第3話
絹の関税率について書いていたら、来客だと言われた。
タリカ王国の関税は従量制で、絹一反あたり銀貨三セル。これをカレルスト側の従価制に換算すると。計算の途中で、廊下から足音が響いた。革底の軍靴。外務省の官吏が履く靴ではない。
「辺境伯閣下のお使者がお見えです」
書記官がそう告げた。
応接室に通された男は、見覚えのない顔だった。ダリオの従者ではない。おそらく新しく雇った者だろう。靴が汚れている。辺境伯家ではペトラが来客前に必ず玄関を掃除させていた。あの人がいなくなって、そんな小さなところから綻び始めているのだろうか。
いや。それはもう、私が気にかけることではない。
「辺境伯閣下からの伝言です」
使者が一枚の書状を差し出した。封蝋はアルヴェス家の鷲の紋章。だが蝋の押し方が甘い。印がずれている。ダリオは封蝋を自分で押さない。メリッサが押したのだろうか。
書状は短かった。
「辺境伯夫人の業務を引き継ぐ人員を手配中である。外交書簡の件は辺境伯家で対応するため、外務省に余計な心配をかけるには及ばない」
余計な心配。
「もう一点。奥方の代わりは見つかります。閣下がそうおっしゃっていました」
使者の声は平板だった。伝言を伝えているだけ。悪意はない。ただ、その言葉を選んだのはダリオだ。
「そうですか」
私の声も平板だった。
「それでは、一つだけお伝えいただけますか」
「はい」
「あの国との条約文、お読みになれますか?」
使者の目が泳いだ。
「条約文と申しますと」
「ヴォルニア語で書かれた通商条約。セルジーク語の安全保障覚書。タリカ語の関税協定。メルダ語の領海使用契約。四通です。私が読めなくなった場合、どなたがお読みになるのかと思いまして」
沈黙。
使者は何も答えなかった。答えられるはずがない。四カ国語を読める人間は、辺境伯家にはもういない。
「お茶はいかがですか」
微笑んだ。外交官の微笑み。父に教わった、感情を何も漏らさない笑い方。
使者は茶を断り、足早に去った。
◇◇◇
午後、ヴィザーリ殿が執務室に来た。
「さきほどの来客、辺境伯家の使者だったそうですね」
「ええ」
「僕が代わりに怒ってもいいですか」
思わず顔を上げた。ヴィザーリ殿は冗談を言う顔をしていなかった。眼鏡の奥の目が、静かに怒っている。
「怒る理由がありません。事実を伝えただけですから」
「事実。四カ国語の条約文を読める人間がいないという事実を、ですか」
「そうです」
ヴィザーリ殿が眼鏡を押し上げた。何か言いたそうにしていたが、飲み込んだ。代わりに「タリカの件、進んでいますか」と仕事の話に戻した。
この人は空気が読める。切り替えを求めている時に、食い下がらない。ダリオにはなかった美徳だ。
というより。ダリオと比べること自体が、もう不要なのかもしれない。
◇◇◇
夕刻。書記官が封書を持ってきた。
「ヴォルニア国から、辺境伯領宛ての親書が転送されてきました。辺境伯領で受取人が不在とのことで」
受取人が不在。そうだろう。受け取る人間は、もうあの屋敷にいない。
封書を受け取った。ヴォルニア国の外務局の正式な封蝋。蒼い蝋に熊の紋章。見慣れた紋章だ。十年間、毎月この封蝋を見てきた。
宛名を見て、手が止まった。
「リーア殿」
辺境伯ダリオ・アルヴェスではない。辺境伯夫人でもない。リーア殿。
私の名前だ。
書記官がこちらを見ている。ヴィザーリ殿も、いつの間にか廊下に立っていた。
「辺境伯家の使者に確認を取ります。宛先の間違いかもしれませんので」
書記官が使者を呼び戻す手配をした。三十分後、使者が戻ってきた。書記官がヴォルニア大使館に照会した回答を読み上げる。
「ヴォルニア国外務局より回答。宛先に間違いはありません。本親書はリーア殿宛てです」
使者の顔から、色が引いていくのが分かった。
辺境伯の名は、最初からなかった。ヴォルニア国が十年間交渉していた相手は、辺境伯ではなく、リーアだったのだ。
私は何も言わなかった。使者を見送り、親書を開封し、タリカの絹の関税率の計算に戻った。
言葉は要らなかった。書簡が語った。
◇◇◇
夜。宿の机に向かう。
窓の外に王都アヴェリーノの灯りが見えた。辺境伯領よりも灯りが多い。商店の明かり、酒場の明かり、街灯の明かり。
便箋を一枚広げた。
十年ぶりに書く、自分の名前の書簡。「辺境伯ダリオ・アルヴェス名代」ではなく。
ヴォルニア国外務局宛て。返信を書く。いつもと同じように。丁寧に、正確に、第3段落で譲歩を見せて、その裏に条件を織り込む。
署名欄に、筆を置く。
リーア・ラヴェンナ。
自分の名前を書くのに、少しだけ手が震えた。今朝、封蝋を押す手が震えなかったのに。おかしなものだ。
自分の名前を書く方が、十年の終わりを告げるより緊張するなんて。




