新しい水の商売
世の中にはうんざりすることが多い。だけど自分の仕事にうんざりすると、つらい。つらくても、その仕事を続けていかないと暮らしていけないとなれば、なおさらつらい。
仕事をやめても、他に稼げるあてがあればなんとかなるだろうが、さしてとりえの無い自分では、今の仕事を辞めると生きていけない。
それでもさすがにどうかと思うような日々が続くので、いつも退職願いを内ポケットに入れて、毎日出社する。
休みの日に息抜きでもできればいいが、海外出張中のこの職場で、休みの日に近隣の村にでも行けば、たぶん殺される。
それだけこの会社は、地域の住民に恨まれている。
だから休日でも、警備厳重な会社の寮から出られない。民間軍事会社にしっかり守ってもらわないと、命のあぶない仕事。
これが合法で国際法にも違犯はしていない。たとえ合法でも、人道には違犯している、と思う。それでも合法で稼げるなら、やってしまうのが経済大国なんだろう。
自分の勤める会社は水を売っている。原材料が無料なら儲かるだろうよ。
外国のとある集落は、川の水で生活している。自然の恵みの川は、季節に合わせて水量が増えたり減ったりはしても、その集落の生活を支えて、長年その集落と共にあった。
とある企業、つまり自分の勤める会社が、そこに目をつけた。その川の上流の土地を手に入れて、ダムを作って川を塞き止めた。
川の水で暮らしていた集落は、ある日突然、川が干上がって驚いただろう。
そして、その企業は集落の人達に、水を売り付ける商売を始めた。
もともとが物々交換が多く、あまり現金のやり取りのない集落の人達は困った。今まで無料で使ってた水が、金を出さないと買えないようになってしまったのだから。
水が無いと生活できない。その集落では、水を得るためには、金を稼がないとやっていけなくなった。男は出稼ぎに行き、自分の子供のために内臓を売る母親もいる。
こんなことが国際法では、違犯でもなく問題にもならない。貧乏な集落が裁判を起こせるはずもなく、弁護士を雇うこともできない。
だいたい、国際法そのものが、第二次世界大戦で勝利した民主主義国家に都合良くできているのだから、たとえ裁判になっても、彼らが勝って、このダムが壊されることも無いのだろう。
彼らがもとの生活を取り戻すには、戦争を起こして勝つしか無い。だけど、そんな武装を手に入れることもできないし、戦える人材も少ない。結果、搾り取られるだけ搾り取られる。自分と、この会社で働いている社員の給料は、そこから得られる。本国の本社のしたっぱ社員は、この事実を知らないだろう。
そんな毎日、書類の整理と経理の仕事を続けていると、ある日、外から爆発音が聞こえた。慌てて避難する。
たまりかねた集落の人達が、このダムに攻撃を仕掛けてきたらしい。警備の民間軍事会社との銃撃戦が始まった。
結果は、民間軍事会社が迎撃に成功。暴徒を鎮圧した、と本国には報道される。
集落の人達は、テロリストになってしまった。国際法違犯の新しい武装組織が誕生した。その、ある意味で歴史的な瞬間に、自分はいた。
それで、自分もキレてしまった。上司に懐から出した退職願いを叩きつけて、会社を出た。どうせ自分には妻も子供もいない。貯金で民間軍事会社のツテから銃器を入手して、集落の人達に持っていった。
いっそ殺されたほうがスッキリしていい、とやけくそになっていた。
元集落の今テロリストの人達は、意外とすんなり受け入れてくれた。自分は戦う知識も技術も無いから、武装と金を渡して終わりのつもりだった。彼らに殺してもらって、贖罪にするつもりだった。
彼らは、今後も銃器を手に入れるために、自分に交渉役をしてほしいと、頼んできた。インターネットなどの機器を扱える人が少ない、ということで。
今はテロリストの経理担当となってしまった。だけど後悔はしていない。これでようやく自分はまともになれたような気がする。
本国では、現地の人のために安全な水を提供していた企業が、テロリストの攻撃を受けたと報道されている。彼らをテロリストに追い詰めたことには、どこも報道はしない。
彼らもテロリストになりたかったわけでは無い。水のために内臓を売る母親を、乾いて死んでいく我が子を見続けた挙げ句に、選んだ道のことを、自称民主主義国家がテロリストと呼んでいるだけだ。
家畜のように飼われ、ひとつの集落として生きていけなくなった。生きていけなくなったから、ここまで追い詰めた奴等に復讐したい。まっとうに戦争して勝てるわけが無い。だから、ひとりでも多く道連れにして、地獄に行ってやる。
そんな思いで戦う人達のために、自分は武器弾薬を入手した。自分は本国にいる人達よりも、ここの人達に同情してしまったからだ。武器を手に入れるための金は、自分の貯金。この金も会社からの給料、もともとはこの人達から搾取したものだから、使うのも惜しくは無かった。
本国では、自爆テロで無実の市民が多数死傷した、と報道されている。おかしな話だ。
民主主義の国ならば、成人国民の全てに、政治に参加する義務と権利と責任がある。
あの国の企業のやり方を、合法で良しと認めていたことには、あの国のひとりひとりにその責任がある。私も含めて。
そのことを当人が、知っているか、知らないかなど関係ない。知っていても、知らなくても、責任を負わねばならない。
そのための政治であり、そのための投票だろう。それが嫌なら、民主主義をやめて、責任の所在をはっきりさせればいい。
民主主義国家は政策の責任は、全ての国民が分散して背負う。だから、この集落の怨みも、報復も、呪いも、国民すべて、ひとりひとりが負わねばならない。誰もがテロの標的となる義務と責任も、負わねばならないのだ。
弱い民衆を狙う卑怯極まりないやり口と、ニュースキャスターがつばを飛ばして訴える。先に、弱く抵抗できなさそうな相手に、卑怯な商売をしかけたのは、どこの国かは報道されない。
誰もが、生きていたいのだ。まっすぐに生きたいのだ。それがねじ曲がるとき、人は怨み呪うのだ。
復讐に意味は無いと、復讐に対しての報復があり、不幸な連鎖で憎しみが続き、争いは終わらない。そのように発言する、賢い人もいるだろうが。
この集落の場合、いや、その他のケースでもいいが、今、世界にこの不条理があると、暴力と復讐で訴えることを許さないとするならば。
つまりは、言われるがままに金を払い続けろ、さもなくば死ね、乾いて死ね、と言っているのと同義だ。私はそこまで、人間を捨てたくは無い。
今も私は彼らの戦いを手伝っている。
彼らは水が欲しいだけだった。
川を流れる水と、共に生きていたかったのだ。