんか?」

「そんなバカな…….」

 輝夫は後ろを振り返り、御使を見つめた。

「これほどまでに知恵を奪うのですか?」

「そうだ、愚かになり、人に仕えることを覚えるのだ。」

「しかし、これでは兄は…………。」

 輝夫は指摘をしようとしたが、孝夫が首を振って制した。この後牛田駅近くの貸衣装屋に入り込み、持ち込んだ祭礼服を身につけていた。その際に、孝夫は弟の輝夫に一つの頼みごとをしている。

「おらは、でれすけでいいべ。もともと慎重でねえ性分だしな。ただ、美奈乃さんと和美ちゃんは必ず助けたい…命に代えて。」

「にいさん…。」

「このことのために今ここで共に祈ってくれ。とりなしの祈りを。」

 久しぶりに二人のともなる祈りがささげられた。孝夫はこれで自分の命を盾にすることに十分だと思われた。そこに、輝夫が孝夫とともに祈りをささげたことで、彼らの心に刻まれていたロゴスが擬似声音となって二人の心に響いた。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなれ。

 父なる方による武装を身に着け、悪魔の策略に対抗して立て。

 われらの戦いは、暗闇の支配者、悪の諸霊を相手にするものなれば、

 父なる方の武装によって、この邪悪な日によく戦い、達成せよ。

 正義を胸当てとし、信仰を盾とし、悪魔の放つ火の矢をことごとく消しつくせ。

 救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取れ。」

二人は心にその言葉を響かせ導かれたまま、戦いの場に赴いた。


 ここは、渡良瀬遊水地の下生井というところだった。美奈乃と和美は、今では使われなくなった橋の下に縛られており、烏の大群が四方を監視するように群がっている。いや、それらはカラスではなかった。荒神の黒い影の集団だった。

 秋の気配が強く、空気は乾燥していた。そのため、遠くの音さえもよく響き、遠くの動きを早く察知できる天候だった。その近くの草叢だろうか。輝夫と、もう決して揺らぐまいと誓った孝夫だった。このあたりだろうと考えた輝夫はおもむろに座り込み、祈りの香りが立ち上り始めた。その途端に遠くからきらきらと響く歌声が近づいている。その音に合わせて、朝日を背に輝く煌きの大群が真っ直ぐに突入して来た。この煌きは大気の様々な場所で任意に起こる揺らぎの蓄積、いわば畳み込みによって生じた空気の動きである。孝夫から上る祈りの香りが煌めきに絡むと、煌きの集団がまるで意思を持ったもののように動いている。

 荒神の黒い軍団の一部は、これに呼応して向かっていった。しかし、まだ多くの黒い軍団は上空に展開している。やがて、その警戒している空域に光点が五つ現れた。それと同時に黒の軍団は予想していたかのように光点の周りに衝撃球体形を組んでいた。光点が現れ大きな光球、いや、煌きの大きな集団が衝撃球の外に突き出ると同時に、歌声の大波を伴った光点と、漆黒の翼の雑音とやの混沌が空を覆った。


 そのとき、孝夫は走り出していた。約二粁。美奈乃の前にたどり着き、上空に向かって声を上げた。光の渦が美奈乃の周りに集まったのを確認し、和美へと走った。しかし、既に鴉が孝夫に殺到していた。同時に彼の脳裏にはさまざまな思いが上がってきている。諦めろ、突き飛ばしたのは美奈乃だぞ、復讐しろ、諦めればこの世も全ての女もお前のものだ、……。

しかし、愚かな孝夫にはなんの意味もなかった。和美の目の前で足を貫かれ、左腕を切り落とされ、目をつつかれても、彼はヒュムヌスを伴って前進した。倒れて呻いていても、ナーヴとなり得た彼の祈りは聞かれ、一つの光の刃が孝夫の先を走り、和美の縄に達することができていた。

 幼い和美は泣きながら孝夫に寄り添った。

「助けて、お兄ちゃん。怖い。」

 孝夫は醜く目をつぶった顔を和美に向け、言い聞かせていた。

「もう大事ねえべよ。あの光、天の大軍が悪いやつをおっ飛ばすからよ。」

「でも怖い。」

「早く逃げるべ。おらはほっとけ。だいじないから」

 そう言って孝夫は力尽きた。和美はロザリオを孝夫の首にかけ、言葉をかけ続けていた。しかし、そのうち美奈乃が和美に近づき、孝夫にすがる和美を背後からそっと抱え、輝夫とともにそこを離れて行った。


 既に荒神は粉砕されていた。逃げるクヴィルを追うように戦場は北上して行った。今までにない規模の大積乱雲が那須の方へと流れて行く。その雨の中に孝夫は横たわったまま残されていた。左手と視力を失った孝夫は再び立ち上がることができたが、すっかり形相が変わってしまった。

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