にじの曲線
7月になった。期末試験の終わり間際、梅雨末期の典型的な激しい雨の日が続いている。この日は東京ではお盆の迎え日だった。美奈乃を除く家族は親戚と共に二週間の旅行の予定だったが、美奈乃は補習の為に一緒には行けなかった。
美奈乃は今日の試験勉強が一段落した。和美を迎えにいかなくても良い日だったため、雨音の響く部室で原稿用紙を前にして、浮かんでは消える幻を追っていた。まだまだ本業の方をまたやらなければならないと感じている。顧問の吉田先生も孝夫も補習授業で不在だった。
文芸部は、今のところ美奈乃のほかは三年生の先輩が四人ほどいる。しかし、受験勉強が本格化するこの時期になると、彼らは退部したのと同じだった――――夏休みの間に、部誌を完成する方針だったが、彼らから原稿を集められるだろうか。
孝夫は物理と数学の補習で散々絞られて帰ってきた。この部室では本来なら創作活動か、部活動の相談をすることになっている。しかし、今日の孝夫は、とてもその気力は残っていなかった。もう直ぐ六時近くなので、帰宅しても良かったのだが。習慣的に顔を出してから帰る形になっている――――でも、誰も帰宅して部屋にはいないだろうと思われた。孝夫はおずおずと部室の戸を開けて、彼は少し驚いた。また、顔がみるみるうちに発熱していた。
「…しつれぇします。あれ、いえさ、はー、いってみないのけ?」
「どこへ?」
「だがら、いえだべ?」
「家に帰るってこと?」
「そ。…吉田先生は? いらしてねえの?」
「まだ今日は、いらっしゃっていないわ」
孝夫は、美奈乃の笑顔を見て、アザゼルの荒野に与えられた命の泉を思った。美奈乃をはじめ、この学校の生徒たちは皆愛すべき性格の持ち主だった。彼等の心の安寧を守りきることが、いかに自分にとって大切なことかを肝に命じていた。
それでも、補習授業の繰り返しで疲れ切っていた孝夫は、そそくさと部屋の奥へ進む。本でいっぱいの鞄を床に置き、頭を抱えて座り込んだ。今日の補習は相加平均相乗平均の扱いだったようで、知恵の味方のはずの言葉が孝夫の内外に呪いとなってまとわりついていた。
「そうかそうですそうじょうへいきん…さはにじにしてぐらふでみてみよ。そうかそうですそうじょうへいきん…さはにじにしてぐらふでみてみよ。そうかそうですそうじょうへいきん…さはにじにしてぐらふでみてみよ。」
遅れて、吉田先生も入ってきた。それでも孝夫は表情が硬かった。そんな孝夫をみて、美奈乃はそっと話しかけてみた。
「今日も絞られたみたいね」
誰に向けられたわけでもない呪文のような孝夫の声が、返事になっていた。
「…そうかの方がそうじょうより上。それがちょっとだけわからね。」
美奈乃は声を大きくして、話しかけた。
「abとも、正の数でしょう。二次の式にしてみたら?」
混乱していた孝夫は、まだ独り言のように話していた。
「にじかぁ。『虹の向こう行く者たちの残す跡』とかなあ」
「俳句? そのにじではなくて、二次関数のことよ」
ようやく我に返った孝夫は、返事を返した。
「たしかに先生も、はあ、そうかとそうじょうに関わるのがにじといってたなぁ。物理だったんけ?」
美奈乃は、孝夫の頭の中が見えたように感じた。数学と物理が全くダメな様子だった。美奈乃は孝夫の理科的能力のなさに驚き、ため息とともに立って孝夫の方へいかざるをえなかった。
隣りに座ってきた美奈乃を見て、孝夫は思頭の中が真っ白になった。授業では、隣の石川智子がいてもあまり気にならない。しかし、美奈乃が隣りに来たことは今までなかった。美奈乃の笑顔に、孝夫の顔はさらに発熱していた。
「私もあまり得意ではないけれど、わかる範囲で教えてあげる。ノートを開いて見せてよ。」
美奈乃のノートは問題ごとに一ページを使っている。それを見れば、全てが頭に入るほどにはまとまっている。孝夫のノートは……物理と数学と化学が、一つのノートに記入されていた。
「今日の補習授業は、どこに書いてあるの?」
「ここだっぺ」
示された箇所を見ると『相加平均そうかへいきん、相乗平均そうじょうへいきん、次回までに説明すること。ヒント、にじのファンクションもしくはにじの曲線でしょうめい?』と書かれていた。その前のページには、物理の光の屈折が書き込まれていた。およそこの高校の生徒とは思えない冗談のようなノートの使い方だった。
「えっ? これなぁに?」
美奈乃は思った以上に孝夫の勉強法が酷いので、少し苛立った。孝夫は、光の屈折と数学のページを指差して、相加平均が相乗平均よりいつも上になることについては、にじが関わっていると説明した。
