第十一話 堕ちた道化
「阿修羅、始祖様の手記にはこの後の事は記されていないのか。」
始祖が執務室を退室した後に、残された玄海は憂えた表情をしていた。
椅子にぐったりと背を預けながら目の前に立つ阿修羅を見やる。
玄海とは対象に、阿修羅は喜びを抑えているが、口角が若干上がっている。
「えぇ。手記に残されていた儀式は、滞りなく行うことができました。玄海様、・・・・・・姉さんが、俺に全て一任してくれたおかげです。感謝します。」
一礼して顔を上げた阿修羅の表情は、始めてみる心からの笑顔だった。思えば、弟がこのように喜んでいるのを見たことがあったろうか。思い浮かばない。少し寂しく感じた。
「・・・そういえば、姉さん、今日はまだ薬を飲んでいませんよね?」
阿修羅が、懐から紙に包まれた薬を取り出し、執務机の上に置く。甲斐甲斐しく、コップに水を注いでくれた。
「・・・ああ、そうだな。今日は、あまり咳も出ないから忘れていたよ。始祖様も現世に戻られたのだ。私の病も治るかもしれぬ。そうだろう?阿修羅。」
「ええ。始祖様に不可能はありません。」
阿修羅は当然のことのように頷く。
玄海は手に持った薬をじっと見つめる。しばらく何かを思い悩むように瞳を閉じて俯いていたが、ゆっくりと顔を上げる。
「なあ。阿修羅、これは毒ではないか?」
阿修羅は笑顔で明朗と答える。
「やはり気付かれましたか。まあ、臭いで分かるとは思っていました。いつもは、毒にも薬にもならないそれらしい粉薬をお渡ししてましたからね。それで、姉さんの病は俺の能力で発病させたこともご存知ですか?」
「・・・ああ。そういうことだったのか。医者でもないお前が出す薬を飲むと症状が緩和されていたのは。だが、お前にはそんな能力があったのだな。隠していたのか?」
「ええ。誰にも言うつもりはありませんでした。」
「・・・なぜ、こんなすぐに分かる毒を出してきたのだ?」
玄海はかすかな希望を見出そうとする。
そんな玄海を観察しながら、阿修羅は嗤う。
「ははっ。さすがに毒を出されたら気付かないふりはできないだろう?今まで必死で知らないふりをするあんたは滑稽だったよ。最近、能力も上手く制御できていないだろ?」
「・・・なぜだ。阿修羅。私を殺したいなら、なぜそのような回りくどいことをしたんだ。」
玄海は必死で阿修羅の中に情を見出そうとする。
「始祖様、いや、はるかさんの儀式を安全に行うために必要だっただけでそれ以外の理由などない。お前が俺に儀式の全権を一任しなければ、もうすでに殺していたかもな。逆に聞くが、薄々でも気付いていたのに何の対処もしなかったのは何故だ?ずっと疑問だったんだ。」
玄海の頬を一筋の涙が伝う。
「何故だと?弟をたった一人の肉親を信じたかったでは、だめなのか?」
玄海の言葉は阿修羅には理解しがたいものだった。いや、理解したくないのだろう。玄海の言葉を受け入れてしまうことは、今までの自分自身を根底から否定することになる。
「はははははっ。っははは。笑わせないでくださいよ。貴方が僕、・・・俺と肉親などと戯言を言わないでください。くくくっ。俺はこの世界に生まれ落ちた時から自分の姿を見てしまったときからずっと絶望していた。そして、貴方達鬼を憎悪して生きてきた。哀れな女だ。貴方との血の繋がりは苦痛でしかありませんでした。姉さん、もし、俺を弟だと思っているのなら俺のために、何も聞かず死んでください。」
阿修羅は嗤っていた。泣きながら嗤っていた。
様々な感情が自身の中で荒れ狂っているが阿修羅に自覚はない。長い時間が彼を狂わせてしまったのだろう。
玄海は阿修羅の涙を見て、安堵する。弟にも僅かながらも情はあるのだと分かったからだ。始祖様、いや、はるか様なのだろうか。はるか様と阿修羅が共に生きるためには、この国と鬼人は切り捨てることはできないだろう。それなら、弟の我侭を聞いてやるのも良いかもしれない。
玄海は聖母のような慈悲に溢れた微笑を浮かべた。毒の包まれた紙をその手に掴みながら。