白い部屋、白い服、白い私
気付けば白い部屋にいた。
何処までも広がっているように見えて、実のところそこが閉じられた場所であるというのが、どうしてか否応なく分かってしまう。
私は、一枚布でできた、筒状で丈の長い服を着ていた。それには、袖があって、首を通す穴があって、そして、私の体形に明らかに合わせられている。
自分でも結構なものだと思う大きさの胸部がゆったり収まり、肩も腰周りも明らかに合わせられていて、丈も、私の足首寸前、ギリギリ地面を擦らない長さ。
でも、下着の感触はない。私が着ているのは、これだけだ。胸先が擦れて、下半身の、風が素通りする感覚が、心地悪い。
そして、私はこんな服を自分で着た憶えなんて、無い。
だから私は、
「ねぇ、誰か、いないのぉぉおおお、此処は、何処ぉおおおおおお?」
両手で口の前に筒を作り、振りまくように、声を、思いを、放出した。ノイズが入るかのように少しかすれ乱れつつも、透き通って、響き渡るような、ハープの音色のような声で。
返事は――帰ってこない。何も、起こらない。声は反響せず、遠くへ消えて。途端に、物凄くどうしようも無くなった感がして、
グシグシッ、ザッ。
肩まで掛かる長い黒髪を乱雑に掻きむしりながら、頭を抱え、座り込んで、縮こまった。
仕方なく、歩き始める。
足音は鳴らない。裸足だからだろうか? 自身の白い足がよく見える。足の爪は短く切ってあって、ネイルは付けていない。
……。今って、夏? いや、そもそも、私は、一体、何でこんなところにいるの? 分からない。じゃあ、ここにいる前までの一番新しい記憶は? ……。
あれっ……?
私は歩き続けていた。不安に塗れて。止まっていたら、塗り潰されそうだったから。自身が、自己が、意識が、溶けてしまいそうだったから。考えることを止めて、動かなくなってしまいそうだったから。
どうして、考えれば、考えるほど、自分が空っぽで、所々記憶が怪しくて、記憶の古い新しいが、混乱しているみたいに、頭の中でこんがらがっている……。
「私って今、どんな顔してるんだろう……」
と、思わず声に出して呟く。溜め息混じりに。溜め息は幸せを遠ざけるというのに。幸せを遠ざける。それは、不幸を呼び寄せるってこと。はぁ……。
コトッ!
「ん?」
私は背後から聞こえたその物音に振り返る。
……。
誰もいない。
でも、誰もいない変わりに、地面にこんなものが、落ちていた。
スッ。
手に取る。
手鏡。掌サイズの。正方形の板のような、シンプルな鏡。淵と裏面は、白い素材でできているみたい。
……。足元の地面と見比べてしまう。そして、地面が、凸凹も、傷も光沢も無く、まるでさながら、デジタル画面の中の、コンピューターに描写された、厚みも何もない、二次元的な平面そのもののように見えた。
なら、そこにいる私は、まるでその備品だ。オブジェクトだ。
……。きっと、気持ちが不安で、こんな訳の分からないことを考えてるんだ、私は。
……。今、私はどんな顔を、してるのだろう。
鏡を見る。
はは……。これは、酷い顔だ……。醜いってことじゃない。見ていられない程に情けない顔をしているってこと……。
できものはない。そばかすもない。黒子どころか皺すらなく、鏡に映る私の顔は、今の私の憂鬱を色濃く表現していた。
長くくるりと下を向いた睫毛と、横長で、少し目尻が下に垂れて、真っ直ぐ世界を見ていない私の茶色の瞳が、その最もなもの。
高い鼻は顔全体に影を落としているように見える。額から垂れる、枝毛無い、黒髪の艶ある一束を横に払う。
瓜のような形の顔。耳は左右の髪で隠れている。ハネ一つない。不自然なまでに荒れのない髪の毛。
少し離して持ってみる。どうやら、私の体は、すらっと長く、細く、それでいてメリハリがあるようだ。
まるで、作り物、みたい……。
自身の容姿が美しいというよりも、現実離れしていることに不安を覚え、
はぁ……。
唯でさえ厚さも色も薄い唇が、溜め息と同時に更に薄くなる。鏡は曇り、……、白く、いや、セピア色に表面が結晶化する。曇ったようにも見えるけれど。
ぐぃぐぃ、ネトォ……。
「っ! いやぁぁぁっ!」
ブンッ、……。
割れもせず、物音一つ立てず、それは、地面の上を、滑っていく。私が粘り気を感じた面を下にして地面に落ちたというのに、ねっとりという音もせず、地面に跡すら残らず、ガラスの割れる音すらせず、等速直線運動するかのように、一定の速度でそれは床の上をまるで、滑っていって、やがて、私の視界から見えなくなった。
……。
ネトッ。
指先を擦ると、やはりそれはちゃんと、私の指に付着していた。それは透明で、糸引いてて、けれど、無臭。指先に溶けるような痛みなんて無いし、死ぬほど熱くなんてないし、指が凍るほど冷たくもない。痒くもならない。
どんな味がするんだろう?
