授業の日々
いつも授業は八時半からだった。今日の最初は古文の時間――――あとは、数学に化学に、生物と小難しい科目が続く。
古文は、小倉百人一首であった。美奈乃は予め用意しておいた解釈を頭に入れた。吉田先生が心地よいテンポで詠みあげていく。
はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほすてふ あまのかぐやま
初夏らしく街路樹の蒼い木蔭の下には白いシャツの通行人が目立つ。教室もシャツ姿が多い。その白さと和歌の世界を重ねて見ることのできる時期だった。情感のほとばしり出る短歌は、彼にとっては新鮮である――――孝夫は、ホトトギスの古典俳句や現代俳句の凝縮された短さとは異なるリズムを味わっていた。
「中島、どれか好みを読め。」
孝夫は、特に下の句の言葉を噛み締めて、読み上げていく。
つくばねの みねよりおつる みなのかは こひぞつもりて ふちとなりぬる
美奈乃は、孝夫の活舌の良さに驚いていた。皆も孝夫を見ていた。しかし、孝夫は美奈乃の名前が出ている、山川美奈乃を好いていることがバレてしまったと合点してしまい、悪い癖ですぐ赤くなっていた。こうなると、もう何も頭に入ってこなかった。固まってしまった孝夫の姿を見て、美奈乃も落ち着かなかった。――――先ほどから、吉田先生が何か言っている。孝夫はやっと気が付いた。
「……みなの……がなぜ好きなのか聞いているのだが。」
と聞こえた。そう見抜かれているなら、正直に答えねばならね。
「親切で笑顔がめんこくて……。」
吉田先生は笑っていた。
「今、君に口読してもらった短歌をなぜ気に入ったのかを、聞いているだけなのだが…。」
孝夫は慌てて返事をした。
「こ、こりぇはこえのうたデス。こえに落ちた作者がみなのさんをみぇつめった情景が、想像出けます。」
「美奈乃さんでは なくて筑波山だろ?。肥えに落ちたのか・・。臭いなあ。それで見つけたということね?」
「んだがら、こえです。それがら、めっけたんではなぐで、みつめったんです。」
「美奈乃さんをか?」
教室は笑いに満たされ、美奈乃は顔を赤くしていた。
「いえ、筑波山をです。」
先生が恋、見つめると板書した。孝夫はやっと意味が通じて赤い顔に汗が浮かぶ。ーーーその赤は、先生にまで美奈乃のための任務を忘れた後ろめたさと、秘めた心を見透かされた恥ずかしさをよく表していた。
この日の二時間目は三角関数の授業だった。北川先生の甲高い声が響く。
「三角関数を説明するぞ。しかし、これにとらわれてはいけない。第一象限から第二象限へ、点が円周上を巡るとともに、サインとコサインの値が変化する…。」
生徒らは、カサカサとノートに書き取っている。美奈乃は三角関数の基本概念、公式の意味、応用の意味を、思い出していた。ところが孝夫は、言葉を書き取っているものの、訳がわからなかった――――なぜ、こんなものが役に立つのか――――現実離れした概念に拒否感を感じ、まったく理解ができなかった。
「第二象限から第三象限へ、円周上の点が移動すると、x軸の値がプラスからマイナスへ変化する…。」
甲高い北川先生の声に、通奏低音のような孝夫の呪いが重なっていた。
「わがね、わがね、わがね、わがね。」
見かねた左隣の石川智子が、白い右手を伸ばしてきた。教科書の図を開かせ、円の中の三角形を示してくれた。
「第一象限はここ、この円周上のある点と中心とを結ぶ半径を一辺とした直角三角形があるでしょ。残りの二つの辺の数値が変化するの。横方向がサイン、縦方向がコサインよ。」
眠気が襲ってきて、三角形が体操を始めた。
「伸びて縮んでひっくりけえって……。そうかあ、上と右手は素直な態度で、下と左手側は根性がひん曲がっているんだべ。」
寝ぼけながら、そう口に出していた。孝夫の寝ぼけに気づき、北川先生は質問をしてきた。
「中島、立て。第ニ象限ではサインの値は正か負か?。」
「下へひっくり返っているんだべ。だからまいなす、す。」
「はぁ?。よく聞けよ。ある角度の際、半径が1の円周上の点から、x軸に垂線を下す。そのx軸の値が角度の関数になっている。それがサインだ。ここからサインにはどんな特徴があるといえるか?」
「なんのサインですけ?」
「関数のサインだ。わかっているのかなあ。じゃあ周期関数と言うんだが、その特徴は?」
