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十年の白い結婚が終わる日に、夫は初めて私の名前を呼んだ  作者: 秋月 もみじ


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第6話


ペトラの手紙は、いつも封蝋に薔薇の紋を使う。


赤ではなく桃色の蝋。辺境伯家の公式な蝋ではなく、ペトラが自分で買ったもの。この封蝋を見るたびに、あの人の几帳面さを思い出す。


手紙を開いた。


一行目から、空気が変わった。


「奥様。お元気でいらっしゃいますか。こちらは、正直に申し上げると、あまりよくありません」


ペトラの手紙はいつも穏やかな文面だ。季節の花の話から始まり、屋敷の近況を淡々と伝え、最後に「お身体に気をつけて」で終わる。


この手紙は違った。


ヴォルニア国との小麦の通商協定が更新されなかった。辺境伯領ノルテ・ヴェントは北方の土地で、小麦の自給率が低い。ヴォルニアからの輸入小麦で領民の食卓が成り立っていた。


それが止まった。


「小麦の価格が三倍になりました。パン屋のジェノーヴァさんが、もう安いパンは焼けないと嘆いています。子供たちが麦粥を薄めて食べているそうです」


便箋を持つ手に力が入った。


ジェノーヴァさん。辺境伯領の中央通りでパン屋を営んでいる老婦人。私が嫁いだ年に、祝いの黒パンを焼いてくれた人だ。硬くて素朴な黒パンだったが、蜂蜜をかけると甘くなると教えてくれた。


あの人の店が、小麦を仕入れられなくなっている。


手紙はさらに続いた。ダリオはメリッサの助言で王都の貴族に小麦の手配を頼んだが、まだ届いていない。隣国との交渉も試みたが、先方から返事がないとのこと。


返事がない。当然だ。ヴォルニア側の交渉窓口はリーアだった。引き継ぎ書にも書いた。「ミロシュ殿への最初の書簡にはかならずお嬢さんのシュテラの名前を入れること。これがないと、ミロシュ殿は書簡を開封しない」と。


読まれなかっただろう。あの引き継ぎ書は。


◇◇◇


封書の中に、押し花が一枚入っていた。冬咲きのジャスミン。白い花びらが薄くなって、かすかに甘い匂いが残っている。


辺境伯家の庭で、十年間世話をした花だ。


花びらに触れた。乾いて、紙のように薄い。でも匂いは消えていない。


助けるべきだろうか。


もう私の責任ではない。離縁は成立している。辺境伯領は私の管轄ではない。領民の食料を確保するのは辺境伯の仕事であって、私ではない。


でも。


ジェノーヴァさんの顔が浮かぶ。パン屋の隣の肉屋のトニオ。図書館の司書のマリエッタ。門番のステファノ。次々と。あの人たちは何も悪くない。


合理的に考えれば、答えは明確だ。辺境伯の失政は辺境伯の責任。自業自得を見せるべきだ。


合理的に考えなければ。子供たちが薄い麦粥を食べている。


◇◇◇


外務省の庭に出た。一人で考えたかった。


オリーブの木の下のベンチに座り、目を閉じた。風が頬をかすめる。南からの温かい風。辺境伯領の北風とは違う。


「ラヴェンナ嬢」


目を開けると、ヴィザーリ殿が立っていた。手に二つの湯呑みを持っている。麦湯。


受け取った。温かい陶器の感触が手のひらに伝わる。


「ペトラから手紙が来ました。辺境伯領の小麦が止まって、領民が困っています」


ヴィザーリ殿がベンチの端に座った。適切な距離を取って。


「助けようかどうか迷っている。それで、ここにいる」


「僕に聞かれても困ります」


「困る?」


「あなたがどうしたいかは、僕には決められないので。僕が聞けるのは、あなたならどうしたい、ということだけです」


あなたならどうしたい。


「どうしたい」が自分で選べるものだと、十年間忘れていた。辺境伯夫人には「どうすべき」しかなかった。


麦湯が喉を温かく通り過ぎた。


「助けます」


声に出した瞬間、胸の奥の結び目が少しだけ緩んだ。


「ただし、匿名で。ダリオに恩を売る形にはしません。ヴォルニア国のミロシュ殿に、個人的な手紙を書きます。小麦の輸出再開の仲介を頼みます。差出人は『友人より』とだけ」


ヴィザーリ殿がこちらを見た。眼鏡の奥の目に、怒りでも同情でも学術的興味でもない何かが映っていた。


何だったのか、分からない。分からなくてもよかった。


◇◇◇


夜。宿の机で、ミロシュ殿への手紙を書いた。


ヴォルニア語で書く。「親愛なるミロシュ殿。お嬢さんのシュテラのご成長をお慶び申し上げます」。この一文が、ミロシュ殿に手紙を読ませる鍵だ。


本題を書く。辺境伯領の小麦の件。仲介の依頼。


署名欄で筆が止まった。自分の名前を書けば、ミロシュ殿にはすぐ分かる。匿名にする意味は、ダリオに知らせないためだ。


「友人より」。


筆を置いた。窓の外を見る。王都の灯り。


甘いのかもしれない。助ける必要はなかった。合理的には。


でも、合理的でないことを選ぶ自由が、今の私にはある。


それだけで十分だった。

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