きらい
私は、自分が嫌いだ。
こうやって自分が嫌いだ、などと言っている自分も嫌いだ。
存在が嫌いだ。
よくもない容姿に、よくもない性格。
感謝も忘れ、謙虚さもなく、傲慢さが滲んでいる。
それでもって、研鑽することもない。
特筆すべき才能もない。
かといってごく普通の凡人というには狂気がある。
発言は思慮が浅く、行動は道化にもならない。
そして、そんなことを長々と考えている自分も嫌いだ。
またそうやって考えている自分を嫌っている自分も嫌いだ。
結局どう回っても嫌いだ。
厭世観があるわけでもないし、生まれを憎んでいるわけでもない。
周りが嫌いなわけでもないし、かといって博愛主義でもない。
ただ自分が嫌いなだけだ。
しかしそれを口に出すのは憚られる。
それは至極当然なことだ。
周りからすれば、私が自己嫌悪に陥っていようがいまいが、実際のところ本当の意味で関係がない。
むしろそんなことをわざわざ話してくる方が気が滅入るし迷惑なものである。
そして、やっぱり、こんなことを思いながらわずかにでも自身に憐れみを見出している自分が嫌いだ。
他者からはそこまで、いや、気づいていないだけかもしれないが、嫌われてはいないのだから、そんなに気にすることはない、とも思ったことはある。
しかしそれは他者から見えないだけである。
自分の嫌いなところは、それはもちろん、他者からは見えないように取り繕うし、直そうとはするだろうが、自分にまで隠し事はできない。
だから一番自分を嫌いなのは自分であるだろう。
しかしまた、他者からは気づいてもらえなくとも、自身では気づいているいいこともあるのかもしれない。
でも、そのかすかな光を望み、探してあがき、ささやかな好意を自身に抱こうとしている自分が、どうしても嫌いだ。
自己保身に走り、防衛機制に逃げ、自己嫌悪に陥る自分を見続けて、自己愛などとっくのとうに消え失せている。
だが、それを、人は、人生を廃することを望んでいるのか、と勘違いしがちだ。
言っておくが、それは大きな誤解である。
例えどんなに自分が嫌いでも、それを殺すのは、ただ自分が嫌いな人を殺めているのと大差ない。
愛していないから殺す、というのは今までいたどんな狂人よりも狂っているに違いない。
実際は、愛していない「それ」とどう向き合っていくのかに悶えている、というだけである。
他者と違って、自分とは一生、いや、永遠に離れられない。
息絶えるその瞬間まで離れないし、死んだとしても自分が自分と離れることはない。
そうであるならば、自分と向き合う時間が必要だ。
向き合わなくては解決策はない。
解決に向かう手立てさえ生まれない。
どんなに苦しくとも、向き合わなくては良くはならない。
そして、改めて自身と向き合ってみると、こういうことを考えている自分が、やっぱり。
嫌いだ。




