漆黒の呪縛 二 沈澱
孝夫は眠れなかった。こうなっては彼のやるべきことは、ただ祈ることしかない。そして、彼の心は決まった。
彼は次の日の未明、いつもより早く町雀たちが騒ぎ始めたころ、東向島の路地裏の二軒長屋から出てきた。夏の朝日はまだ登ってはいなかったが、夏特有の湿気の多い空気は既に暑さも含んでいる。彼の制服の蛇腹は昨日の一件で汚れたまま――――額の傷跡もそのままに、彼は叔父の手になる簡単な朝食を食べて、重い学生鞄とともに出かけるところだった。玄関の隅で、叔父の中島良平は黙って仕事をしている。手際よく草履材の形を整え、膠で張り合わせていく。
「行ってくっぺ。」
直立し丁寧な言葉遣いで声をかけると、
「おう、いってきな」
と返ってきた。
ガチャガチャと古い荷物用自転車を、路地奥の倉庫から引出した。これは、元々近所の酒屋さんからもらったものだった。昨日の一件の後、修理を済ませ、今朝も孝夫は古い温泉手ぬぐいで黙って器用に磨き上げ油をさせば、立派に動くようになっていた。
「これで、はあ、きょうもかっこいぐ、うごくんでないかい。ぼっこわれずに堂々と進むべ。今日のにぇんむには、はぁ、最適でねが。」
どんな精神状態でも、掃除の後は、いつも爽快感が心に溢れる。そして、こぎ始めたらもう、大通り――――マラソンの快感に似た気持ち良さを感じながらさらに20分ほど入り組んだ路地を抜けて、押上から錦糸町の高校へ。まだ薄暗いものの、後ろから町スズメ達が騒ぎながら後を追っている。やっと覚えた道順にクラスメイトから聞いた道を重ねて、毎日の通学路にしていた。しかしながら、タイヤを変えた重量級の自転車は、ペダルまで重い。スピードも出ない――――教科書でパンパンにした鞄を荷台に乗せて、ぎーぎー進んでいく。まるで苦力が力仕事をしている声のような音を出していた。そのせいか、多少ぶつかってもふらつくことはない。それは、彼の理想とする任務に向かうスタイルでもあった。
錦糸公園や江東楽天地を左に見ながら、錦糸町駅前広場を右へ折れ、京葉道路沿いを進む。駅南口前から三つ目の信号機辺り左手に、校舎が見えてくる。孝夫は、回り込んだ先にある校門へ向かっていった。
日の出の前に校門は、まだ開いていなかったものの、自転車置き場に通じる通用門は開いていた。校舎にも校庭にも人影は見当たらない。金網の塀が破られた辺りに井戸と崩れ落ちそうな廃屋があった。それは孝夫が少し前から目をつけていた廃社殿だった――――もとは稲荷だったのかもしれない。しかし、壊れているはずのドアは簡単には開かなかった。やがて朝のひかりの中で、孝夫はそのドアの前に座り込み、目をつぶって呻きをもって祈っていた。そこで彼ができたのは聖霊の執り成しを求めやっと一言を言えるのみだった。
「御心のままになりますように。」
しかし、それで十分だった。ナーヴ、つまりナーヴディプレギエーラとなった孝夫から、ヒュムヌスの香りが立ち登り、彼のの周りに起きた静かな一陣の涼しい風がそれを吹き上げ始めていた――――ー朝日がその風の煌めきを輝かせ、その煌きがドアの隙間から入り込み始めている。それに追い出されるように、沈殿物のような漆黒が廃社殿のドアの隙間から孝夫の周りに殺到した。孝夫は気づかなかったのかもしれないが、漆黒の群れが孝夫に殺到するそのたびごとに煌きの群れによって粉砕され、消え去っていった。しばらく嵐のようなその光景が繰り返されていた。そこに、孝夫を探して登校してきた美奈乃が孝夫に駆け寄っていた。漆黒の群れの目が怪しく美奈乃をむき出しに睨むとともに、最後の漆黒が外へ消え去っていった――――確かに美奈乃は底知れぬ者に睨まれたと感じていた。
身じろぎする美奈乃の気配に孝夫はやっと目を開けた。
「来てくれたんかい。」
「孝夫くん、ごめんなさい。」
「初めて『孝夫』と呼んでくれたべ。それでおらは十分だ。」
孝夫は独り言のようにつぶやいた。
