後編
≪後編≫
せっかく穂高に来たのだから、どうしても食べてもらいたいものがあった。私は彼をその店に連れてきた。二人で向かい合って席に着くと、彼はずっと私の方を見ている。髪を短くカットしていて、よく日焼けした顔は若い割には落ち着いた風貌がある。そんな彼が私の顔をずっと見ている。恥ずかしくて、いたたまれなくて私はつい変なことを口走ってしまった。
「圭祐君って、スケベでしょう?」
彼は一瞬、戸惑っているようだったけれど、否定しなかった。何かにつけて言い訳ばかりするマコトとは全然違う。
「みんなということは無いかも知れないけれど、とりあえず、僕は普通にスケベだよ」
「そうよね。なのに男って、みんな嘘つきなんだから…」
彼には関係ないのは解っているのだけれど、つい、愚痴っぽいことを彼に向かって言ってたしまった。
「碌山美術館って、行ってみたら大したことなかったね。まあ、確かにあのツタは見事だと思ったけれど」
彼が突然話題を変えた。多分、私が湿っぽい表情でもしたに違いない。それに気がついて彼はわざと話題を変えてくれたみたい。私はバッグからパンフレットを取り出した。
「そうなのよね。ほら、こういう写真を見るとすごくいいところみたいに見えるけれどね。観光地って結構そういうところ、多いよね」
せっかく彼が気遣ってくれているのだから、湿っぽい話はもう、おしまいにしよう。私は気持ちを切り替えた。その時に、真とのことはきれいに清算しよう。そう決心した。そこへ、注文していた蕎麦が運ばれてきた。
「ここのそばは美味しいのよ。街中で“信州そば”って看板をよく見かけるけれど、実際に食べてみると、東京で食べる蕎麦と大して変わらないというお店も多いんだけど、ここのだけは違うの」
私がそういうと彼は早速一口すすった。
「うん。美味い!それに、このわさびはとても風味がいいね」
「いいところに気が付いたわね!ここのわさびはうちの農場で作った物なのよ」
「へー、そうなんだ!」
「この後、農場に寄って行って。お土産に新鮮なわさびをおすそ分けしてあげるから」
私は再び彼を助手席に乗せて、今度は農場へ向かって車を走らせた。
実は、さっき、彼がトイレに行っている間に社長に電話をかけた。友達を寮に泊めていいか聞いてみた。社長は快くOKだと言ってくれた。相手が男の友達だということも含めて。
農場に着くと、彼は驚いていた。おそらく、わさび農場なんて田んぼみたいなところだと思っていたのだろうから。私はもう一仕事あるから、彼にはその間、自由に見学しているように言うと、彼はせっかくだから仕事を手伝うと申し出てくれた。そうして、私と彼は社長について行き、わさび田の水路の点検をして回った。
「なかなか、いい彼氏じゃないか。さすが里美ちゃん、男を見る目はあるようだね」
社長がひそひそと私に耳打ちした。私はハッとして、ちらっと彼を見た。急に胸がドキドキして顔が赤くなっていくのが自分でも判った。
わさび田から戻ってくると、私は彼を連れて施設の中を一通り案内しながら、この日の予定を聞いてみた。案の定、何もどころか、この日の宿も決めていないという。私は予定通り、彼に寮に泊まって行かないと訊ねてみた。彼は驚いたようだったけれど、同時に何か期待めいた表情も露骨に見せていた。
「あっ、勘違いしないでね。ここの社長が持っている寮があって、いくつか部屋が空いているの。社長にはもう了解を貰っているから」
「なんだ…」
これまた、彼は露骨に残念そうにそう言った。正直だと言えばそうなのだろうが、端々に見せる恥ずかしそうな仕草は純朴と言った方が正しいのかもしれない。
さて、何を作ろうかな。私は厨房の冷蔵庫を眺めた。
「もしかして、里見さんが料理してくれるの?」
「そうよ!こう見えても料理には自信があるのよ」
「それはなんか嬉しいな。女の人に料理を作ってもらうなんて、おふくろ以外にはなかったから」
ふーん、そうなんだ。それは意外だった。彼のような男ならきっともてるのだろうと思っていたから。
「だって、好きだよ!私、圭祐君みたいな男の人」
