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十年の白い結婚が終わる日に、夫は初めて私の名前を呼んだ  作者: 秋月 もみじ


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第8話


正式な辞令は、思ったよりも薄い紙だった。


白い便箋に、外務省の紋章入りの透かし。「リーア・ラヴェンナ殿を外務省交渉官補に任ず」。交渉官補。嘱託からの昇格。タランテ次官の印が押されている。


指で紙の縁をなぞった。辺境伯家の公文書は上質な厚紙を使う。こちらは薄い。でも重さが違う。見た目の重さではなく、意味の重さが。


「おめでとうございます」


ヴィザーリ殿が廊下から声をかけた。入ってこない。距離を測っている。この人はいつもそうだ。必要な距離を知っている。


「ありがとうございます。これで、堂々と書簡が書けます」


「堂々と書いていましたけれど、嘱託の時から」


否定できなかった。


◇◇◇


ペトラからの三通目の手紙。


辺境伯領の状況は悪化していた。小麦だけではない。セルジーク共和国との関税減免交渉が頓挫し、港を経由する交易商人が隣の領地の港に移り始めている。


「商人のアントニオさんが、来月で店を畳むとおっしゃっていました」


アントニオ。辺境伯領の市場で香辛料を扱っていた商人。セルジークから仕入れた胡椒と肉桂を、適正な価格で売ってくれる人だった。彼の店がなくなれば、領民の食卓から香辛料が消える。


小麦の匿名仲介は、ミロシュ殿の協力で部分的に再開されたらしい。しかし以前の半量しか確保できていない。


ドミノが倒れ始めている。


小麦が止まり、交易が減り、商人が去り、税収が落ち、騎士団の維持費が捻出できなくなる。一つ一つは小さな綻びだが、連鎖する。外交とはそういうものだ。一本の糸を抜けば、布全体がほどけていく。


「旦那様は新しい交渉人を探しているとのことですが、四カ国語を話せる方は見つからないそうです」


見つかるはずがない。四カ国語を母語レベルで操れる人間は、この国に何人もいない。


手紙を折り畳んだ。胸の中で何かが軋む。罪悪感とは違う。もっと複雑なもの。


あの領地が崩れていくのは、ダリオの自業自得だ。でも崩れるのは「ダリオの領地」であって、同時に「あの人たちの暮らし」でもある。


匿名で助けられる範囲には限界がある。本格的な外交交渉は、国の窓口を通さなければ不可能だ。


◇◇◇


午後。ヴィザーリ殿と四カ国定例会議の準備を始めた。


二人で並んで書類を広げる。条約の草案、過去の議事録、各国の要求事項の一覧。机の上が紙で埋まった。


「ヴォルニアの要求は据え置きでいいでしょう。変更があるとすれば、辺境伯領との個別条約の扱いですが」


「辺境伯領との条約は、定例会議の議題に入っていますか」


「更新期限が来月です。通常なら自動更新ですが、今の状況では」


ヴィザーリ殿が言葉を切った。自動更新が危ういことを、二人とも分かっていた。


書類をめくりながら、ヴィザーリ殿の手元を見た。万年筆を持つ指。インクの染みが親指の付け根にある。書き物をする人間の手。


ふと気づいた。書庫から持ってきた書簡のファイルの間に、栞が挟まっている。


「その栞は?」


「ああ、これは。読みかけの場所に挟んでいるだけです」


栞の位置を確認した。ファイルの中ほど。私が辺境伯家に嫁いで三年目、ダリオがメリッサを連れてきた年の書簡だ。


あの年の書簡を、私は覚えている。文面は乱れていなかった。外交書簡は感情で書くものではない。でも、インクの滲みが増えた年だった。筆圧が強くなっていた。


ヴィザーリ殿がその年の書簡に栞を挟んでいる。


何度も読んでいるのだろうか。あの、インクが滲んだ書簡を。


聞こうとした。「なぜその書簡に」と。


聞けなかった。答えを聞くのが怖かったのかもしれない。あるいは、答えを聞いても受け止める準備ができていなかったのか。


◇◇◇


夕方。ヴィザーリ殿と別れ際に、一つだけ聞いた。


「定例会議に、辺境伯閣下は出席されるのでしょうか」


「招待状は送られています。ただ」


「ただ?」


「四カ国の大使がリーア殿の名前を呼ぶ場で、辺境伯閣下がどう振る舞うか。少し、興味深い状況ではあります」


学術的な興味で、とは言わなかった。


◇◇◇


宿に戻り、ペトラに返事を書いた。


「辺境伯領のことは知っています。私にできることは、国の窓口として正式に動くことです。もう少し待ってください」


短い手紙だった。でも、嘘のない手紙だった。


窓辺に、インク壺を並べた。最初の真鍮の、差出人不明のもの。そして外務省から支給された陶器のもの。


二つのインク壺が、窓からの月明かりに光っている。


新しい場所で、新しい仕事がある。自分の名前で。


それが、十年前の私が想像もしなかった現在だ。

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