「もともと人間は愛を持っていねえんだべ。んだから失いやすいべ。自ら獲得するなんて、空海上人ほどの修行の果て、人生の終わりに得られるかどうかだべ。だけども、人間は一度経験した苦しみに耐えて立ち返ったら、まるで免疫の様な力があってもう強くなっているさ。神様は昨日の夜、言ってくだすった。『今や私は、あなたの額を彼らの額のように硬くする。あなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにする。』とよ。」
彼は立ち上がり、三高の校門へ歩き始めた。ちょうどみんなが登校してくる時間だった。
「おはよう」
「おう、げんきか」
もとのすがすがしい校風が吹いていた。打ち払った後の彼は、もうこの高校にいる理由はなかった。しかし、孝夫を追ってきた美奈乃は、校門で孝夫の袖を引っ張って引き留めようとしていた。
「授業に出ないの?」
「もう、おらには必要ないことだべ」
「だって、三角関数を理解していないじゃないの。」
明らかに場違いなことばだった。しかし、美奈乃は『いかないで』と素直には言えなかった。
「三角関数け?。それは指数関数から定義されることだべ?」
「指数関数?」
「指数関数も三角関数も、足し引きで互いを表せるんだべ。ファインマン先生は、それらをオイラーの宝石だといったべ。」
「指数関数?、おいらの宝石?。」
登校してきた数学の北川先生が横から口を入れてきた。
「孝夫、オイラーの宝石を知っているのか?。じゃあなんで三角関数がわからなかったんだ??」
「い、今はわかるんだべ。その、……フーリエ変換のこともしってんべよ。」
「どこでそんなことを・・・・??。まあいい、そんなに数学を知っているなら、君だけ特別に再試験をしよう。あとできてくれ。」
北川先生が離れた後も、美奈乃は孝夫の袖をまだ放さなかった。孝夫は心の中でまたこの光景が繰り返されるような気がしていた。
「美奈乃さん、あとでお話しするから、いまは放してくんねか?」
美奈乃にとってこの日の孝夫は、まるで別人のようだった。古文はもちろん数学も物理も、授業で質問を受けてもすでに応用問題までこなした後のような答え方をしていた。
その日の夕方、再び、明るい活気を戻した校舎の屋上で、美奈乃は特別試験を受けた孝夫を待っていた。傾いた夕日を背にして、孝夫は語り始めていた。
「もう、この高校はしんぺえねえべ。おらは用済みなんだべ。」
「もう少しいてくれるの?」
「でもこの高校には通わねえべよ。高校卒業レベルは終えているべ。数学はもう微分積分、極限迄こなしちまったし……。物理も化学も地理も歴史もみんな………。」
「どうしたら会えるの?」
「美奈乃さんの出ると入るとを見ているべ。」
孝夫は夕日の輝きの中で影が薄くなっていった。
「待って」
「心配しねえで。必ず近くにいるから。」
美奈乃は、夕陽に薄くなる孝夫を見ながら戸惑っていた。あの恐ろしいものを見たまま、ひとりにされてしまうのだろうか。
「わたし、孝夫くんのところから逃げ出す黒い恐ろしいものに、にらまれたわ。あれは何なのかしら。」
孝夫は事態の深刻さを改めて認識した。特に美奈乃がそれに魅入られた恐れがあった。その考えは、孝夫の愁眉の色を増していた。
「見たんかい?。それを・・。」
夕日の輝きから見慣れぬ青年が歩いてきた。
「孝夫よ。お前の仕事はまだ終わっていないようだ。」
「でも、この高校には学ぶことはないんでねえべか。」
「いや、もう一度通ってもらう。」
「またかよ。ちょっと待ってくれ、またでれすけになるんだべか。」
そう言って孝夫が食って掛かろうとしたとき、夕陽が輝き青年は消えていた。
「はあ、またもでれすけになってしまったべ。」
「でも、朝話したときは三角関数がおいらの宝だって言っていたよね。」
「何のことだべ?? おいらの宝は・・・・お仕えする美奈乃さんだべ。」
赤くなりながら孝夫は、聖隷の忠誠を誓っている。言っている調子からみて、彼はやはりまた愚か者に戻っていた。美奈乃は喜んでいいのか、悩みの種が増えたのか、わからなかった。ただ変わらないのは、孝夫の端正な顔つきと上目遣いに話す癖だった。