第4話
この万年筆は、いつの間に机の上にあったのだろう。
紺色の軸に金のペン先。握ると手に馴染む太さで、試しにインクをつけて一文字書いてみたら、滑りが良かった。安物ではない。外務省の備品でもない。備品にはすべて刻印がある。
差出人の心当たりは、あるようなないような。
考えても仕方がないので、タリカの絹の件に使うことにした。道具は使ってこそ道具だ。
◇◇◇
タリカ王国との関税調整が、三週間で決着した。
従量制から従価制への移行に伴う税率の読み替え。タリカ側の計算方法と当方の計算方法に齟齬があったが、書簡を二通やり取りして合意に至った。小さな案件だ。だが、小さな案件を正確に処理することが信頼の土台になる。父がそう言っていた。
タランテ次官は報告書を受け取り、「結構」とだけ言った。
褒めもしないが、文句もない。嘱託としては上出来ということだろう。
ヴィザーリ殿が昼食に誘ってくれた。
「食堂に行きませんか。今日の献立は鰯の塩焼きだそうです」
外務省の食堂は、思っていたより広かった。天井が高く、窓から中庭のオリーブの木が見える。職員たちが三々五々集まって食事をしている。
盆を受け取り、席に着く。鰯の塩焼き。干し無花果のパン。山羊乳のチーズ。麦湯。
鰯にかぶりついた。
皮が香ばしい。身がほろりとほぐれて、塩の加減がちょうどいい。辺境伯家の食事は見栄えだけは立派だったが、味付けが濃すぎた。料理長がダリオの好みに合わせていたからだ。
「おいしい」
口をついて出た。
言ってから気づいた。声に出していた。隣のヴィザーリ殿がこちらを見ている。
「失礼。つい」
「いえ」
ヴィザーリ殿が何か言いかけて、やめた。手元のパンをちぎる動作が、一瞬だけ止まっていた。
辺境伯家では、食事を味わう暇がなかった。食事中も頭の中で書簡の返事を組み立てていた。ヴォルニア国の関税交渉の落としどころ。セルジーク共和国の港湾使用料の改定案。噛む回数すら数えていなかったかもしれない。
ここでは、鰯の味が分かる。
それだけのことが、少し泣きそうなほど嬉しかった。
泣かなかったけれど。
◇◇◇
午後、ヴィザーリ殿と書簡の技法について話した。
「A型の構文とB型の構文を使い分けていますね」
「A型?」
「僕が勝手に分類しているんです。A型は相手に主導権があると思わせながら、実は条件を先に埋めておく構文。B型は最初に大きな譲歩を見せて、相手が安心したところで本題を出す構文」
笑いそうになった。書簡の技法に名前をつけている人を初めて見た。
「B型は、ヴォルニア国相手の時によく使います。あちらの外交官は最初に大きな譲歩を見せると警戒が緩むので」
「国ごとに構文を変えている?」
「人ごとに、です。ヴォルニア国でも、ミロシュ殿にはA型が効きますし、大使のボリス殿にはB型の方が」
ヴィザーリ殿の目が変わった。眼鏡の奥で、何かが点灯したような光。
「興味深い。それは、つまり」
「相手の性格によって、文の構造を変えるんです。交渉は文面で行われますが、読むのは人ですから」
しばらく沈黙があった。ヴィザーリ殿がこちらを見ている。見ているというより、観察している。書簡を分析するのと同じ目で。
「学術的な興味で、ですが」
また、その前置き。
「もう少し詳しくお聞きしてもいいですか」
◇◇◇
夕方。宿に戻ると、ペトラからの手紙が届いていた。
封蝋に薔薇の紋。ペトラの私信用の紋だ。辺境伯家の鷲の紋ではなく。
手紙を開く。ペトラの字は丸くて読みやすい。外交文書とは正反対の、飾り気のない文字。
近況が書かれていた。屋敷は変わりなく、メリッサ様が社交の準備に忙しいとのこと。新しい侍女が二人入ったが、まだ仕事に慣れていないこと。庭のジャスミンが蕾をつけ始めたこと。
最後の一行に、目が止まった。
「ヴォルニア国からの書簡が二通、まだ返信されておりません」
二通。月に一通のペースなら、二ヶ月分の返信が滞っていることになる。
あの引き継ぎ書は、読まれただろうか。千ページを超える引き継ぎ書。ヴォルニア語の書簡の書き方から、大使の好みの茶の入れ方まで書いた、あの。
机の上のインク壺が、いつの間にか新しいものに替わっていた。真鍮製で、蓋に細かい唐草模様が刻まれている。万年筆と同じ差出人だろう。
インク壺の模様を指でなぞった。幼い頃、父の書斎のインク壺にも似たような模様があった。唐草ではなく月桂樹だったが、指で触った時の感触が似ている。
あの頃は、書簡を書くことが遊びだった。
今は仕事で。今は、自分の名前で書ける。
ペトラへの返信を書いた。「元気にしています。鰯がおいしい街です」。
短い手紙だったが、嘘は一つもなかった。




