既死的恋愛
首もとから手を引く。
小さく震える自分の手を見て、不思議と笑いがこみ上げて来る。
恐る恐る顔をあげて彼を見た時、わたしは気づいた。
『彼』がもう死んでいたことに。
***
白色が網膜に焼き付いた。
まぶしいその色は拍手の音と共にわたしの脳内を侵食する。
じわり、と。じゅくり、と。
なにかに呑まれていくような気がした。
機械的に動く手のひらがどんどんどんどん熱を失っていく気がする。
おめでとう、と誰かが叫ぶ音を他人事みたいに(いや、実際他人事だけれど)聞いていた。
…オメデトウ、おめでとう、オめでトう……?
「…孝介、オメデトウ」
試しに呟いてみたが、わたしの声にはなんの感情もない。
新郎新婦のお色直しということで会場は世間話に花が咲く。
「ね、あれでしょ政略結婚」
「そうそう、今時ねー」
コソコソと、背後からおば様達の噂話を好奇心のまま囁き合う声が耳に入って来る。
思わずその二人の間に入って付け足したくなる。
そうなんですよ。新郎の孝介さんは、出世のためにわたしをフッて、あんなお嬢様とご結婚なさるんですよ。
なんて、ね。
自虐的な笑みを刻んで、愚かな妄想に終止符を打った。
そんな意味のない行為をしても、もう彼はあの人の物なのだから。
醜い気持ちを堪えて、わたしはそっと新郎の控え室へと向かった。
新郎の控え室の扉の白さを見た時。
ふいに憎らしさが胸を覆って、あぁ、白いドレスを彼への当てつけに着てくればよかったとくだらない後悔をした。
「孝介……」
驚いた。
彼を呼ぶ声も、無機質な扉を叩く手も情けなく震えていたから。
「美雪…?」
低い、心地よい声がわたしを呼ぶと痛いほど胸が疼いて、扉が開いて彼の顔を見た瞬間には、どうしようもなく泣きたくなる。
この期に及んでわたしはやはり彼を好きなのだと実感させられるから、悔しい。
「スタッフさんは?」
「新婦の方で問題が起こってるらしくて出払ってるよ」
孝介は、自分の伴侶となる人の事なのに、まるで他人事のように淡く笑ってそう言った。
「そう……」
上手く言葉が紡げないわたしを横目に、孝介はなんとも言えない表情で豪華な椅子に座り込んだ。
俯くその姿は、まるでなにかを嘆いてるみたいで。
そしてそれは同時に、意地でもわたしを見ないといっているような気がして。
「本当に、結婚するのね」
急に現実的になったのだ。
言葉だけで唱えていたのとは違う。
彼が本当に他人の物になるという現実が、鮮やかに私の目の前に姿を現した。
「なに、嘘だと思った?」
誤魔化すように口元だけの笑顔を張り付けている。
孝介も、わたしも。
バカらしい。なんて茶番劇なんだろう。
「ねぇ、孝介」
「ん…?」
「殺しても、いい?」
それは、ハッタリなんかじゃなかった。
大学からずっと、6年もそばにいたのに、こんな結末を用意されたことへの悔しさと。
それでいて、いまだに自分の中に燻るこの男への愛しさと。
愛もないくせにわたしを捨てて、出世のために結婚してしまうことへの哀しみと。
当たりどころのない怒りと。
その全てを抱くわたしは、今なら彼を殺せてしまう。
ーー冗談よ、と撤回する気はなかった。
彼が、嘘だろと言ったとしても、わたしは撤回する気がなかった。
撤回する気はないくせに、わたしはきっと彼は嘘だと笑うと思っていた。
思っていたーーのに、
「……いいよ」
そう言って、孝介は優しく笑った。
それはバカにしてるようではなく、そんなの無理だろうと決めつけてるわけでなく。
彼も、本気だった。
だからわたしも本気で、手のひらをゆっくり孝介の首にかけた。
小さく手が震える。
わたしの手の冷たさに孝介の体が少しだけ反応する。
「…美雪の体温はやっぱり冷たいな」
彼はここに及んでまだ柔らかに笑う。
「昔も、そう言ったわ」
少し手元に力を籠める。
首もとだけを凝視して、徐々に指が食い込んで行くのをどこか冷静に観察していた。
孝介の息が乱れてくる。
それと比例するようにわたしの手もガクガクと小さく震えてくる。
涙が止まらない。
「ふ、…っ、ふ……」
ついには嗚咽をあげて泣き始める始末。
情けない。
結局、最後の最後で弱くなる自分が情けない。
カタカタと震える手を彼の首もとから抜いた。
その弱々しさに情けなさを通り越して笑えてしまう。
「は、っ…いい、の?殺さなく、て」
孝介の苦しげな声にわたしは恐る恐る顔をあげて孝介を見た。
その瞬間、わたしはわかってしまった。
気づいてしまった。
彼は、もう死んでしまっていたのだ。
そう、『彼』は。
わたしが愛した『彼』は。
ここにいるこの男に呑まれて死んでしまったのだ。
遠く彼方に消えてしまった。
体重の預けどころをなくしてよろりと後ろへ後退した。
涙が止まらない。
それはこの男が結婚してしまうからなのか、それとも『彼』が死んでしまったからなのか。
わからない。
考えようにも頭が信じられないほど重くて、考えられない。
彼の首を絞めていた両手にはもう力が入らない。
もう戻れないのだと痛感した今。
『彼』が死んでしまったとわかった今。
わたしにはもうこの男を殺す理由さえないのだ。
男がゆっくりと近づいてくる。
かつてわたしが愛した『彼』だった男。
わたしを抱き締めて掠れた声で謝罪を繰り返す。
その声すら『彼』とは似ても似つかないような気がして。
わたしはオメデトウ、と小さく呟いた。
既死的恋愛:end
さよなら、お幸せにと微笑んだ。