第五話 死の淵
爆撃は、予定時刻で打ち切られた。
時計を見る。
午前三時を、少し回ったところ。
無線に、簡潔な命令が流れる。
『全機、帰還を開始せよ』
それだけだった。
歓声も、安堵の声もない。
ただ、編隊がゆっくりと形を変えていく。
「帰るよ」
イチカが言う。
「……了解」
あたいは、地図の赤線を逆になぞる。
来た道。
戻るための線。
それが、こんなに遠く感じたのは初めてだった。
⸻
高度を保ち、針路を東へ向ける。
爆撃機は鈍い。
軽くなったとはいえ、百式重爆は逃げられる機体じゃない。
夜は、まだ深い。
下には海。
灯りは、ほとんどない。
編隊の数も、少し減っていた気がする。
(……帰れてない機体が、ある)
考えないようにしても、頭の隅に残る。
そうしてぼーっと考えていたそのときだった。
無線で短い言葉が聞こえた。
「……後ろ!」
ツバメの声が、鋭く跳ねた。
同時に、あの音が来る。
一定で、切れ目のない甲高い音。
さっきまで、遠ざかっていたはずの音。
「T-2……!」
イチカが叫ぶ。
背後からだ。
完全に、死角。
「急降——」
言い切る前に、衝撃が来た。
機体が、大きく揺れる。
「っ——!」
計器が、一斉に跳ねる。
機内に、焦げた匂い。
『被弾!』
ツバメ。
「左翼及び左エンジン損傷!燃料漏れ発生!」
百式重爆が、重く沈む。
速度が、落ちる。
「……レイ!」
イチカの声。
操縦じゃない。
判断を求めている声だ。
護衛は、遠い。
編隊も、もう密じゃない。
追撃されれば、次は耐えられない。
あたいは、歯を食いしばる。
勝ちたいとか、やり返したいとか、そんなことは、もうどうでもいい。
帰らなきゃいけない。
「急降下!」
「……了解」
即座に、機首が下がる。
普段じゃありえない角度で降下をしている。
しかも機体が斜めになって体が浮きそうだ。
雲が見えてきた。
真っ白で、何も見えない。
振動が、激しくなる。
計器だけが、頼りだ。
後ろで、ジェットの音が一瞬、近づいて——
そして、消えた。
「……離れた?」
ツバメが、息を詰めて言う。
「多分。雲の中までは、来ない」
来られないんじゃない。
あえて来ない。
それだけの余裕が、相手にはある。
それが、悔しくて、怖かった。
雲を抜けると夜の海が、また見えた。
警告灯は、まだ点いている。
でも、飛べる。
「帰れる......!」
あたいは、地図を握り直す。
赤線の先には、若葉高校がある。
百式重爆は、傷ついたまま、それでも前に進んでいた。
———駿河湾上空
「……なんか来てない?」
誰かが言った。
おそらく後部銃座だ。
振り返らなくても分かる。
空気が変わった。
無線に、立て続けに声が入る。
『敵機、六時方向!』
『距離、急速に詰められている!』
百式重爆は遅い。
逃げ切れる速度じゃない。
「後部銃座、射撃開始!」
どこから出た命令か分からない。
でも、全員がそれを待っていた。
次の瞬間だった。
——バババババッ。
一機じゃない。
六十機分の後部銃座が、ほぼ同時に火を噴いた。
夜空に、線が走る。
赤、白、緑。
交差する曳光弾。
撃っているのは、同じ百式重爆の後ろ側。
それぞれの銃手がそれぞれの恐怖で引き金を引く。
照準は甘い。
でも——
数だけは、圧倒的だった。
後方の空が一瞬だけ昼みたいに明るくなる。
でもそんななか敵からの射撃が始まる。
ヴォーーーーーーという音と共に弾丸が通り過ぎる音が、機体の外殻を掠めていく。
「……すごい」
ツバメが、思わず呟いた。
でも、その声には喜びはない。
これは勝つための射撃じゃない。
近づくな、という合図だ。
空間そのものを、弾で塗りつぶす。
逃げ道を作るために。
機体がガクンと揺れ姿勢が崩れる。
「なっ!?」
機体が不安定になる。
『右尾翼損傷!』
後部銃座から無線が入る。
機体がどんどん下がってゆく。
「私たち......どうなるの......?」
今まで一言も喋らなかったハナが口を開く。
そしてツバメがハナをなだめている。
「大丈夫。落ち着いてハナ」
そしてその隣ではイチカが必死に立て直そうと操縦桿を動かしている。
「くっ......レイ!急降下をすべきか?」
イチカが無線で叫ぶ。
(どうすればいい......?後ろにはジェット機が......)
「レイ!」
......いったいあたいはどうすればいいの!