私がそう言うと、彼は笑顔を浮かべて嬉しいと言った。
「圭祐君って、年上の女でもストライクゾーンに入っているかしら?」
「年上って、誰が?」
「なにを今更。とぼけちゃって。と言うか、気を使ってくれているんだよね。きっと!」
「あれっ?里美さんって、いくつなの?」
「バーカ」
お互いに自己紹介をしたのだから、気が付いていないはずがない。そういうさりげない優しさが彼には自然と備わっているのかもしれない。そんなことを思いながら、私は料理に取り掛かった。
彼は確か、九州出身だったわね。割と濃い味の料理で育ってきたはずだわ。それに、工事現場で働いているのなら、塩分の濃いものを好むかもしれない。そして、昨夜からの強行軍でろくなものは食べていないはず。今日のメニューは決まったわ。きっと、彼には地味に見えるだろうけど。最初はね。
やっぱり。正直というか、すぐに顔に出るタイプなんだな。彼は私が並べた料理を見てがっかりしたようだった。山菜の炊き込みご飯、焼き魚、野沢菜の味噌汁と野沢菜の漬物、里芋と大根の煮物、トマトなど、地味なものばかりだったから。きっと、洒落たパスタだとか見栄えのいいサラダだとか、そんなものを期待していたのだと思う。私が男でも、きっとそうだったと思うし。
「文句は食べてから言ってよね」
だから、私は彼に向かってそう言った。最初に言ったはずだ。料理には自信があると。彼は早速、煮物から箸を付けた。
「美味い!」
彼の表情が変わった。やった!計算通り。ざまぁみあがれだ。よし、ダメ押しだ。
「ためしに、私のも食べてみて」
彼は不思議そうな顔をして私の器に盛られた煮物に箸をのばす。一口食べた彼がきょとんとしている。そこで私はネタばらしをした。わたしは、食べる人の好みに合わせて一人一人違う味付けで料理を作る。大勢の料理を一度に出す場合は無理だけど、4~5人なら十分に対応できるのだ。地方出身者の客が多い、大衆食堂で長い間働いていてそこの大将から教わったテクニックなのだ。
彼は感心した様子で他の料理も食べ比べている。
「どう?惚れた?」
男を捕まえるなら、まず、胃袋からなんて言葉を聞いたことがある。彼は私に興味を持ってくれるかしら。少しでも、そうなってくれたらうれしいのだけれど…。
食事が終わると、順番でお風呂に入った。それから娯楽室の大型テレビで映画のDVDを見た。私も好きな映画だったのだけれど、見ているうちにだんだん眠たくなってきた。せっかく彼と二人っきりでいるのに寝てしまったらもったいない。でも、ダメだ。もう眼を開けていられない…。
目が覚めたのは彼がテレビのリモコンを取ろうと体を動かした時だったかしら。私を起こしてしまったことを彼が謝った。目が覚めたのなら、そのまま部屋に戻るべきだったのかもしれないけれど、私はもう少し、彼の体にもたれかかっていたいと思った。
「…もう少し一緒に居てもいい?」
「いいよ」
「変なことしないでね」
「自信がないなあ」
「そうよね。こんないい女が無防備でいるんだものね」
「うん」
彼の声がやさしい。とても安らかな気持ちにさせてくれる。私は再び彼の温もりを感じながら眠りに落ちて行った。
いつの間にか窓の外が明るくなっている。彼は私の肩に手を回すでもなく、ほとんど直立に近い格好で座ったまま、私を支えて眠っている。そんな彼を今度こそ起こさないように私はそっとその場を離れた。彼はこの後、松本から上高地の方へ行くと言っていた。
お別れだ。
私は彼を助手席に乗せて穂高の駅まで送った。このまま私も一緒に行きたいと思った。けれど農場の仕事を放り出していくわけにはいかない。駅のロータリーに車を停めたまま彼はなにも言わずに座っている。彼が何を思っているのかは判らない。彼の気持ちを確かめたいけれど、それはしない方がいいように思えた。そして、私から彼に声を掛けた。
「気を付けてね。行ってらっしゃい!」
行ってらっしゃい…。私がここで電車を降りるときに彼が掛けてくれた言葉。私は思わず、彼の頬にキスをした。彼が驚いた顔をしている。
「おまじないよ。また会えるように」
