第5話
法務部の書記官は、私の顔を見ずに書類を読み上げた。
「辺境伯ダリオ・アルヴェス閣下の代理人より、正式な申し立てが提出されました。内容は以下の通りです。辺境伯家の名代として作成された外交書簡は、辺境伯家の財産である。よって、当該書簡およびその写しを用いた一切の外交活動は、辺境伯家の許可なく行うことができない」
書記官の声は事務的だった。抑揚がない。法的手続きの通告に感情は不要だと、その声が言っていた。
窓の外では、中庭のオリーブの木が風に揺れている。葉の裏が白く光る。
「ラヴェンナ嬢。何かご意見は」
タランテ次官が腕を組んで壁際に立っていた。
「法的にはその通りです」
自分でも驚くほど平静な声が出た。外交官の声だ。感情を棚上げしている時の声。
「名代として書いた書簡は、名代の主の所有物です。私にはその点に異議を唱える法的根拠がありません」
タランテ次官の目が細くなった。この回答を予想していたのか、していなかったのか。読めない。
「では、ラヴェンナ嬢が現在進めているタリカ王国との案件についても」
「タリカの案件は、外務省から嘱託として依頼された業務です。辺境伯家の名代としてではなく、私個人として。法的には別の話かと」
「しかし、ラヴェンナ嬢の外交能力の基盤が辺境伯家での経験に由来する以上、その正統性には疑義がある、との指摘が省内から出ています」
省内から。誰からか、分かっていた。
◇◇◇
会議室を出ると、廊下に保守派の官吏が三人固まっていた。すれ違いざまに聞こえた言葉を、聞こえなかったことにはできなかった。
「出所不明の女に外交を任せるのか」
出所不明。
子爵家ラヴェンナの長女。元駐在大使の娘。四カ国語を母語レベルで操る。十年間、辺境伯領の外交を一人で支えた。
それでも「出所不明」と呼ばれる。十年間の仕事は、「辺境伯の財産」であって私の実績ではないと。
足が止まりそうになった。止まらなかった。止まったら負けだと知っている。
◇◇◇
執務室の前で、ヴィザーリ殿が待っていた。
壁にもたれて立っていた姿勢が、私を見てすぐに正された。何か言おうとしている顔。言葉を探している顔。
「法的な話ですが」
その切り出し方で、彼がどこまで事態を把握しているか分かった。
「名代として書かれた公式書簡は、確かに辺境伯家の財産です。しかし、公式書簡とは別に、個人的なやり取りがあったとしたら。それは名代の業務ではなく、個人間の書簡です」
足を止めた。
「個人的なやり取り」
「外交書簡の余白に、あるいは別の便箋で、各国の担当者と私的な書簡のやり取りをしていたことは、ありませんか」
あった。
公式の通商条約の書簡とは別に、各国の担当者との個人的な手紙。ヴォルニアのミロシュ殿の娘の誕生日を祝う手紙。セルジークの港湾長が送ってくれた珊瑚の装飾品への礼状。タリカの女官長との、刺繍の技法についての往復書簡。
それらは外交文書ではない。個人的な手紙だ。
「公式書簡と私的書簡の法的区分が確立されれば、ラヴェンナ嬢の外交活動の正統性は個人の人脈に基づくものとして、辺境伯家の所有権の及ばない範囲に位置づけられます」
ヴィザーリ殿の声は穏やかだったが、語尾に力があった。法学の学位を持つ人間の確信。
「ただ、法的根拠を整えるには少し時間がかかります。法務官との交渉が必要なので」
「あなたがそこまでする理由は」
ヴィザーリ殿が眼鏡を押し上げた。
「不当な法解釈への異議です。学術的な、ですが」
また、その前置き。
でも今回は、その前置きが嘘だと分かった。この人は、不当な法解釈に怒っているのではない。不当に扱われている人に怒っている。
「ありがとうございます」
それ以上は言えなかった。言えば、声が崩れる。
◇◇◇
夕方。書記官が執務室に来て、書簡の写しの回収を告げた。
辺境伯家の財産として、外務省が保管している書簡の写しを返還する手続きが始まったのだ。書記官が木箱を持って出ていく。十年分の書簡の写し。私の書いた言葉が、箱に詰められて運ばれていく。
黙って見ていた。
左の薬指の爪を、無意識に触っていた。
結婚指輪はもうない。十年条項の成立と同時に外した。でも指は覚えている。あの重さ。冷たい金属の感触。
箱が一つ、また一つと運び出される。
ヴィザーリ殿が言った「個人的な書簡」の可能性だけが、今の私の手元に残っている。
◇◇◇
宿に戻った。
机に向かったが、何も書けなかった。万年筆を手に取り、便箋を広げ、インクをつけた。それきり、手が動かない。
十年分の仕事が、「夫の財産」と呼ばれた。
怒るべきなのだろうか。悔しがるべきなのだろうか。法的には正しい。名代の仕事は主の所有物だ。それは分かっている。分かっていて、それでも。
視界がにじんだ。
頬に何かが伝った。温かい。手の甲で拭った。濡れていた。
十年間泣かなかった。ダリオが愛人を連れてきた日も。「女の文通」と。メリッサが書簡を。
泣かなかった。泣く暇があったら書簡を書いた。書いて、書いて、書いて。
今。
便箋の上にインクの滲みが一つ落ちた。指ではない。頬から落ちた。もう一つ。もう一つ。拭おうとして、手がインク壺に当たって、壺が傾いて、慌てて起こして、その動作が、なんだか馬鹿みたいで。
止まらない。
十年分だ。これは。十年分の。名前のない。
窓の外は暗くなっていた。灯りがにじんで、まるで水の底から見ているみたいだった。




