第一話 模擬戦
六限の途中だった。
チョークが黒板を擦る音が、一定のリズムで続いている。
先生の声は単調で、言葉の意味は頭に残らない。
あたいはノートに式を書き写しながら、視線だけを窓の外に向けていた。
雲は高い。
積雲が崩れずに並んでいる。
上空の風は、穏やかだ。
(今日は、空が安定しているねぇ...)
そうぼんやり思っていると声が聞こえた。
「レイ〜」
前の席のイチカが、椅子に浅く腰かけたまま振り返っている。
イチカは姉だけど、学年は同じだ。
結構仲がいい。
「今日、部活あるじゃん?」
「そうだね」
「今日は待ちに待った戦闘機での模擬戦だよ!」
「知ってる」
短い会話だった。
でもそれで十分だった。
そんなこんなでチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
笑い声や机を引く音が聞こえる。
誰かが放課後の予定を話している。
あたいは鞄を肩にかけて立ち上がる。
普通の放課後だ。
でも今日はゾクゾクしていて体が震えている。
空に上がる前は、いつもそうだ。
更衣室で制服を脱ぎ、フライトスーツに足を通す。
布が擦れる音と一緒に、身体の感覚が切り替わる。
ヘルメットを抱えた瞬間、
頭の中の余計なものが消えた。
「今日は風、問題なさそうだね」
同じ小隊のツバメが軽い調子で言う。
「乱気流も少なそうだし」
「そうやって油断するといっつも言った通りになっちゃうでしょ〜」
イチカが言って、軽く笑う。
ハナは壁際で、チェックリストに目を落としている。
視線は紙から離れない。
いつも通り、無駄がない。
格納庫の外に出ると、
夕方の空気が一気に広がった。
戦闘機が並んでいる。
塗装の擦れ、リベット、排気の跡。
どれも見慣れたものだ。
プロペラを何回か回した後にエンジンを始動する。
低い振動が、地面から伝わってくる。
「模擬戦の兵装とルールはいつも通り」
イチカの声が無線に入る。
「高度制限は八千mで当たり前だけど兵装は模擬用ね」
「了解」
短く答える。
⸻
滑走を始めると、
機体が前へ引っ張られる。
速度が上がる。
振動が、だんだん細かくなる。
操縦桿を手前に押し込む。
——浮いた。
地面が離れた瞬間、
身体の重さが一段抜けた。
高度を取る。
学校が小さくなり、空の色が薄くなる。
「戦闘開始準備完了」
「了解」
ツバメとハナの声が、順に入る。
「いいー?始めるよー!」
イチカの声と共に模擬戦が始まる。
無線が一斉に静かになり、代わりにエンジン音が前に出てくる。
風切り音が、ヘルメットの内側で低く唸る。
近い。
右上斜め後ろ。
反射的に視線を動かすと、
太陽光を反射して、機影が一瞬だけ見えた。
おそらくツバメの飛燕だ。
距離は、詰められている。
このまま上昇すれば、背後を取られる。
あたいは操縦桿を右に倒し、そのまま前へ押し込んだ。
機首が落ちる。
視界が一気に回転し、空が流れる。
急降下だ。
身体が浮く。
腹の奥が軽くなる。
血が頭のほうへ引き上げられていく感覚。
視界の縁がほんの少しだけ暗くなっていく。
嫌じゃない。
むしろ......心地がいい。
背中から肩にかけて、力が抜ける。
重力が一段、軽くなったみたいだ。
操縦桿を握る手が、自然に馴染む。
余計な力が、消える。
あたいは、この瞬間が好きだ。
落ちているのに、
空に預けられている感じがする。
身体は軽い。
頭は冷えている。
——そろそろ気絶しそうだからやめよう......
そう判断して、あたいは次の操作に入った。
「レイ。今なら、行けたよ」
ツバメの声が入る。
——確かに、位置関係だけ見れば行けるだろう。
「でも行けなかった。行ったら撃墜されてた」
だからそう返した。
「え?」
ツバメの声が、少しだけ跳ねる。
「分が悪いから」
言葉にすると、それだけだった。
視界の端で、ツバメの機体が前に出る。
追えば、取れる。
一瞬なら、勝てる。
でも、
高度が下がりすぎている。
エネルギーも足りない。
ここで無理をすれば、
次の一手がなくなる。
「離脱しよう」
操縦桿を左手前に引く。
機首が、ゆっくりと上を向く。
機体は左に斜めっていった。
少しの沈黙。
無線には、風の音だけが残った。
その静けさの中で、
あたいは一瞬だけ、振り返る。
視界の端。
ツバメの機体が、わずかに遅れて軌道を修正している。
距離、角度や相対速度を元に考えると...
——イケるな。
照準線が、飛燕の胴体を横切る。
そのほんの一瞬のうちに射撃をした。
「……ツバメ撃墜!」
声は、普段と変わらなかった。
間を置いて、ツバメが息を吐く音が聞こえる。
「……はいはい。やられた」
少しだけ悔しそうな声。
「私もレイとおんなじように急降下すれば後ろ取れたのに...」
「だね」
それだけで、十分だった。
模擬戦終了の合図が送られる。
そうして五分程で滑走路が見えた。
———さぁ着陸だ!
「滑走路視認、フラップワンファイブ、ギアダウン」
そう言ってゆっくりと機首を下げて降下していった。
タイヤが滑走路を捉えた瞬間、
いつものつまらない世界に戻ってきた感じがした。
減速をして誘導路に入った。
長い......とても退屈だ。
そうして一キロ程を滑走して格納庫が見えてきた。
「操縦桿を捻って...と」
そうして格納庫前に機体を止めてエンジンを停止した。
回転音が、ゆっくりと消えていく。
そして、風防を開けて外へ降りる。
最終チェックが終わり部室に戻るとヘルメットを外しながら、ツバメが話しかけてきた。
「そういえばどうして行かなかったの?」
「あの時は運動エネルギーが足らなかったから」
「そう...」
「まぁ上昇力はこっちの方が上なんだろうけどね」
「そうだね。零戦は旋回戦が強いからあそこでドッグファイトに持ち込んでも良かったね」
「まぁでも高度六千五百あたりだと要撃機の飛燕の方が強い気がするけどねぇ...」
そう言うとそれ以上彼女は何も言わなかった。
⸻夜。
格納庫の天井は高い。
戦闘機が、静かに並んでいる。
あたいは一度だけ、空を見上げた。
今日は模擬戦だった。
つまり負けても、死なない。
「実戦なんて起きるのかねぇ......」
そう言って独り言を言いながら帰路についた。




