羨望の薄色
私より随分と薄い色の髪が揺れる。
手を伸ばせばさらさらとすり抜けていくその色、私はそれが欲しくて堪らない。
***
「雪野さんはお父様そっくりね」
それはまるで呪いのように言われ続けた言葉であった。
死んだ父親の、特異な紺に近い黒髪と、さらに父親そっくりだと言われる顔立ち。
誰かがそう懐かしむ度に母は酔うほど甘い声を出す。
「そうなのよ、雪野は雪成さんそっくりなの」
そう微笑む虚ろげな母親を見て、何かにキリキリと首を絞められていくような絶望感を味わう私を、二つ上の兄は無表情に見ていた。
少し肌寒い風が吹く秋口の午後。
「雪野、雪野…雪野はどこ?」
お茶のお稽古の片付けを終えると母様がしきりに私を呼ぶ声が聞こえた。
「どうしたの、母様」
そう微笑みを作りながら母の部屋を覗くと、母様は乱れた着物を気にせずふわりと笑う。
緩んだ着物と、あどけない笑顔の不均衡さがどこかゾッとするほどの妖艶を孕む。
障子から漏れる光に明るく輝く色素の薄い髪が、更にそこに神秘的な美を加えるのだ。
「嗚呼、雪野。あなたの髪は綺麗ね。
雪成さんもその髪がとてもとても似合ってたのよ」
狂った母は、まるで鎖のようだ。
その言葉も微笑みもーー全てが私の足元に絡みついて放さない。
絡みついた鎖が導く先は恐らく底なし沼だ。
茶道の家元。
その肩書きを持つ両親は、その名に恥じない人であった。
厳しくもあったが穏やかであり、凛と立つ背中が人を惹きつける人達であった。
しっかり者だった母が狂ったのは、父親が不慮の事故で死んでからだった。
狂う母に私は今日も無意味な質問をするのだ。
「母様、兄様はどこ?」
母の乱れた襟を直して、美しい母の顔を覗きこむ。
「にい、さ……?」
誰だったかしらーー?
母は無垢な子供のように首をかしげた。
太陽が日に隠れたのか、数秒間室内がわずかに影に包まれる。
私の兄様。
美しい兄様。
黒い、私の髪のーー濃紺の着物が似合う美人。
そう、男の人なのに美人。
母様そっくりの美しい人。
今日も母様は、兄を認識することはない。
室内が明るくなったと同時に母の部屋を離れる。
この瞬間は、無性に兄に触れたいと思う。
あの日に透けるような髪に触れたいと渇望して止まない。
夜。月の光は和風の庭を飾る小さな池に反射して輝いている。
明るい月の光。
それはまるで私の欲しかった色そのものだ。
ぼんやりとしていると、夜中にも拘わらず障子が動いた。
背のすらりと高い人、兄様がじっとこちらを見やる。
「兄様、」
そう呼ぶと、母そっくりの妖艶な笑顔。
顔は似ているのに、不思議なことに母よりずっと儚く弱い。
儚げな雰囲気が闇に溶けていくような気がする。
「雪野」
そう私を呼ぶ兄の、障子の隙間から入り込む月光に照らされる髪が美しく輝く。
嫉妬と悲哀と同情と愛と。
それら全てを感じた結果嘲るような笑みが漏れていく。
「可哀想な人」
私がそう笑うと、兄様が私を少し乱暴に押し倒す。
振り上げた大きな手のひら。
パシンと乾いた音がしてじんわり私の頬が痛くなる。
嗚呼、なんと憎らしいものか。
「お前も、可哀想だよ」
兄様も負けじと私を嘲った。
でも何故だろうか。
兄のその顔はまるで泣き出す子供のように歪んでいる。
その歪な顔が私に近づいて、乱暴に口付けが交わされる。
私の鎖骨を這う骨張った手のひらは、いつまで経っても少しくすぐったい。
ーー忘れもしない。
こんな風に、関係を持ち出した日を。
私も兄様もきっと悪くないだろう。
一年前の満月の日のことだった。
誘ったのは私だった。
忙しなく私を打ち付けていた手のひらが微動だにしなくなった時、私は仕掛けた。
『ねぇ、兄様。』
『……なに?』
『兄様は愛されたいのよね。
でも、可哀想に。あなたは父様に似てないものね』
先ほどまで目の前の人に叩かれた頬が嘲笑を重ねる度にひきつっていた。
今度の兄様は殴るでも、怒るでもなく何故か泣きそうに私を見ていた。
『ねぇ、兄様?私思うの。 母様は本当は二人に似た子が欲しかったのよ』
片方ずつに似ている二つの個体ではなく。
父母両方に似ている一つの個体が。
『……』
『作ろう、その子を私たちが。
大丈夫。私たち顔だけはお互い二人にそっくりでしょう?』
ーーきっと父母にそっくりな子が産まれる。
濃紺の髪と、大きな瞳の美しい顔を持った子が。
恐らくこの時私も兄様も正常じゃなかったのだと思う。
「……っ、ふ、ぁ」
こうやって鳴かされる(泣かされる?)度にあの日を思う。
実を言うと、私は母様への当て付けのつもりだったのだ。
壊れた母がどんなに私を愛したふりをしても、それは虚像でしかないと。
母が求めているのは私ではない、と。
それを伝えたかった。
そして多分兄様は、嘘でも愛が欲しかった。
きっと、それだけだ。
母に認識されなくなった時、暴力を身につけた兄様。
愛が欲しくて、もがくように私を叩く兄様。
なんと悲しい喜劇。
ゆっくりと腕を伸ばして兄様の髪に触れれば、隙間から覗く攻撃的な目。
母様そっくりの、美しい顔。
母様は私を愛してない。
父様に似ているから愛しているふりをしているだけ。
そんな嘘の愛なら欲しくなかったのに。
虚しくて涙も出ないのだ、私は。
それなら認識されない方がよっぽどいい。
だから私は愛されないその色が、陽に輝く色が欲しかった。
ただ、それだけのための行為。
愛はない。
この行為には、ない。
「雪野、」
兄様が私の髪を握りしめる。
白い指先と、そこに吸い込まれる濃紺がおかしい程映えて、笑えてしまう。
嗚呼、なんて意味のない行為。
「兄様……」
兄様は必ず私の髪を握る時、泣きそうな痛そうな、今にも死んでしまいそうな顔で私に口付けをする。
「なんで、お前が……っ」
最後まではよく聞き取れない。
兄様はその台詞を毎回言うくせに、私の声でそれをかき消す。
責め立てる指先からの逃げ方はわからない。
その台詞を聞くことは恐らくないだろう。
ぎゅ、と兄様の背中に腕を回す。
兄様の背中越し、障子に映る人影に向かって私はわざと大きな矯声を上げた。
ここに愛はない。
密閉された、閉塞的な和室の夜には虚しさだけが漂っている。
愛が欲しかったくせに、私たちはそれを手にできていない。
「雪野、」
切なげに私を呼ぶその低い声に私のどこかが痛むけれど、その意味はわからない。
わかりたくもない。
兄様の髪に指を滑らせるとすぐに通り抜けていった。
私たちの欲しいものは、そんな風に私たちの中からすり抜けて、消えていく。
結局私たちは得ることのない物を求める愚者でしかない。
愛を求めるこの行為は、どんなに無意味なんだろう。
そんなものもう手に入らないとわかっているのに。
ねぇ、兄様。
障子越しにこの行為を観察しているのが母様だと知ったら。
あなたは、泣きますか?
それとも、
この行為の無意味さを笑いますか?
羨望の薄色:了
満月の光に輝く貴方が欲しかった