私は照れ隠しにそう言った。彼に変な風に思われるのが怖かったから。
「あ、ありがとう」
彼はそういうと車から降りた。私は彼に手を振ると車を出した。バックミラーに映る彼の姿をずっと見ていた。彼はそこでずっと私を見送ってくれた。見送りに来た私が見送られている。そう思ったら、なんだか涙が溢れてきた。
農場に戻ると、すぐにレストランの厨房に入った。お盆休みでレストランは忙しかった。余計なことを考える暇などないほどに。マコトのことを忘れようと思ってここへやって来た。それなのに、忘れられない思いが芽生えてしまった。仕事が終わって寮に戻って一人になると、いろんな後悔が次々とやってくる。今更悔やんでも仕方ないのだけれど。
幸い、マコトのことはもう何とも思っていない。たとえ、彼に出会わなかったとしても、きっと吹っ切れただろう。そして、私は大学に戻った。
大学に戻っても卒業論文やら、何やらで忙しい日々が続いた。マコトがあの女の子と並んで歩いている姿を何度か見かけた。けれど、もう、なんとも思わない。
ある日、キャンパスのカフェで、本を読んでいたたら、マコトがやって来て隣に座った。
「久しぶり。元気?最近、全然誘ってくれないね」
相変わらず馴れ馴れしい。その言い回しや仕草がうっとおしい。今まで付き合っていたのがこんな男だったとは我ながら、男を見る目がなかった。
「あら、他の人の彼氏に声を掛けるほど男に困ってないわ」
私はそう言って席を立った。
「なあ、里美。なんか誤解してるよ。あの子はただの…」
しつこく追いすがるマコトのみぞおちにパンチを一発。その場にうずくまるマコトに背を向けると、私はそのまま歩き出した。しばらく歩いて振り返り私は言った。
「バーカ!」
風がやさしくなって来た9月の終わり。卒業論文はおおよそ目途が立った。秋の風は私の心をさりげなくくすぐり始めた。彼の連絡先は知っている。何度電話をかけてみようかと思ったことか。彼から連絡をくれるかもしれない。そんな気持ちが私の心で勇気を封じ込めている。彼の問題じゃない。これは私自身の問題なんだ。解っているのだけれど…。
今日もまた携帯電話を手にとっては彼の名前を画面に映し出す。その時、ふと目に留まった数字。彼のメールアドレスに入っている数字。1012。これって…。行くしかない。後悔をしたくないなら、行くしかない。私は決心した。
10月12日。私は新宿駅まで出てきた。そして彼に電話を掛けた。
「はい、原です」
彼はすぐに出てくれた。
「圭祐君久しぶり。元気だった?」
「えっ?」
「忘れちゃった?里美よ。牧瀬里美」
「里美さん!」
「そう!覚えていてくれたのね。ねえ、今から会えないかしら?」
「今からですか?」
「何か予定があった?」
「いや、そんなものは何もないけれど、ちょっとびっくりしちゃって」
よしっ!せっかくここまで来て、電話をかけて、これで予定があるからと断られたらただのお馬鹿さんだ。
「圭祐君の家ってどこなの?」
「笹塚。京王線の笹塚だけど」
「あら、近いじゃない。私、今、新宿に居るの。これからそっちに行くから駅まで迎えに来て」
そう言って電話を切った。彼にイヤだといわれるのが怖かったから。笹塚について改札を出た。彼の姿は見当たらない。やっぱり、強引過ぎたかしら。でも、もう来てしまった。待つしかない。しばらく、改札口の前を行ったり来たりしていた。すると、こっちに向かってくる彼の姿が目に入った。短髪で、日焼けした顔はあの時のままだった。
「また会えたね」
そして続けた。
「誕生日おめでとう」
彼は驚いている。どうして誕生日を知っているのかと。私はそんな彼に向かって、勝手に恋人宣言すると、彼の腕を掴んで、とっとと歩き出した。
「行きましょう!私たちの部屋へ」
当然、彼の部屋に行くということだ。彼は少しだけ戸惑った表情を見せたけれど、その後は満面の笑みを浮かべてくれた。私がこれだけの決心をしてやって来たのだ。彼にはこれから大いに応えて貰わなければならない。
秋の風は人恋しくさせる。私と同じように、彼にも秋の風の魔法が効いてくれたらいいな。




