第7話
ヴォルニア大使は、紅茶に蜂蜜を三匙入れる人だ。
一匙目で甘さを出し、二匙目で深みをつけ、三匙目は「おまじない」だと言う。ボリス・ペトロフ大使。大柄で声が大きく、笑うと部屋が揺れる。でも交渉の席では別人になる。目が据わり、一語一語を噛むように話す。
十年間、書簡でやり取りしてきた相手に、初めて直接会った。
「リーア殿!」
大使館の応接室に入った瞬間、ボリス大使が椅子から立ち上がった。両手を広げて。
「十年間、あなたの書簡を読んできた。まさか直接会える日が来るとは」
「こちらこそ。大使のお手紙の字が年々大きくなっていたので、お元気なのだと安心しておりました」
ボリス大使が笑った。部屋が揺れた。
「相変わらずだ。あの辺境伯にはもったいない女性だ」
辺境伯の名が出て、空気がわずかに変わった。ボリス大使はそれ以上触れなかった。外交官は境界線を知っている。
◇◇◇
四カ国の大使を一人ずつ訪ねた。
セルジーク共和国の交易代表、ファリド・ジャベル殿。小柄で眼光が鋭い。港湾使用料の交渉で十年間やり合ってきた相手だ。
「ラヴェンナ嬢。港の地図の件、覚えていますか」
「地図の北部山脈の位置が古いと指摘した件ですね」
「前回言ったのも、あなただった」
ファリド殿が片方の口角を上げた。笑みとも皮肉ともとれる表情。セルジーク人特有の。
「公式書簡の件は聞いています。辺境伯家の所有物だと」
「法的にはその通りです」
「法的には、ね。しかし、リーア殿。私があなたと十年間やり取りしてきたのは、法的な義務ではなかった。個人的な信頼です。それは誰の所有物にもならない」
喉の奥が詰まった。
タリカ王国の女官長、ブリジッタ・オウェン殿。刺繍の話で文通していた相手。メルダ公国の外務書記官、ドラガン・コヴァチ殿。いつも書簡の最後にメルダ語の諺を添えてくる人。
四人とも、同じことを言った。
「あなた個人との信頼関係は、辺境伯家の財産ではない」
◇◇◇
外務省の会議室。
四カ国の大使と交易代表が、外務省に対して証言した。
「リーア・ラヴェンナ殿との外交関係は、辺境伯家の名代としてではなく、個人的な信頼に基づいて構築されたものです。辺境伯家からの公式な指示を受けた記憶はありません。すべてのやり取りは、リーア殿の判断と能力によって行われていました」
ボリス大使の声が会議室に響いた。
タランテ次官が書記の記録を見ている。眉間の皺が深くなっていた。
ファリド殿が続けた。
「付け加えれば、辺境伯家から我が国に直接連絡があったのは、リーア殿の離脱後が初めてです。それまでの十年間、辺境伯殿のお名前を聞いたことはありません」
会議室が静まった。
保守派の官吏たちが顔を見合わせている。「出所不明の女」と呼んだ言葉が、四カ国の証言で粉砕されていく。
私は何も言わなかった。四カ国の大使が語った。それで十分だった。
◇◇◇
会議の後、ヴィザーリ殿の執務室を訪ねた。
法務官との交渉。公式書簡と私的書簡の法的区分の確立。四カ国の証言の手配。それらをヴィザーリ殿が裏で整えていたことを、タランテ次官から間接的に知った。
扉を叩いた。返事があって、開ける。
ヴィザーリ殿は机に向かって書類を読んでいた。目を上げて、少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます」
「何のことですか」
「法務官との交渉。四カ国への証言の依頼。全部、あなたが」
「仕事です」
目が合った。ヴィザーリ殿の耳の後ろが、わずかに赤い。それを隠すように、首をかしげて髪を落とした。
仕事。
そう言いたいならそう言えばいい。でも、仕事であの量の法的文書を読み込み、法務官を説得し、四カ国の大使に根回しする人間は、「仕事」だけでは動かない。
「ヴィザーリ殿」
「はい」
「今度、鰯の塩焼きをご一緒しませんか。お礼に」
ヴィザーリ殿が万年筆を落とした。机の上で転がって止まる。拾いながら、「ええ、もちろん」と言った声が少し上ずっていた。
◇◇◇
夕方、宿に戻ると手紙が届いていた。
封蝋はアルヴェス家の鷲。今度はダリオ本人の字だった。
封を切る。
「戻れ」
二文字だけ。
便箋一枚に、二文字。「戻れ」。
ダリオらしい、と思った。言葉が少ない。少ないのは語彙がないからではなく、それで十分だと思っているからだ。命令すれば従う。そう信じている。
十年間、従っていたから。
便箋を折り畳み、引き出しにしまった。返事は書かない。
代わりに、ヴォルニアのミロシュ殿への二通目の手紙を書いた。小麦の件の経過報告。「友人より」の署名で。
明日から、四カ国との新しい条約の草案に取りかかる。
今度は自分の名前で。




