第12話
署名式の朝、私は道に迷わなかった。
宿を出て、東の通りを真っ直ぐ。角のパン屋を左に曲がり、石橋を渡って外務省の正門へ。一度も立ち止まらず、一度も振り返らず。
不思議なものだ。昨日まで毎朝迷っていた道が、今朝はすんなりと繋がっている。地図が変わったのではない。自分の中の何かが変わったのだ。
正面玄関の白い柱が、朝日に照らされている。父の手紙に書いてあった通り、東向きの白い建物。朝日が正面に当たる。
今日、この建物で、自分の名前を書く。
◇◇◇
控室で支度をした。
紺色のサージ織のドレス。亜麻のスカーフ。翡翠の耳飾り。母の形見。十八歳で辺境伯家に嫁ぐ時にもつけていた。あの日は耳飾りが重く感じた。今日は軽い。
万年筆を確認した。アルマンがくれた紺色の軸に金のペン先。インクの出を確かめる。白紙に一文字、試し書きをした。滑りが良い。
革の筆箱から万年筆を取り出した瞬間、その重さに父の書斎を思い出した。父の万年筆も同じくらいの重さだった。「書簡は武器だ」と父は言った。「剣より静かに、剣より深く刺さる」。
あの頃は意味が分からなかった。今は分かる。
十年かかったが。
◇◇◇
会議室に入った。
半円形のテーブル。五つの椅子。四カ国の旗とカレルスト王国の旗。二日前と同じ配置だが、今日は一つ違う。
テーブルの中央に、新条約の正文が置かれている。四カ国語とカレルスト語の五部。羊皮紙ではなく、最上質の紙。外務省の紋章入りの透かし。
各国の代表が着席していた。ボリス大使。ファリド殿。ブリジッタ殿。ドラガン殿。
ボリス大使が微笑んだ。紅茶のカップを掲げるような仕草。蜂蜜は三匙。
私はカレルスト王国の席についた。
「それでは、新条約の署名に入ります」
議長の声が響く。
各国の代表が順番に署名していく。ボリス大使がヴォルニア語で署名。太い万年筆で、力強い字。ファリド殿がセルジーク語で。細い字。ブリジッタ殿がタリカ語で。流麗な筆跡。ドラガン殿がメルダ語で。丸い文字。
最後。カレルスト王国。
万年筆を取った。アルマンの万年筆。紺色の軸が掌に収まる。
署名欄に目を落とした。白い紙の上の、空白。
十年間、この空白に「辺境伯ダリオ・アルヴェス名代」と書いてきた。千通を超える書簡に。毎回、自分の名前ではない名前を書いた。
今日は違う。
ペン先を紙に当てた。インクが紙に染み込む、あの最初の一瞬。封蝋を押す時と似ている。取り返しのつかない一画を引く緊張。
リーア・ラヴェンナ。
書いた。
自分の名前を。
筆が紙を離れた。インクが乾いていく。リーア・ラヴェンナの七文字が、条約の正文に刻まれていく。
ボリス大使が拍手した。大きな手で。ファリド殿が片方の口角を上げた。ブリジッタ殿が頷いた。ドラガン殿が、メルダ語の諺を呟いた。聞き取れた。「名前は、自分で書くものだ」。
左の薬指の爪を、触らなかった。
初めてだ。署名の場面で、あの癖が出なかった。指輪があった場所を探す必要が、もうなかった。
◇◇◇
回廊で、各国の大使と短い言葉を交わした。
ボリス大使。「十年間、あなたの書簡が我が国の安心だった。これからは、あなたの名前が条約に残る」
ファリド殿。「新しい地図を送ります。今度は山脈の位置を直しておきました」
ブリジッタ殿。「来月、新しい刺繍の図案ができます。お送りしてもいいかしら」
ドラガン殿。「約束通り、あなた自身の名前で会えましたね」
あの手紙の一文。「いつか、あなた自身の名前で会いましょう」。十年前に書かれて、届かなかった言葉。今日、届いた。
「ええ。お待たせしました」
声が少し掠れた。でも笑顔は隠さなかった。今日は、笑顔を隠す必要がない。
◇◇◇
外務省の庭。オリーブの木の下。
アルマンが待っていた。
「見届けました」
「ありがとう」
「あなたの署名は、書簡と同じ筆跡でした」
「万年筆が同じですから」
「僕の万年筆を使ってくれたんですね」
「あなたのでした? 差出人不明だったはずですが」
アルマンが笑った。声を出さない、静かな笑い方。市場の日と同じ。
ベンチに並んで座った。肩が触れる距離。
「ペトラに手紙を書かないと」
「辺境伯領のことですか」
「ジャスミンのこと。署名式の会場に飾られていた花、冬咲きのジャスミンでした。ペトラが送ってくれた押し花と同じ」
「気づきましたか」
「ペトラに頼んだのですか」
アルマンが答えなかった。代わりに、鞄から紙包みを取り出した。干し無花果。
「お祝いです」
「仕事道具ではないんですね、今回は」
「いえ。今回は、学術的な興味でもありません」
二人で干し無花果を分けた。甘い。
◇◇◇
夕方。執務室に戻り、新しい書簡を書き始めた。
ヴォルニア国外務局宛て。新条約に基づく最初の公式書簡。
宛名を書く。本文を書く。第1段落で挨拶。第2段落で前置き。第3段落で本題。いつもの構成。いつもの技法。
でも一つだけ違う。
署名欄。
リーア・ラヴェンナ。カレルスト王国外務省交渉官補。
自分の名前。自分の肩書き。
書き終えて、封蝋を押した。カレルスト王国外務省の紋章。蝋が冷えていく。じゅう、と小さな音。
第1話の朝と同じ音。でも全てが違う。
あの朝は終わりだった。今日は始まり。
窓の外に、王都の夕暮れが広がっている。オリーブの木が風に揺れている。風は南から吹いている。温かい風だ。
机の上に、万年筆が一本。インク壺が二つ。真鍮の唐草模様のと、陶器の。封蝋と印章。そして、新しい便箋の束。
これが私の持ち物の全てだ。革鞄一つ分から、少しだけ増えた。
ペトラへの手紙を書こう。「署名しました。自分の名前で」。
そしてもう一通。ミロシュ殿への手紙。今度は「友人より」ではなく、リーア・ラヴェンナの名前で。
書簡を書く。それが私の仕事だ。
十年間も、これからも。ただ、これからは。自分の名前で。