「ファンクションてえのは、働きだっぺ? 機能だっぺ? つまり、にじのファンクションによって、屈折で分けられたいろいろな色の光が、そうじょうに重なっていくべ? それで、いつもうえからそうかされていて…それで、にじのファンクションによってそうかの方がそうじょうより上で…ねか?」
孝夫の顔を見ると、ふざけているわけではないらしい。孝夫は真剣だった。少々苛立ちつつ同情的になってくれている美奈乃の手前、いっしょう懸命わかったフリをしていた。
「にじのファンクションて、なんのこと?」
「ファンクション?。にじの?そりは、にじのファンクションが曲げた光が下から層化して積み重なって曲線になっていくんだあ。そいで、その下に層状になっているって…。んだから層化がいつも上で、そりより下に層状の部分ができるって。にじのファンクションがこうやって曲線を描くんだべ。」
「ファンクションて、なんのことだかわかっている?。関数よ。ちょっとだけでなくて、全然わかってないんじゃないの?。」
美奈乃は今まで家族以外の人に大声をあげたことはなかった。ましてや、孝夫には文芸部に入ってもらった引け目もあった。というより、孝夫の現状にとても不安を感じていたのだった。孝夫は、美奈乃の前でかっこ良く見せたかったが、余りの美奈乃の剣幕に観念して告白した。
「とうと、わがんねがった。ゴジャッペだ。」
美奈乃はすっかり困惑していた。そもそも、物理と数学のノートを別にすべきだし――――先生の板書を書くことも必要だしーーー美奈乃は少し気を取り直して、明るくいった。
「物理と数学のノートを別にすべし」
「そだ。すべ」
「すべ、じゃない、すべし。古文でやったでしょう」
吉田先生はついに笑い出した。
「山川さんはまるで先生だね。でも、中島君は深刻なことになっているよ。補習授業はわかった?」
「…いえ。……ぜんぜん・・・」
孝夫はこの調子で、よくもこんな進学校に合格したものである。とはいっても、孝夫のいうには、中三の中頃まで栃木県の奥に居たころは、たしかに県立宇都宮高校に行く予定だったという。ただ、ノートを取ったことのない彼は、中学校でもろくなノートの取り方をしていなかったらしい。とにかくも美奈乃は、説明を試みた。
「相乗平均は√abよね。相加平均は(a+b)/2ね。相加平均から、相乗平均を引いた式は?。・・・そうね。それならここで、A^2=a/√2、B^2=b/√2として、それぞれを書き直してみて。」
吉田先生が心配そうに見ている前で、順序立てて、孝夫は式を書いていつた。因数分解まで説明されたところで、孝夫はやっと理解した顔をした。
「でも、何故、二次関数なんだべ?」
「A-Bをx、引き算の答えをyとして見なさいよ。この二次関数の曲線はy切片がマイナスでない限り、全ての値がプラスでしょう。」
「にじの曲線け?。あっ、これが虹の曲線だべ」
「何言ってんのよ‼。二次関数の曲線よ。因みに虹の曲線は半円だから、形が全然違うわ」
「したっけ、そうなるのかあ。ふんじゃあ、美奈乃さんは勉強分かるんけ?」
美奈乃から見ると、孝夫は頭が悪いとしか思えなかった。吉田先生はアドバイスをだしてくれた。
「科目ごとにノートを用意して、その日のうちにまとめページを書いて復習しろ。わからなかったら友達に聞け。」
孝夫は立ち上がり、直立不動で深く二人に頭をたれた。
「ありがとごぜぇました。」
申し訳なく思ったのか、孝夫は一礼をした後帰ってしまった。今後に少しの期待はもてているように思える。
孝夫は逃げ出せてホッとしていた。
「おらは習ったところがわがんねけんども、ときどか熱が出るとわがるときがあるんだわ。そのうち、わがるようになるっぺ。だども、要領を得ながったな。ノートをとらねがったし、ふぐしゅうしてながったしな。ほんど、美奈乃さんにめいわぐかけちったな」
孝夫はのんきにこんなことを言いながら、駐輪場へ降りていった。そこには、がっくりと肩を落としているように見えた若者がいた。孝夫より少し年上に見える。
「孝夫!仕えている人に、大声で怒られるとは。」
「でも、近くにいてお仕えしていると、勉強にうるせんだもの。」
「とにかく、便宜を図ってもらうことは避けろ。」
「したって、どうすりゃいいんだべ?。オラを頭悪くしたのはそっちだべ」
「下僕としてお仕えするのだ。謙虚さを身につけるためにも、そのぐらいの能力でよい。この高校は今は束の間の平安の中にある。しかし、順位競争の始まった時に、皆が試される。そのときのためにおまえはここに来た。特に美奈乃様にお仕えすることで、二人の祈りを得るようになれ。二人祈りを合わせるところには必ず聖霊が働き、ロゴスが心に刻まれる。だから、身を呈して平安を守り抜け。」
若者は、孝夫に『素性がバレないように』と再度注意を喚起して立ち去って行った。