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十年の白い結婚が終わる日に、夫は初めて私の名前を呼んだ  作者: 秋月 もみじ


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第2話


外務省の正面玄関は、東向きのはずだった。


父の手紙にそう書いてあった。「アヴェリーノの外務省は東向きの白い建物。朝日が正面に当たる」。だから東を向いて歩いたのに、着いたのは裏口だった。


荷物搬入用の、石段もない地味な扉。


方角が合っている確信はあった。地図を描ける。四カ国の国境線を暗唱できる。ヴォルニア国の首都プロスカから辺境伯領までの街道の宿場を全て挙げられる。


なのに、今立っている建物の中で東がどちらか分からない。


昔からそうだった。地図は描けるのに、地図の中に自分を置けない。


「ラヴェンナ嬢ですか」


振り返ると、門衛が怪訝そうな顔をしていた。


「正面玄関はあちらです」


あちら、がどちらか分からなかったが、門衛が指さした方角に歩いた。


◇◇◇


外務省次官のヤコブ・タランテは、五十を過ぎた痩せた男だった。


執務室の椅子に深く座り、書類から目を上げずに言った。


「嘱託扱いです。正規の採用ではありません」


「承知しております」


「辺境伯閣下の名代として書簡業務に従事されていたとのことですが、当省では実務経験として認めておりません。前例がないので」


前例。この国の官僚が最も好む言葉だ。


「試用期間として、まず小規模な案件を担当していただきます。タリカ王国との絹の関税調整。ラヴェンナ嬢にはタリカ語の能力があるとお聞きしていますので」


「タリカ語のほかに、ヴォルニア語、セルジーク語、メルダ語も使えますが」


タランテ次官がようやく書類から目を上げた。こちらを見る目は、値踏みをするような色をしていた。


「そうですか。いずれにせよ、嘱託です」


そうですか。その一言で、十年分の実務が片付けられる。


胸の奥で何かが軋んだが、顔には出さなかった。慣れている。評価されないことには、もう十分に。


◇◇◇


執務室に案内された。


小さな部屋だった。机が一つ、椅子が一つ、窓から中庭のオリーブの木が見える。壁には地図が一枚。カレルスト王国と周辺四カ国の国境線を示す古い地図だ。北部の山脈の位置が少し違うな、と反射的に思った。


「ラヴェンナ嬢」


声がして振り返る。


扉の前に男が立っていた。銀縁の眼鏡。細身。髪は暗い茶色で、襟にかかるぐらいの長さ。手にはインクの染みがある。書き物をする人間の手だ。


「アルマン・ヴィザーリです。主任外交官として、ラヴェンナ嬢の案件を担当します」


丁寧な口調だが、どこか早口だった。頭の回転が速い人間に特有のテンポ。


「お会いできて光栄です。実は、あなたの書簡を研究させていただいていまして」


研究。


「失礼ですが、私の書簡とは」


「辺境伯家の名代として各国に送られた外交書簡です。写しが外務省の書庫に保管されています。いえ、正確には、各国から回ってきた受領報告書に書簡の抜粋が引用されているんです」


ヴィザーリ殿は早足で部屋に入ると、私の机の横に立った。インクの匂いがした。上質なインク。辺境伯家で使っていたのと似た匂い。


「第3段落で必ず譲歩の姿勢を見せる。しかしその譲歩には条件が織り込まれていて、相手が受諾した時点で本来の要求が通る構造になっている。見事です」


息を呑んだ。


十年間、誰にも言われなかったことだった。ダリオは「書類仕事」としか呼ばなかった。メリッサは「女中の仕事」と笑った。ペトラは労ってくれたが、書簡の中身は読めなかった。


この人は。読んでいる。


「学術的な興味で、ですが」


ヴィザーリ殿がそう付け加えた。なぜか、少しだけ早口になっていた。


「ありがとうございます」


声が震えそうになって、咳払いで誤魔化した。ここで泣くわけにはいかない。嘱託初日だ。


「それで、タリカとの絹の件ですが」


仕事の話に戻す。感情を棚上げする。得意技だ。


ヴィザーリ殿がわずかに首を傾げた。こちらの切り替えの速さに、何かを感じたような顔だった。


◇◇◇


夕方、執務室を出て帰ろうとした。


廊下を左に曲がり、階段を下り、右に曲がり、そこで止まった。見覚えのない壁画がある。白いドレスの女性が、窓辺で背中を向けて立っている絵。この絵の前を朝は通らなかった。


迷った。


「ラヴェンナ嬢」


背後から声がした。ヴィザーリ殿が書類の束を抱えて立っている。


「正面玄関はそちらではなく、こちらです」


「あ。ありがとうございます」


一瞬、ヴィザーリ殿の口元が動いた。笑いを堪えているように見えた。


「書簡では完璧なのに」


小さな声だった。聞こえないふりをするべきだったが、耳が熱くなるのは制御できなかった。


「方角の感覚は、あまり得意ではないので」


「地図は読めるのに?」


「地図は描けます。ただ、その中に自分がどこにいるかが」


ヴィザーリ殿が、今度は隠さずに笑った。声を立てない、静かな笑い方だった。


不思議と、嫌ではなかった。馬鹿にされている感じがしない。


◇◇◇


宿に戻ると、机の上に荷物を広げた。革鞄ひとつ分の荷物。着替えと、翡翠の耳飾りと、父の手紙の束。


明日の朝、また迷うだろう。でも、明日もあの執務室に行く。


壁の絵の女性のことを考えた。背中を向けて、窓辺に立っている女。あの人は何を見ていたのだろう。窓の外か、それとも窓に映る自分の顔か。


翌朝。机の上に、万年筆が一本置かれていた。


差出人の名前は、どこにもなかった。

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