第10話
会議室の椅子は、四カ国分と議長席が半円に並んでいた。
ヴォルニア国。セルジーク共和国。タリカ王国。メルダ公国。そしてカレルスト王国。五つの椅子に五つの国旗。窓から入る朝日が、旗の色を照らしている。
私はカレルスト王国の席についた。交渉官補として。自分の名前で。
テーブルの上に、新条約の草案が並んでいる。一ヶ月かけて書いた草案。ヴィザーリ殿と何度も推敲した。インクの匂いがまだ残っている紙。
開始の鐘が鳴る前に、扉が開いた。
ダリオ・アルヴェスが入ってきた。
軍服姿。銀の鷲の紋章が胸にある。辺境伯領の代表として出席する権利がある。個別条約の更新に関わる議題があるからだ。
ダリオが会議室を見渡した。各国の大使と目が合う。
ボリス大使が首を傾げた。
「辺境伯殿。どちら様で?」
会議室が凍った。
ダリオの顔から表情が消えた。ボリス大使は冗談を言っているのではない。本当に知らないのだ。十年間、外交書簡のやり取りをしてきた相手の夫の顔を、ヴォルニア国の大使は知らない。
「リーア殿の代理の方ですか?」
ファリド殿がそう付け加えた。悪気はないのだろう。事実を確認しているだけだ。
ダリオが唇を引き結んだ。何か言おうとしたが、言葉が見つからないようだった。軍人は戦場で言葉に困ることはないが、外交の場では別だ。
私は何も言わなかった。助け舟は出さない。それは、もう私の仕事ではない。
◇◇◇
会議が始まった。
新条約の草案を各国に説明する。通商条項、安全保障条項、領海使用条項。四カ国語で書かれた草案を、私が順番に要約していく。
ヴォルニア語でボリス大使に。セルジーク語でファリド殿に。タリカ語でブリジッタ殿に。メルダ語でドラガン殿に。
四つの言語が、私の口から流れ出る。十年間、書簡で使ってきた言葉が、初めて声になる。
各国が草案を承認した。
残る議題は一つ。辺境伯領との個別条約の更新。
「辺境伯領との通商・安全保障条約の更新期限が到来しています。各国の意向をお聞かせください」
議長が読み上げた。
ボリス大使が最初に口を開いた。
「ヴォルニア国は、現状での更新に反対します。辺境伯領との外交窓口が機能していません。過去半年間、公式書簡への回答が一通もありません」
ファリド殿が続いた。
「セルジーク共和国も同意見です。関税交渉が頓挫しており、交易の継続が困難です」
タリカ。メルダ。四カ国全てが更新を拒否した。
ダリオの顔が蒼白になっていくのが、視界の端に見えた。条約の庇護から外れるということは、辺境伯領が四カ国との交易・安全保障のネットワークから孤立するということだ。
「ただし」
ボリス大使が付け加えた。
「カレルスト王国を通じた新しい条約枠組みには賛同します。リーア殿が交渉官として対応されるのであれば」
条件つきの承認。外交の常套手段。四カ国は辺境伯領を切り捨てたのではなく、リーアを通じた新しい枠組みを求めている。
私は頷いた。「カレルスト王国として、新条約の締結に向けた交渉を進めます」
ダリオは何も言わずに席を立ち、会議室を出た。扉が閉まる音だけが響いた。
◇◇◇
会議が終わった後。
ヴィザーリ殿が執務室で待っていた。机の上に、古い革の封筒が置かれている。
「これは?」
「書庫の奥から見つけました。辺境伯家から外務省に転送されてきた書簡の束です。開封されていないものが、これだけありました」
封筒を開けた。中から、書簡が溢れた。
十通。二十通。数えきれない。
四カ国から、リーア宛に送られた書簡。感謝の手紙。季節の挨拶。新年の祝辞。子供が生まれた報告。昇進の知らせ。そして——「いつもありがとう。あなたの書簡が届くと安心します」。
全て、ダリオが握りつぶしていた。
リーアに届くはずだった返信が、一通も届いていなかった。十年間。
一通目を開いた。ボリス大使から。嫁いで二年目の冬。「リーア殿。今年も素晴らしい書簡をありがとう。あなたのおかげで両国の関係は安定しています」
二通目。ミロシュ殿から。「娘のシュテラの名前を覚えていてくださって、ありがとう」
三通目。ファリド殿から。「港の地図の件、確認しました。ご指摘の通り、北部山脈の位置が古かったです。新しい地図を同封します」
四通目。ブリジッタ殿から。「刺繍の新しい技法を見つけました。あなたなら気に入るはず」
書簡を持つ指の腹が、紙の繊維を感じなくなっていた。感覚が遠い。左の薬指の爪を、無意識に触っていた。指輪があった場所。もうない場所。
五通目。十通目。十五通目。
十年分の言葉が、一気に流れ込んできた。
感謝。信頼。敬意。あなたがいてくれてよかった。あなたのおかげで。あなたに会いたい。
十年前に届いていれば。
いや。届いていたら、何が変わっただろう。何も変わらなかったかもしれない。でも。でも、知りたかった。自分が書いた言葉が、誰かに届いていたことを。それだけでよかった。それだけで。
最後の一通を開けた。ドラガン殿から。メルダ語の丸い文字。
「いつか、あなた自身の名前で会いましょう」
奥歯の裏側が痺れた。舌の付け根が、変な形に強張って。
嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか。分からない。全部だ。全部が同時に来て。仕分けなんか。できるわけが。
ハンカチが差し出された。アルマンの手。何も言わなかった。
受け取った。何も言えなかった。
十年分。これは十年分の。
言葉が、出てこない。四カ国語を話せる人間が。一語も。
窓の外の空を見た。辺境伯領の空より狭い。でも。
この空の下で、私の名前を知っている人がいる。