ペロッ、ぴゅふっ、ぴゅっ、ぴゅっ。
……、何やってるの、私は……。何、正体不明の液体を、舐めてるの?
ドクンっ!
な、何っ? 何なの?
ドククン!
視界が二重になるような、強い揺れ、酔い。
何、これ?
一気に何かが、頭の奥から? そして、押し寄せてくる。これは――、記憶?
ブゥオオン!
背後の方向、だいぶ離れた距離から音がした。
白衣を着た、初老の、温和そうな雰囲気を纏った白髪交じりの病的に色白い男が立っていた。私はこの男の人を知っている。
「白蛇教授、どうやら上手くいったようですよ」
この男の人は、白蛇教授。私の上司だ。そして、今回の実験の、協力者。私が主体となって、私自身が被験体となって行った実験の。
「ほう、そうか。美國君」
それが私の名前。先ほど見た記憶が、正真正銘私自身のものだっていう実感が沸いてくる。その、暖かで、抱擁感ある渋くも優しい声が呼び水。一気に私は、自身を取り戻している。
「【デジタル世界で、人が自身が自身であるという実感を持てるか】、成功です。デジタル世界側にガワを用意して、そこに意識を作り出して、それを補強するように情報を注ぐことで、定着まで持っていけました。鍵はやはり、疑問を持ったタイミングで、記憶を一気に注ぎ込むこと、ですね」
「一番分かっている君が被験体になったのが大きかったようだね。一気に段階を進むことができた」
私は、教授と並んで歩いている。教授がやってきた方向へと、引き返すように、共に歩いていっている。そっちに出口があるから。
私一人で歩けば方向が狂って、真っ直ぐ進むことはできないようにプログラムしている。途中でフィールドから出てしまえば、エラーで実験は中断になってしまうから。
「その初老の男にも皺は無い。シミも黒子もない。肌のテクスチャーを作り、張り合わせて作られたかのような、デジタル描写されたかのような風、と。教授。やっぱり、得られる情報密度上げません? そうですね、テクスチャーの解像度を上げるのは後回しにするとして、具体的には、匂いを足すとか、如何でしょうか?」
「こら、美國君。実験は終わりだよ、一応。そうやって浸り過ぎると戻れなくなるって、知ってるだろう? やめておきなさい」
教授は一見優しくそう諭してくれるが、言っていることは穏当じゃない。私のこの研究は、意識を扱うものだ。そして、普段であれば肉体という入れ物に守られているそれが、このでは剥き出しに等しい。外の世界、現実で、大きな人生の転機にでも遇うような影響を、この世界でのほんの僅かな自身由来の思考ですら、自分に齎してしまうのだから。
「ふふ、済みません」
でも、止められない。
「ったく君はもう。だから放っておけないんだ」
きゅん!
「ありがとうございます。教授っ」
年の割に屈強で、筋肉の鎧を白衣の下に纏っている教授の片腕を、自身のその自信ある胸に抱える。
「はは、ここ以外ではそういう甘えは止めておきたまえよ」
ここでだけは、教授も、まんざらでない態度を外に出してくれる。だけど、現実は、駄目だ。現実では、そうはいかない。私がこの研究を始めたのは、実のところ、この為だ。研究テーマなんて建前でしかない。
ふふ。私はもう、手遅れらしい。
後は、教授を、手遅れ仲間に引き入れられたら、きっと、ここが、私の現実に、なるだろう。本当の意味で、私の研究が、形に、なる。