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初夏の朝

 山川美奈乃は、少し前に錦糸町の駅に着いたところだった。彼女の新しい家は小岩駅から柴又通りを超えて出た土手沿いにあり、彼女は小岩駅から通っている。三高入学から二ヶ月して、新しい母親の美代子と小さい六歳の和美が家族に加わり、――――彼女は、今朝の母親とのやりとりを思い出していた。

「今日は早く帰ってきてください。帰ってきたら、和美にお菓子を食べさせてくれますか。私も帰りが遅いので、和美と一緒に夕食を済ませてください。」

「はい。」


 以前、父親の直人に「なんでよ。」と食い下がったときがあった。二人だけの時だったなら、父親は静かに窘めつつも受け入れてくれた。しかし、再婚して二人を迎えたあとの父親は、にべもない。

「いいでしょ?。」

「理由は言ったじゃないか。ダメだ。」

「前は、許してくれたはずだったわ。」

 美代子がたまらず、間に入った。が、美奈乃はそれも気に入らなかった。

「あなたは黙っててよ。」

「それが母に対する態度か。」

「この人は母さんじゃない。」

 美代子は顔を曇らせたが黙っていた。直人は、祭壇から十戒の刻まれた厚い和紙を取り出し、黙って指差した。

「父母をうやまへ。」

「父母は神が決める。受け容れろ。」と言われているようだった。美奈乃は食い下がったが、もう誰も何も言わなくなった。美代子は和美を保育園へ連れていき、父親は家鍵を渡して出勤して行った――――二人とも職場は中学の教師であった。突き放した態度は新しい母親と小さい妹の前であったためかもしれないが、父親はもう美奈乃だけのものではなかった。


 総武線の各駅停車は、まだ冷房が入らないため、開け放った窓から風がはいる。その混み合った各駅停車の中で、彼女は赤尾の豆単を開けながら心は泳いでいた。

「今日も遅く帰ろうかな。でも、あの子を迎えに行かなくちゃいけなかったなあ。」

 いつの頃からか、お喋りはかげをひそめた。黙って浮かんでは沈む幻に浸って、時を過ごすことが多くなる――――孤独を纏いつつあった美奈乃に、知らずのうちにまとわりついたものがもう一つあった。孤独を好む暗黒、それが心を刺し抜けなくなっていた。

 思いを断ち切りながら、彼女は駅を出た。仲良しの遠藤由美や川本敏子の姿は、すでに無かった。


 美奈乃は、少し長めの髪を夏の風になびかせながら錦糸町駅前から西へ歩いていた。その後ろからぎーぎーとゆっくり近づいてくる自転車があった。孝夫だった。

「遅いからダメかな。で、でもいたべよ。」

 少し長めの髪とその後姿から、孝夫には美奈乃であることがすぐにわかった。彼女は彼から見ると小さな声の目立たない子だが――――可愛らしく笑ってくれる彼女をひと目見ることが楽しみとなり、孝夫は毎日修業のような暮らしを耐えていた。

「お、おはよ。」

 目が合えば、孝夫にはこれだけで充分だった。しかし、美奈乃は危ないと声をかけざるをえなかった。

「前を見て!」

 孝夫にとっては、予想していない美奈乃の掛け声だった。

「これは『お手前を見て』だべ。そうだっぺ!『私を見て』ってか!」

 よほどうれしかったのだろう。孝夫はかっこよく?スピードを出して後ろを振り向いた。

「よおぐ後ろを向いて返事をかえすべ。」

 美奈乃は危ないとまた大声を出していた。やっと気づいた孝夫は前を向いた。こんな時に、荷物用重量自転車は急に止まれない。曲がるはずの道を外れて、風をきって高速のまま正面の花壇に突入していった。起き上がった孝夫の周りには、ついてきた雀たちが騒いでいた。


 美奈乃は掛け声とともに、鞄から飛び出たホトトギスを拾いあげた。

「大丈夫?」

「いや、だいじねぇべ、だいじねぇ。おっとばしちまった。しっかし、えらかったな。」

「なにかだいじなもの?。えらいの?。」

「そんな意味でねぇ。」

「え?。」

 孝夫の方弁が出てしまった。端正な顔立ちの孝夫が塵まみれの決まり悪そうな上目遣いをしていたので、美奈乃は思わずニコニコしていたが、どうやら孝夫の言葉を理解していない。

