矛盾製理論
あの真っ赤な色や、目の前の茶色。
頬の液体は無色透明で感情は、藍色。
あの時、きっと私はーー
「那緒、帰ろう」
汗の匂いがかすかに漂うバスケ部部室の外で彼を待っていた私は精一杯の笑顔でゆっくり吐き出すみたいにそう言った。
彼氏の広瀬那緒はそれに応えて笑顔で鞄を肩にかける。
「真琴、待たせた?」
「うん、すごい待った。 だからなんか奢って」
そう笑うと那緒も苦笑いして肩をすくめる。
ふわりと揺れる茶色の髪が彼の額をなぞる。
「仕方ねーなー」
わざとらしく語尾を伸ばして那緒は私の右手を握った。
彼の手は温かくて安心する。
「那緒の手、あったかい」
その体温を感じると、大げさだけど生きてる感じがする。
彼の優しい笑顔や明るい髪の色、性格を裏切らない、そんな体温。
「真琴の手が冷たいんだって」
「その分、心があったかいんですー」
いじけたふりをして口を窄めた。
薄く溢れた息が乾燥した外気と混じり合う。
その言葉を最後に、唐突に会話が闇色の空に溶けて消えていった。
無言で機会的に進める足に視線を泳がせて、ふっと街灯を見やる。
乳白色の街灯の下で誰とも知らない他校生が2人、幸せそうに手を繋ぎあっている。
「ねぇ、那緒?」
「ん?」
「もうすぐ春だねぇ」
「…なに急に。お婆さんみたいに染々と」
那緒の笑う吐息が白く濁る。
繋がれた右手が少し揺れて、私は少し切なくなる。
ファストフードのお店に入ると人工的な温かさが身に沁みた。
私を席に座らせ、一人会計してる那緒の背中をじっと眺める。
彼の背中が好きだ。
広い背中には白いシャツがとても似合う。
好きだなぁ、とぼんやりと、漠然と思うとなんだか照れ臭くなって、私は右手で口許を覆ってそっぽを向いた。
そこで気付く。
隣の席の女の子達がちらりと那緒を見ては何やら囁きあっていることに。
カッコいいね、と。
その言葉にざわりと胸が鈍く動く。
那緒は、私の彼氏なのだ。
胸を張って、彼氏だと言えるのに。
どうしてこんなに不安になるんだろう。
好きだから、不安になるんだろうか。
それともーー
「真琴?お待たせ」
一人俯く私を不思議そうに覗きながら、那緒は二つのトレイをテーブルに置いた。
「わーいっ、ありがとう」
「いえいえ」
「周りの子達がチラチラ那緒見てたよ」
茶化すように那緒を見上げれば、那緒は興味無さげな反応。
「そうか?」
「……那緒ってモテるんだよ?」
「えー?」
信じていない彼は曖昧に首を傾げるだけだった。
その姿に、ごめんねと一言、謝罪の言葉がポツリと胸に浮かぶ。
それを言うことは出来なかったけれど。
「そういえば今日さ」
ポテトをかじったままの那緒に話題を振るのはいつも私。
思い出した事柄を考えるより速く口に出す。
無言が怖くて、あの話を切り出されるのが怖くて、私はひたすら話す。
でも。
「体育のバスケすごかったね!スリーポイント、カッコよかったもん」
女子がみんな那緒を見てたんだよ?と笑う私を見て、彼は一瞬だけ私から視線を外すのだ。
「…ありがとう」
そう、話題の振り方を間違えるのもいつも私。
困ったように笑う那緒が、遠い。
テーブルを挟んで向かい合うその距離はたった数十センチなのに、何十倍も遠く彼方に彼を感じる。
右手に持つジュースから水滴が静かに肌を滑り落ちる。
那緒、お願いだから。
――…そんなわがままはもう叶わない。
「ごちそうさま」
那緒が満足そうに手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
那緒につられて私も笑ってトレイに頭を下げる。
大きな手のひらが私の分のトレイまで拾い上げて片付けてくれる。
私はそれを見るたび嬉しいような申し訳ないような、相反する二つの気持ちがない交ぜになって、上手く微笑む事が出来なくなる。
暖かい店内から外に出ると、そこはとてつもなく寒く感じた。
握られた右手だけが驚くほど熱を持ち、そこだけを頼りに血が巡ってるように思える。
「真琴、」
「なに?」
「来年は受験だな」
星のない空を少し見上げながら彼が言う。
「そうだね」
私の右手を握る那緒の手の力が少しだけ強められる。
「大学も、真琴と一緒がいい」
「……私も」
隣で那緒が勉強しなきゃな、と焦ったように笑う。
頑張ってよ、と私も茶化すみたいに笑う。
私は、このぬるま湯みたいな関係から抜け出せない。
「じゃ、また明日!」
三歩先で、那緒が大きく手を振る。
柔らかな笑顔がキラキラと輝いたように見える私は重症だ。
「うん、また明日ね」
私も小さく右手を振る。
那緒はキラキラした笑顔を悲しげに陰らせてそれを見る。
ねぇ、気にしないで。
だって仕方なかったじゃない?
大好きな、那緒の後ろ姿にそう願った。
卑怯な私はそれを口にすることが出来ないまま、ひたすら祈っている。
その願いがいつか彼に届くように、ずっと祈っている。
それでも、ピクリとも動かない左手は、私に祈るために両手を組むことすらさせてはくれない。
私は、左手が使えない。
七ヵ月前まで、私と彼はバスケ部だった。
その時はまだ友達で。
本当にただ仲良しなオトモダチ。
私だけが彼を想っていた。
彼は私を部活仲間として扱っていたし、私もそう接するようにしていた。
告白される彼を見る度いつか彼女を紹介されるのではと肝を冷やしていたが、その関係でいればどの女の子よりも近い存在で居る事が出来ると、私はわかっていたから。
だから私は彼に何も言わなかった。
ある日、那緒と帰りに古い公園でバスケをした。
彼がダンクを練習したいと言うから、私はゴール下でボール拾いとパス出しをしてた。
私たちは試合前で、彼は試合でダンクを決めてみたいと悪戯っぽく笑っていた。
私も声援を送りながら笑って見守っていた。
ーーガコンッと、あの大きな音がするまでは。
あの日、あの時、確かに那緒のダンクは成功した。
でも、古い公園の古いバスケットゴール。
ゴールは衝撃に耐えられず私に落ちてきた。
避けきれなかった。
まるでスローモーションのように落ちてくるゴールに私はまるで捕らえられたようにそこから動けなかった。
ゴールは私の左腕に重くのしかかった。
『ごめん―…っ』
那緒の暖かい色をした髪が私の前で激しく揺れた。
私の目からも彼の色素の薄い目からも涙が流れてて。
私の気持ちは愛憎と名のつく感情が渦巻いていた。
その数日後、責任を取るみたいに私の告白を受け入れた那緒。
『好きだよ、那緒の事』
絞り出すように、左手の包帯を見つめながら言った私は。
少しの意地悪を含めて、そう言った。
『付き合おう』
那緒も、左手だけを見て一言そう言った。
そこには責任感しかなかった。
今思うと私はあの時、その告白を断って欲しかったんだと思う。
とても身勝手だけれど多分、きっと。
君が好きだから、断って欲しかった。
矛盾製理論:end
それでも彼を手放せない私は、