第1話
封蝋を押す手が、今朝は震えなかった。
赤い蝋が革表紙の綴じ目に溶け広がり、ラヴェンナ家の鶴の紋章を刻んだ印を押し込む。じゅう、と音がして、蝋が冷えていく。毎朝繰り返してきた動作だった。十年間、一日も欠かさずに。
引き継ぎ書の最後の一冊が完成した。
革表紙の束が、三つ。机の上に並んでいる。一冊目はヴォルニア国との通商・安全保障に関する書簡の索引と交渉経緯。二冊目はセルジーク共和国、タリカ王国、メルダ公国との外交記録。三冊目は各国の交渉担当者の性格、好み、禁句、家族構成をまとめた人物録。
誰に頼まれたわけでもない。ただ、残していく仕事に穴を空けたくなかった。
人物録の最後のページを開いた。ヴォルニア国の書記官補佐、ミロシュ・カヴァルの項。「紅茶は飲まない。コーヒーを出すこと。ただし砂糖を入れると機嫌が悪くなる。妻のナターシャは今年第二子を出産予定」。こんな情報がダリオの役に立つとは思えなかった。でも、外交とはそういうものだ。条約の文面ではなく、砂糖を入れるか入れないかで交渉の空気が変わる。
父がそう教えてくれた。もう二十年も前のことだ。
インク壺の底が見えている。十年間使い続けた真鍮のインク壺。補充用のインクはもう買っていない。もう、補充しなくていい。
その一つの事実が、奇妙なほど胸に軽かった。
◇◇◇
廊下に足音がした。
ペトラの足音は聞き分けられる。右足がわずかに重い。十年前、この屋敷に嫁いできた日から変わらない。
「奥様。朝食をお持ちしました」
扉の向こうから声がかかる。奥様。その呼び方も今日が最後だ。
「入って」
ペトラが盆を持って入ってきた。パン粥と、蜂蜜漬けの木の実。辺境伯家の朝食としては質素だが、ペトラはいつもリーアの好みを覚えていてくれた。
旦那様のお好みではなく、リーアの。
パン粥から立ちのぼる湯気が、朝の冷えた空気に白く溶けていく。辺境伯領の朝は寒い。北風の土地だから。この寒さにも、もう慣れてしまった。
というより、慣れなければ十年は持たなかった。
「荷造りは」
「終わりました。革鞄ひとつ」
ペトラが一瞬だけ目を伏せた。十年分の暮らしが革鞄ひとつに収まることの意味を、この人は分かっている。
「奥様」
「リーアでいいのよ、ペトラ。明日からは、もう奥様ではないから」
言ってから、自分でも不思議だった。声が、こんなに平らかだとは。
ペトラが何か言おうとして、やめた。代わりに盆を机に置き、深く一礼した。その背中が小さく震えていたのを、私は見なかったことにした。
ペトラに泣かれたら、自分も泣いてしまいそうで。
いや。泣くほどの感情が残っているのかどうか、正直よく分からなかった。
◇◇◇
執務室は二階の東端にある。朝日が入る良い部屋だ。
ダリオの部屋だが、ダリオが使っているところを見たことは数えるほどしかない。机の上には埃が薄く積もっている。ペトラたちが掃除をしても、使われない机にはすぐ埃が戻る。
引き継ぎ書の三冊を机の中央に置いた。
革表紙の重さが、掌に残っている。三冊で合わせて千ページを超える。ヴォルニア語、セルジーク語、タリカ語、メルダ語。四つの言語で書かれた書簡の要約と、交渉の裏にある文脈の注釈。これを読みこなせる人間が、この辺境伯家にいるだろうか。
いないことは分かっていた。分かっていて、それでも書いた。
引き継ぎ書を作ったのは、自分の矜持のためだ。「後任に不自由をさせたくない」のではなく、「私はやるべきことをすべてやった」と自分に言い聞かせるために。
隣に、十年分の外交書簡の写しが詰まった木箱を並べる。写しを取る習慣は、父に教わった。「送った手紙は相手のものになる。だが写しは、お前の記憶だ」。
木箱の蓋を閉め、立ち上がる。
廊下の奥から、女の笑い声が聞こえた。メリッサの声。この屋敷で最もよく響く笑い声。三年前にダリオが連れてきて以来、彼女の笑い声はこの屋敷の日常になった。
私が去っても、あの笑い声は残るだろう。
三年間、毎朝あの声を聞いた。最初の半年は胃の底が重くなったが、一年も経てば風の音と同じになった。感情を棚上げするのは得意だ。外交官の娘は、そう育てられる。
ただ。あの笑い声が聞こえなくなることに、ほんの少しだけ安堵している自分がいるのも確かだった。
それでいい。
◇◇◇
門の前で、一度だけ振り返りそうになった。
振り返らなかった。
革鞄を持ち上げ、門をくぐる。十年ぶりに、自分の足で外に出る。嫁入りの時は馬車だった。今日は、歩く。
石畳を踏む靴音が、妙にはっきり聞こえた。
空気の匂いが違う。門の内側と外側で、風の温度が変わった気がした。同じ北風のはずなのに、肌に触れる感触が柔らかい。
それは気のせいかもしれない。十年間、この門から外に出たことがないから、比較のしようがない。嫁入りの日に馬車でくぐって以来、ずっと門の内側にいた。外出は常にダリオの名代として。常に従者つきで。常に「辺境伯夫人」として。
今日は一人だ。従者はいない。肩書きもない。
足元が、ふわりと軽くなったのは本当だった。
馬車の乗り場まで歩く間に、ペトラが用意してくれた干し無花果のパンを半分かじった。甘い。辺境伯家の食事は豪華だったが、味わって食べた記憶があまりない。いつも書簡の返事を頭の中で組み立てながら食べていたから。
馬車に乗り込み、窓の外を見る。
ノルテ・ヴェントの街並みが流れ始めた。石造りの家々。乾いたラベンダーの匂い。北風が強い土地だ。この風の中で十年、書簡を書き続けた。
耳飾りに手を触れた。翡翠の耳飾り。母の形見。これだけは、この屋敷に来る前から持っていたもので、この屋敷の一部にはならなかった。
リーア・ラヴェンナ。
口の中で、自分の名前を転がしてみた。十年間、誰も呼ばなかった名前。「辺境伯夫人」「奥様」「お前」。それが私の呼ばれ方だった。
名前を忘れていたわけではない。ただ、声に出す機会がなかった。書簡の署名欄にも書かなかった。「辺境伯ダリオ・アルヴェス名代」。それが十年間の私の署名だった。
今日から変わる。
というより、今日から「戻る」のだ。十年前の自分に。父の娘に。
王都まで五日。馬車の揺れに身を任せながら、三日後に届くはずのヴォルニア国からの親書の返事を、誰が書くのだろう、と一瞬だけ考えた。
一瞬だけ。
窓の外で、辺境伯領の旗が小さくなっていく。風にはためく青地に銀の鷲。あの旗の下で十年、外交書簡を書いた。
私の名前は、あの旗には刻まれていない。
でも、四つの国の外交官は知っている。あの書簡を書いていたのが誰か。
それで十分だった。
というより。それだけが、十年間の私の全てだった。