孝夫は、那須岳から東京に来ていた。彼は那須岳から降りた那須野の畑作地帯を関東平野と考え、その辺りの言葉を東京の標準語と判断して学び直していた。しかし、それは誤解であった。


 スポーツ車やママチャリなら高速も出ていたであろうから、激突して変形していただろう。しかし、荷物用重量自転車は、ひっくり返されても汚れているだけだった。鞄から飛び出たホトトギスも無事。しかし、大きく傷ついたものも残した。孝夫の体面と心の中であった――――自らのイメージでは、彼女の衛士として颯爽と挨拶して通りすぎるはずだったのだが、現実には嵩張った男がぎーぎーとすすみ、そのまま進んでひっくり返ってしまった。さらに、今朝急遽覚えたはずの標準語をすっかり忘れていた。彼にとっては、今日はこのシーンで全てが終わった。


山川美奈乃には、少々うれしいことだった。美奈乃は、いつも部室へ寄ってから教室へ向かう。孝夫への善意を孝夫が素直に喜んでくれたことは、いつの間にかに心を軽くしていたーーー普段ならでない筈の秀樹の歌を鼻で歌いながら、階段を登っていった。


 教室には、ほとんどの生徒達が揃っていた。孝夫も席についている。孝夫のまえには、汚れた鞄とホトトギス、美奈乃の細い指の跡もはっきり着いていた。孝夫はその指の後を発見して思わず咳払いをした。

「ゴホン。」

それで小さな喜びと照れとを隠したつもりだった。しかし、鋭い悪友達は、一瞬を見逃さなかった。村松慶太が「見逃さないぜ」と言わんばかりに近づいてきた。後から、川崎光一も近づいてきた。

「孝夫クーン、本が泥だらけなのに、なんでニコっとしたのかなぁ。」

孝夫は独り言を言って自分を諫めている。

「嫌な奴がきた。こいつらのニヤニヤを、相手にすてはいけない。」

しかし、孝夫はいつも下手に反論して過去に何度もボロを出している。

「黙っているところをみると….あっ、なるほどね。」

「何か、ばれたのだろうか?」

慶太が自信たっぷりに指摘して来た。

「ほら、わかったぜ。」

「何が?。」

そこに、美奈乃が鼻歌を歌いながら入ってきた。孝夫は美奈乃を見てさらに慌てていた。この孝夫の姿を見ながら、悪友どもは容赦がない。

「山川から何かプレゼントされたんだろ?。」

 指摘は少しずれている。しかし、よせばいいのに孝夫は馬鹿正直に訂正しはじめたーーー守るべき美奈乃に影響があってはいけないと、一生懸命に反論する。

「山川さんから、なにがをもらったわげでねぇ。」

 孝夫が受けている悪友達のツッコミを、慰めていると勘違した美奈乃は自らも近づいて声をかけた。

「けがはなかった?。」

 孝夫は、複雑な表情をみせて――――美奈乃はようやく、慶太や光一達が孝夫をからかっていたことに気づいた。好奇の目が今度は美奈乃へ向かいそうだった。

「もう直ぐ先生が来るわよ。」

 美奈乃の指摘に、悪友達も席に戻りかけた。孝夫は救われた気がした。孝夫は目立たぬように片手で感謝を伝え、美奈乃は軽い会釈で応えた。炸裂し続ける嬉しさ、天に昇ってしまった魂を隠すことは、……無理だった。孝夫はその視線を美奈乃の姿から戻すと、慶太が光一とこちらを見て引き返して来た。頭の良い悪友達には、これで充分な材料が揃った。手渡されたメモには「山川が好きなんだろ。応援するぜ。」とひとことが来た。

「こりは、従僕として耐えねば。都会っ子は、んだから嫌だべ。」

と独り言を言っていた。美奈乃が心配そうに振り返ると、孝夫は時間を経るごとに顔の赤みを増し、玉の汗まで見せていた。

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