他の生徒はわかっているらしい。しかし、孝夫には呪文としか思えない。これでは、理解できないまま繰り返されてしまう――――孝夫は泣けてきた。
「くりかえしだぁ」
北川先生は、うなづいて
「そうだ。繰り返しとなるんだ。わかっているじゃないか。よし座って良い。」
そのあとも、数学に物理と、彼にとっては不思議な難しい時間が過ぎていった。
やっと放課後――――傾いた西陽が壁を鈍く照らす。この東端の校舎は、蔦が覆い尽くした大戦前からの建物だった。中は細かく部屋割りを指定され、運動部や文化部の部室として使われていた。
美奈乃の所属する文芸部は、最上階の隅にあった。今は三年生に数人と一年生の美奈乃だけが所属する文芸部だが、人数に似合わない大きなテーブルが部屋の大部分を占めていた。昔は大人数のクラブだったが、今は同好会の扱いになっている。――――彼女の持ち込んだポピーの蕾が、一輪挿しに飾られていた。
美奈乃は一番に来て、その大きな机の角に座った。彼女は、自らの短編小説を完成させるつもりでいた。授業の復習も、ここで済ますことが多かった。美奈乃は、大学ノートをガサガサと取り出した。そこには、絵や人物像、構想のメモなど、家族にも友人にも見せられない秘密があった。想像して書くことには限界があることを感じながら、カサカサと書き付けていく。――――ふと、おぼろげな母の姿を思い出していた。今は、カナダバンクーバーにいるということしか、教えられていない。家族を捨てて、母親は何を求めていったのだろう。最近は、そんなことを考えることが、多くなった。
コチコチと、壁の時計が動いていた。美奈乃のペンは、どのくらい止まっていたのだろうか。部室は、古くからの部誌と、歴代部長の好みで集めた小説集が、所狭しと並べられていた。隅に.申し訳程度に、短歌集に俳句集が置いてあった。あとから、孝夫も文芸部へ来ることになっている。ホトトギスを寄付してくれるという。弱小クラブであるため寄付はありがたかった。――――多分、彼はぶっきらぼうに来るんだろうなと、ぼんやり考えていた。孝夫は周りとほとんど話さない。それでも、受け答えの真面目さと熱心さは、正直の上に馬鹿がつくほどだった。最近は、赤くなると彼の方便でさえ詰まることがあると分かってきた。クラスの皆がそれを好感していた。
「しつれぇします。」
無作法にもガタピシと ドアを開けて、孝夫が入ってきた。片手にホトトギス、肩には教科書で一杯の鞄、ドアを開けた手にはポスターがあった。
「これ、海開きのポスター。これ、おらのお袋のホトドギス。うぢに置く場所ねぇから、持ってきった。」
孝夫は、報告するかのように一気に話した。机の上に、どさりと荷物を置いた。
「こんなに持ってきてくれたの?。ありがとう。」
美奈乃はよく笑うし、その笑顔がとても可愛いかった。とびきりの笑顔に孝夫は急に口籠り、顔を赤くしてもじもじし始めている。視線は天井を見上げていた。
「山川さん、入部したいなぁ、なんて・・・。」
「えっ。」
と美奈乃は孝夫を見た。孝夫がチラリと視線を美奈乃に向けたが、美奈乃の視線を感じてまた天井を見ている。美奈乃も慌てて視線をノートへ移した。
「えーと。大歓迎よ。今は部員が私だけ。部誌だって発行できないんだもの。それに、中島くんは、古典のテストの点数もすごくいいし。」
孝夫は、テストの話まで出てきたためか耳まで赤くなった。もう、美奈乃の顔を見ることさえ出来ないらしい。美奈乃は美奈乃で饒舌になっていた。
「中島くんは、短歌に慣れているの?。読み方がとても綺麗よね。あのホトトギスは、おかあさんの?もらっちゃっていいのかしら?おかあさんは俳句をなさっているの?」
孝夫は無表情に徹しようとした。不意に浮かんで来た重い記憶に、少し身じろぎした。決して小さくない母の死の現実、襲われる前の母の働く後ろ姿とにこやかな笑顔の記憶。――――それらが浮かんで来るたび、孤独な時の彼を苦しめていた。それを少しでも減らすため、思い出の品を手放していた。孝夫はいつの間にか直立不動の姿勢だった。ーーーいつも何かに耐える時はそうだった。
「ホトドキスは、もっとある。お袋は死んでっから。」
孝夫のいつもとは違う低い声に、美奈乃は慌てた。
「ごめんなさい。そんな話をさせて。」
少し間が空いた。孝夫の赤面もきえていた。彼は天井を向いたままだった。
「俺こそ、ゴメン。……こんな態度を取って。」
ポツンと語って、彼は踵を返した。彼の顎が震えているのが美奈乃にもわかった。
