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昔から不幸体質なところがあった。昔からドジなことは自他ともに認めていた。だけど、それでもこんな終わり方は酷いじゃない。あまりに非現実的な状況に頭だけが冷静にそう考える。
卒業を控えた高校三年の秋。進学先も決まりあとは卒業を残すだけだった年の、なんでもない掃除の時間。あまり好きではなかったけれど、それなりに仲良くしていたクラスメイトの、嫌みの含んだ笑顔。彼女たちの後ろでカーテンが揺れるとともに、サラサラとなびいた茶色がかった髪の毛。思い返せばそれなりに嫌な予感はあったけれど、何も知らない私は駆け寄ってしまった。
足元になぜか落ちていたバナナの皮。滑った私を見て、誰かが声をあげて笑った。けれど、私の不幸はそれで終わらない。一回転して器用に窓枠を超えていく体。あまりの出来事に、笑っていたクラスメイトも息を飲んだ気配がした。もういっそ、コントか何かの笑いごとならどれほどよかったか。運悪くそこは、柵もベランダも無い。あっと思った時にはもう部活動を始めているサッカー部員の姿がちらほら映って。今思えばあの中に彼がいたのかなあなんて、私は知る由もない。わずか数秒。
――死にたくない。
落ちていく感覚に恐怖しながら大きな衝撃を受けるまで、私はすべてを見ながら終わった。
薄らいだままの意識の中で、もう会えない人のことを思いながら、妙なモノと話していた気がする。うっすらと覚えているのは時計が刻まれた奇妙な瞳。ソレにたくさんの質問を投げかけられた気がするが、結局よくわからないまま頷いてしまった。私の脳裏に浮かぶのは大好きな彼の姿。もう二度と会えないくらいなら、どんな姿になってもいいからそばで彼のその先を見守りたいだなんて、我儘なのだろうか。時折話に聞く悪霊みたいにならないのならなんだっていい。それが死を理解してから抱いた唯一の願いだった。
「迷子かな?」
一気に視界が鮮明になる。ずいぶんと景色が大きく見えた。声の主がすぐに視界に入らず、きょろきょろと辺りに視線を巡らせる。思わず噴き出したような笑い声が頭の遥か上で聞こえ、そちらを見た。逆光で顔がよく見えない。けれど強い懐かしさを抱く。それが何かわからないうちに目が留まったのは、見慣れない色の髪がする見慣れたなびき方。相手がしゃがんだことでようやく顔が見えた。ふわふわとした彼の優しい笑顔。
そう、ずっとこれが見たかったんだ。胸がいっぱいになって、普段なら泣き出してしまうくらい胸が熱くなる。それでもなぜか頬に流れるあの感触は無かった。
優しい手のひらが私の頭をなでる。その感覚がいつもと少し違っても、懐かしいその体温が嬉しくてすり寄る。喉元を撫でられてくすぐったいのに気持ちよくて、目を細めた。
「ずいぶん汚れちゃってるね。体洗おうか」
どのくらいそうしていたのかわからない。突然私を抱き上げた彼に驚いて声を上げると、言いなれない、けれど聞きなれた音だった。理解のできない状況に狼狽する。
状況のおかしさにやっと気づいて、そこで確信する。見慣れたはずの彼の顔は少し大人びていて、他にも小さな違いがちらほらと目につき始める。服装ももうあの制服ではない。そしてなにより、私との身長差が明らかに広がりすぎている。私自身の体もなにやらおかしいと理解し始めていたところだった。現実はさらに追い打ちをかけたのだ。彼に抱き上げられて移動する間、偶然あったガードミラーを見て声のない絶叫をする。
「……?!」
なぜか私は猫になっていた。
にゃあ。
「はい。綺麗になった」
声は変わらない彼の、たくましくなった腕の中で毛を乾かしてもらう。思わず自分の置かれた状況から目を背けて、気持ちいなあ。などと考えながら微睡みはじめる私を見て、クスクス笑う彼の優しい手つきが懐かしい。
「懐かしいな」
何を思ったのか彼がひとりごちる。本当は相槌を打ちたいところだが、私は猫だから返事ができない。その代わりに「みー」と鳴いてみる。すると彼は優しい顔をして「ありがとう」とほほ笑んだ。今、君は何を思っているのだろう。こんなに近いのにこんなに遠い。あの頃だって君の心はわからなかった。結局何も聞けなかった。
「そういえば君はノラかな?」
首をかしげてこちらに問う彼に、猫にそんなことを聞いても答えられるわけがないのにとおかしくなる。笑いたいのにうまく笑えなくて結局鳴くことしかできない。彼も自分の行動がおかしくなったのか、こらえるように笑いだしていた。
「ごめん。あんまりにも想芽に似てるから、つい話しかけたくなった」
彼の笑いながらこぼした言葉に思わず動きを止める。あまりに自然と自分の名前を呼ばれて、忘れられていなかったのかと安堵するとともに、猫に自分の面影を感じられて複雑でもある。どうしても忘れてほしくなかったような、覚えていることで彼の時間が止まってしまうのなら忘れてほしいような。二つの思いが混ざり合って心の中で形にならない。
「そうだ。首輪もないし飼い主さんがいつか迎えに来るまで、ここにいなよ。君がここを気に入ってくれるなら」
ごちゃごちゃと考えていた私に彼がほほ笑んでそう語りかける。元々飼い主がいるわけでも、他に行く当てもない。好都合だった。
「もしいてくれるなら、想芽からとってメイって名前はどうだろ?」
その名前を聞いて、思い出したのはいつかの記憶。私の両親が結婚記念日で帰りが遅くなるため、いつもより少しだけ長く彼が家にいた。そういう日だったせいか、もし将来誰かと結婚して子供ができたとしたらどんな名前を付けるかと月並みな話になった。私が今思えば恥ずかしくなるような名前をいくつも上げていたところで、彼が真面目な顔をして言ったのだ。
「女の子なら、メイがいい。想芽に似た子がいいから」
驚いて動きを止めた私に気づいて、彼が照れて顔を真っ赤にする直前。私は今でも覚えている。あんなにも穏やかで優しい顔をした彼をあの時初めて見たのだ。
だから勘違いしてしまいそうになる。叶わなかった私との結婚も子供も、彼は全部覚えていて、あえて印象の似ている猫になった私に、本来なら娘につけるつもりだったその名前をつけてくれようとしたのなら。彼の心の中で私はまだ生きているとしたら。ありえもしない希望が、溢れて泣きたくなる。本当なら、いなくなった私は彼の今の幸せを願うべきなのに。
「メイ」
優しい声が私を呼ぶ。苦しくて、吐き出した空気も、吸い込んだ空気もなんだかよくわからない。本当に私は呼吸ができているのだろうか。
「おーい、メイ?」
めげずに私にその名前を呼びかけてくる彼がなんだか可愛らしくて、返事の代わりに鳴いた。そして嬉しそうな顔をする彼を見つめる。私は今日から私がいなくなった今を生きる彼を見守る。もし、今が幸せでないのなら、この身が使えなくなるまで、彼が幸せになるのを見守りたい。これが置いていった私の最期の願い。この魔法がいつか解けてしまう前にどうか私の願いが叶いますように。
――ねえ、惟人くん。今あなたは幸せですか?