第11話
報告書の最後の段落を書き終えたとき、アルマンがインク壺の蓋を閉じた。
アルマン。
いつから名前で呼ぶようになったのだろう。声には出していない。頭の中で。ヴィザーリ殿がアルマンに変わったのは、市場で干し無花果を半分くれた日か、栞の位置に気づいた日か、握りつぶされた書簡を渡してくれた日か。
分からない。気づいたら変わっていた。
「ラヴェンナ嬢」
「はい」
「お話したいことがあるのですが」
あの日の続きだ。市場の帰り、宿の前で言いかけた言葉。「会議の後で」と延期した、あの。
「署名式の準備のことですか」
「いえ。違います」
インク壺の蓋を閉じた手が、万年筆を持ち直した。回している。言葉を探している時の癖だ。
「バルコニーに出ませんか。少し風に当たりたくて」
仕事中にバルコニーに出たことはない。でも断らなかった。
◇◇◇
外務省のバルコニーは中庭に面している。オリーブの木が月明かりに銀色に光っていた。風は冷たくなり始めている。秋が深まっている。
アルマンが手すりに手を置いた。月明かりでインクの染みが見える。親指の付け根の、消えない染み。
「以前、あなたの書簡の構文が好きだと言いました」
「覚えています」
「あれは嘘です」
心臓が一つ、大きく打った。
「構文が好きだ、と言ったのは嘘です」
アルマンの声が、いつもと違った。穏やかさは同じだが、その下に別の温度がある。押さえつけていたものが、蓋の隙間から漏れ出すような。
「構文ではなく」
万年筆が止まった。
「あなたが好きです」
風が吹いた。オリーブの葉が揺れる音。それ以外、何も聞こえなかった。
「構文も好きです。方向音痴も。美味しいものを食べた時の、あの顔も。怒った時に敬語が丁寧になるところも。ヴォルニア大使の紅茶の蜂蜜が三匙だと覚えているところも」
一文ごとに、声が少しずつ震えていく。
「最初は学術的な興味だと思っていました。書簡の研究。文体の分析。でも三年目の書簡を読んだ時に分かりました。行間が詰まって、インクが滲んで、それでも一文字も乱れない書簡を読んで。この人に会いたい、と」
「いえ、正確には」
自己訂正の癖。アルマンの。
「会いたい、ではなく。この人の隣にいたい、と」
月明かりで、月明かりで、アルマンの鎖骨のあたりが上下しているのが見えた。呼吸が浅い。眼鏡を押し上げる手が、微かに定まらない。
私は何も言えなかった。
言葉が出てこない。書簡なら書ける。外交文書なら第3段落で本題に入れる。でも今は、第1段落すら始められない。
「私は」
口を開いた。声が出た。その先がない。
「十年間」
何を言おうとしている。自分でも分からない。書簡なら書ける。第3段落で本題に入れる。でも今は。今の私には第1段落がない。
「誰にも、好きだと」
言われたことがなくて。返し方が。好きの。どうすればいい。何を。
止まった。
アルマンが待っている。急かさない。
「返し方が分からない」
出てきたのがそれだった。四カ国語を話せる人間の、精一杯が。
でもアルマンは笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、少しだけ目を細めて、こう言った。
「返し方は、ゆっくり覚えればいいと思います」
「ゆっくり」
「ええ。書簡を書くのと同じです。最初は下書きから始めればいい」
なぜか、笑いそうになった。泣きそうだったのに。
「下書き」
「はい。完成稿はいつでも。僕は待ちます」
◇◇◇
バルコニーに二人で立ったまま、しばらく何も言わなかった。
オリーブの葉擦れの音。遠くで犬が吠える声。王都の夜は、辺境伯領より騒がしい。でも今は、隣にいる人の呼吸だけが聞こえた。
「明日、署名式です」
「ええ」
「自分の名前で、署名します。リーア・ラヴェンナ。辺境伯夫人ではなく」
「そうですね」
「あなたの万年筆を使ってもいいですか」
アルマンの表情が変わった。驚いている。
「あの万年筆は、あなたが最初に机に置いてくれたものですよね」
「気づいていたんですか」
「差出人不明でしたが、インクの匂いが同じだったので」
アルマンが目を逸らした。耳の後ろが、さっきより赤い。
「使ってください。もともと、あなたのために選んだものですから」
「仕事道具として?」
「いえ」
「学術的な興味で?」
「いえ。もう、その前置きは使いません」
風が止んだ。オリーブの木が静まる。
「明日、見届けてください」
「もちろん」
二人でバルコニーを離れ、廊下を歩いた。帰り道、私が間違った方向に曲がろうとしたら、アルマンが袖を軽く引いた。
「こちらです」
「ありがとう」
名前を呼ばなかった。まだ声に出せない。でも、いつか。
下書きから始めればいい、と言ってくれた人がいるから。