「ゴメン。これでやんべ。」
彼はこんなに早く帰るつもりはなかった。美奈乃のいる学校は、苦しくても楽しいところ。ましてや、部室は、ただ同じ時空に居られると考えるだけで幸せだった。しかし、彼はまだ親の死を直視できていなかった。また、彼は誰にも涙を見せたくなかった。孝夫が去った後、美奈乃は、ことばの恐ろしさを改めて思った。彼の感情を自分に重ねていた。いつの間に大きくなったポピーの蕾が大きく揺れていた。
美奈乃は、和美と帰宅した。保育園からの道を、和美も黙ってついて来た。二人だけの夕食は、美代子が朝に用意してあったものだった。蕗の煮物、蕗の葉の塩漬のオニギリ、カレイの煮付け、コーンのサラダ。
和美は、手のかからない子だった。――――美奈乃はまだ、美代子に対する大きなわだかまりが消えていなかった。それを敏感に感じているのか、六歳の和美も静かに過ごしていた。
「美味しい?」
「うん。」
「私の分も少し食べる?。」
「えっ?。いいの?。」
本来なら美奈乃は食べきってしまう。しかし、部室での孝夫の硬い表情と顎の震えが、頭から離れなかった。直人も美代子もまだ帰ってこない。和美は、一人で絵を描いて過ごしていた。美奈乃は気を取り直して、和美の側で勉強をすることにした。
しばらくして、家の固定電話か鳴った。父親の直人からだった。
「無事に帰っていたか。」
「そうよ。迎えにも行ったし、食事も済ませました。」
「それはありがとう。」
感謝の言葉を聞いて、美奈乃は少し気に障った――――もっと私をみてよ。そう思ったのかもしれない。
「言われたから、ちゃんとやりました。」
「助かるよ。」
直人は、仕方ないなあという口調となった。
「今夜は遅くなるけれど、そのうち、学校のことを教えてな。じゃあね。」
電話は切れた。ツーという音が耳に響いている。しばらくしてまた電話があった。知らない固定電話の番号だった。恐る恐る電話に出た。家には和美しかいない。不安な気持ちが声を震わせた。
「……もしもし。」
電話の声は遠かった。向こうは、咳払いを何回も繰り返していた。聞き覚えのある咳の仕方だった。
「もしもし。中島孝夫と申すもんです。あの、スンマセン。えー、あのー、山川ッサン、えらっしってますか。」
ほっとするやら、嬉しいやら、びっくりするやら、沸騰するように口と心の蓋が開いた。
「もしもし、私です。美奈乃です。」
「あっ、えっ。」
電話の向こうでは、孝夫が慌てていた。普段電話をしたことのない孝夫は、電話をするだけで緊張していた。しかし、不愉快で失礼なことをしてしまったという罪の意識に苛まれて、結局電話をしていた。罪の意識のほか、慣れない機械の扱い、女子生徒の家に入り込むごとき電話。罪の意識、不安、緊張。背後を良平が通ったのにさえ驚いた。そして、コール音のあと、細いおずおずとした覚えのない声にさらに驚いていた。
「どうしたの?大丈夫?。」
「ゴメン、今日のこと。」
「こっちこそ、ゴメンなさい。嫌なことを思い出させて。」
「いや、おら、平気でなくてはならなはんだで。」
「そんなことないのに。」
「うん。」
それから、何故か言葉が出てこない。孝夫も美奈乃も一生懸命なのだが、決まり悪い時間が重なられば重なるほど、彼らの言葉が会話にならなかつた。
「あの、もう切らねば。迷惑だろっし。」
「うちは、まだお父さんお母さんが帰っていないの。」
なんで、孝夫にこんなことまで言うのだろうか。それでも孝夫の声はなぜか安心感を与える声だった。美奈乃は、意外な自分の反応に驚いた。
孝夫の後ろで、たしなめる大人の男の声が聞こえる。
「語るに落ちたな。おめえよ。顔に大好きって書いてあるぜ。」
「えっ。と、どこに?。」
「おめえは素直なやつだなあ。まあ遅いから、先様に迷惑だぜ。はやくきりあげな。」
電話を通じて聞こえてくる会話からすると、お父さんではない様子だった。しかし、彼の上ずった声の原因はこのひとだ、と感じられた。会話の内容と声の上ずりから、まるで、彼の秘密を知ってしまったような感覚だった。
「もしもし、ほったらかしで、ごめんな。」
「いいえ、こちらこそ。家に誰もいないから、電話をくれて嬉しかった…。」
「そおけぇ。」
「じゃ。」
「うん。」
美奈乃の胸は、何故か、しばらく高鳴ったままだった。孝夫は、良平に会話をきかれ、慌てたのと決まり悪いのとで、頭の上から汗をかいていた。