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十年の白い結婚が終わる日に、夫は初めて私の名前を呼んだ  作者: 秋月 もみじ


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第9話


市場は、三つ目の角を右に曲がればいいはずだった。


外務省の書記官にそう教わった。右、左、まっすぐ、三つ目の角を右。覚えた。完璧に覚えた。


なのに、三つ目の角を右に曲がったら、洗濯物が干してある路地裏に出た。


違う。ここではない。


引き返して、二つ目の角まで戻る。ここから左か。いや、さっき左に曲がった気がする。でも、最初の角は右だったか左だったか。


立ち止まった。石畳の道が三方向に分かれている。どれも見覚えがない。王都に来て一ヶ月以上経つのに、外務省と宿の往復以外の道が覚えられない。


四カ国の国境線は暗唱できるのに。


「ラヴェンナ嬢」


振り返った。


ヴィザーリ殿が立っていた。私服だった。紺色の上着に革の肩掛け鞄。眼鏡は同じ銀縁。手には紙袋を提げている。


「また迷いましたか」


「迷っていません。探索しているんです」


嘘だった。完全に迷っていた。ヴィザーリ殿の口元が動いたが、笑いは飲み込んだようだった。


「市場ですか。僕も今から行くところです。ご一緒しませんか」


断る理由がなかった。


◇◇◇


王都の市場は、辺境伯領の市場より三倍は広かった。


石造りのアーケードの下に、色とりどりの天幕が並ぶ。鰯の塩漬けを売る魚屋。オリーブの実を山盛りにした樽。乾燥ハーブの束を天井から吊るした薬種屋。香辛料の匂いが空気に溶けている。


ヴィザーリ殿と並んで歩いた。


仕事の話をしなかった。初めてだ。いつも書簡の技法か、条約の文面か、会議の準備か。仕事以外の話をしたことがない。


「ラヴェンナ嬢は、休日は何をされていますか」


「書簡を書いています」


「仕事ですか」


「趣味です」


ヴィザーリ殿が足を止めた。


「趣味で書簡を書く人を、初めて見ました」


「父がそうでしたから。父は休日に、誰に送るわけでもない書簡を書いていました。文面を練る練習だと言って。私もその癖が抜けない」


「なるほど。ラヴェンナ嬢の書簡が上手いのは、そういう理由だったんですね」


上手い。また仕事の評価だ。この人は人を褒める時、必ず能力を褒める。人そのものを褒める言葉を持っていないのか、あるいは持っていても使い方が分からないのか。


「ヴィザーリ殿は?」


「僕は本を読んでいます。法学と言語学の論文が多いですが、最近は書簡の文体論を」


「まだ研究しているんですか」


「やめられないんです」


何かを言いかけて、飲み込んだ。「学術的な興味で」と付け加えなかったのは、初めてかもしれない。


◇◇◇


広場のベンチに座った。


ヴィザーリ殿が紙袋から干し無花果を取り出し、半分くれた。甘くて、歯ごたえがある。辺境伯領の干し無花果より肉厚だ。


「ラヴェンナ嬢の書簡で、一つだけ気になっていることがあります」


「何でしょう」


「三年目の書簡から、文面が変わりました。技術が上がったのではなく、質が変わった。行間が、詰まったんです」


三年目。ダリオがメリッサを連れてきた年。


「行間が詰まった、とは」


「感情の余白がなくなった。一年目と二年目の書簡には、かすかな遊びがあった。余裕と言ってもいい。三年目からは、一文字の無駄もない。完璧になった」


完璧。


「完璧になったのは、余裕がなくなったからだと。僕は、そう読みました」


風が吹いた。乾いた秋の風。ラベンダーの匂いはしない。王都の風は、何の花の匂いもしない。


「そうかもしれません」


それ以上は言わなかった。ヴィザーリ殿も聞かなかった。


干し無花果の最後のひとかけを口に入れた。甘い。こんなに甘いものを、十年間食べていなかった。食べていたかもしれないが、味を覚えていない。


◇◇◇


帰り道。ヴィザーリ殿が市場の出口まで送ってくれた。


「宿はどちらですか」


「東の通り沿いです」


「東はそちらではなく、こちらです」


また間違えていた。


「また迷うでしょうから、途中までご一緒します」


断らなかった。


二人で歩く。夕暮れの王都。商店が灯りをつけ始める時間。石畳が橙色に染まっている。


隣を歩く人がいる。仕事の話をしない人が。書簡の行間を読める人が。方向音痴を笑わない人が。


胸の奥で、名前のつけられない何かが動いた。


暖かい。干し無花果の甘さとは違う種類の。


ああ、と思った。これが「好き」に近い感情なのかもしれない、と。


でも「好き」の伝え方を知らない。十年間、誰にも好きと言われなかった人間は、好きの形を忘れている。いや、忘れたのではなく、最初から知らなかったのかもしれない。十八歳で嫁いで、ダリオに「好き」と言われたことは一度もなかった。


宿の前に着いた。


「ラヴェンナ嬢。明日、お話したいことがあります」


「何ですか」


ヴィザーリ殿が口を開きかけた。閉じた。万年筆を回す癖のように、言葉を回している。


「いえ。会議の後で」


「分かりました」


宿の扉を閉めた後、しばらく扉に背中を預けていた。


肋骨の間が、じんわりと温かかった。

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