表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十年の白い結婚が終わる日に、夫は初めて私の名前を呼んだ  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/12

第11話


報告書の最後の段落を書き終えたとき、アルマンがインク壺の蓋を閉じた。


アルマン。


いつから名前で呼ぶようになったのだろう。声には出していない。頭の中で。ヴィザーリ殿がアルマンに変わったのは、市場で干し無花果を半分くれた日か、栞の位置に気づいた日か、握りつぶされた書簡を渡してくれた日か。


分からない。気づいたら変わっていた。


「ラヴェンナ嬢」


「はい」


「お話したいことがあるのですが」


あの日の続きだ。市場の帰り、宿の前で言いかけた言葉。「会議の後で」と延期した、あの。


「署名式の準備のことですか」


「いえ。違います」


インク壺の蓋を閉じた手が、万年筆を持ち直した。回している。言葉を探している時の癖だ。


「バルコニーに出ませんか。少し風に当たりたくて」


仕事中にバルコニーに出たことはない。でも断らなかった。


◇◇◇


外務省のバルコニーは中庭に面している。オリーブの木が月明かりに銀色に光っていた。風は冷たくなり始めている。秋が深まっている。


アルマンが手すりに手を置いた。月明かりでインクの染みが見える。親指の付け根の、消えない染み。


「以前、あなたの書簡の構文が好きだと言いました」


「覚えています」


「あれは嘘です」


心臓が一つ、大きく打った。


「構文が好きだ、と言ったのは嘘です」


アルマンの声が、いつもと違った。穏やかさは同じだが、その下に別の温度がある。押さえつけていたものが、蓋の隙間から漏れ出すような。


「構文ではなく」


万年筆が止まった。


「あなたが好きです」


風が吹いた。オリーブの葉が揺れる音。それ以外、何も聞こえなかった。


「構文も好きです。方向音痴も。美味しいものを食べた時の、あの顔も。怒った時に敬語が丁寧になるところも。ヴォルニア大使の紅茶の蜂蜜が三匙だと覚えているところも」


一文ごとに、声が少しずつ震えていく。


「最初は学術的な興味だと思っていました。書簡の研究。文体の分析。でも三年目の書簡を読んだ時に分かりました。行間が詰まって、インクが滲んで、それでも一文字も乱れない書簡を読んで。この人に会いたい、と」


「いえ、正確には」


自己訂正の癖。アルマンの。


「会いたい、ではなく。この人の隣にいたい、と」


月明かりで、月明かりで、アルマンの鎖骨のあたりが上下しているのが見えた。呼吸が浅い。眼鏡を押し上げる手が、微かに定まらない。


私は何も言えなかった。


言葉が出てこない。書簡なら書ける。外交文書なら第3段落で本題に入れる。でも今は、第1段落すら始められない。


「私は」


口を開いた。声が出た。その先がない。


「十年間」


何を言おうとしている。自分でも分からない。書簡なら書ける。第3段落で本題に入れる。でも今は。今の私には第1段落がない。


「誰にも、好きだと」


言われたことがなくて。返し方が。好きの。どうすればいい。何を。


止まった。


アルマンが待っている。急かさない。


「返し方が分からない」


出てきたのがそれだった。四カ国語を話せる人間の、精一杯が。


でもアルマンは笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、少しだけ目を細めて、こう言った。


「返し方は、ゆっくり覚えればいいと思います」


「ゆっくり」


「ええ。書簡を書くのと同じです。最初は下書きから始めればいい」


なぜか、笑いそうになった。泣きそうだったのに。


「下書き」


「はい。完成稿はいつでも。僕は待ちます」


◇◇◇


バルコニーに二人で立ったまま、しばらく何も言わなかった。


オリーブの葉擦れの音。遠くで犬が吠える声。王都の夜は、辺境伯領より騒がしい。でも今は、隣にいる人の呼吸だけが聞こえた。


「明日、署名式です」


「ええ」


「自分の名前で、署名します。リーア・ラヴェンナ。辺境伯夫人ではなく」


「そうですね」


「あなたの万年筆を使ってもいいですか」


アルマンの表情が変わった。驚いている。


「あの万年筆は、あなたが最初に机に置いてくれたものですよね」


「気づいていたんですか」


「差出人不明でしたが、インクの匂いが同じだったので」


アルマンが目を逸らした。耳の後ろが、さっきより赤い。


「使ってください。もともと、あなたのために選んだものですから」


「仕事道具として?」


「いえ」


「学術的な興味で?」


「いえ。もう、その前置きは使いません」


風が止んだ。オリーブの木が静まる。


「明日、見届けてください」


「もちろん」


二人でバルコニーを離れ、廊下を歩いた。帰り道、私が間違った方向に曲がろうとしたら、アルマンが袖を軽く引いた。


「こちらです」


「ありがとう」


名前を呼ばなかった。まだ声に出せない。でも、いつか。


下書きから始めればいい、と言ってくれた人がいるから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