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季節もの

ぐうの音も出ないほど白で埋め尽くしてやる日 aka ホワイトデー

作者: 上条ソフィ

 ホワイトデーというのは、何とも微妙なイベントだ。

 とおるは他人事のように、目の前に並ぶお菓子たちを眺めていた。


 休日の昼下がり。少し前まではバレンタインのチョコレートで埋め尽くされていたであろうデパートの地下は、今やホワイトデー特集とひな祭りの飾り付けが混在する、ちょっとしたカオスになっている。

 よく言えば、和と洋のマリアージュといったところだろうか。


 透だって好きでこんなところに来ているわけではない。同棲している彼女に、ホワイトデーのお返しを買うのに量が多いから付き合ってよと無理やり連れて来られたのだ。

 要は荷物持ちってやつ。そのこと自体に特に不満は無い。ないのだが。

 彼女がホワイトデーのお返しを買うというのが、そもそもおかしな話ではある。

 本来であれば、ホワイトデーは男から女に物を贈るイベントだ。ただ、主軸として動くべきであるはずの男には、理解しがたいイベントである。


 ホワイトデーだからといって、白くて甘いものでいいんだろうとマシュマロなんかを渡そうものなら、女子たちからブーイングがおきる。

『そういうんじゃないんだよ、あんなに可愛いチョコレートをあげたのに、これかよ』と、にこやかに笑っているはずの目がなじってくるのだ。

 キャンディについてもあれはOKで、これはNGなど細かくあるらしい。


 だから、男に任せておくと碌なことにならないと、女子が女子にあげるお菓子を買いに来る、というおかしな事態が発生する。……お菓子だけにね、なんて。


 なんでも、彼女の勤め先の営業のやつらが、取引先でもらってきたバレンタインのお返しをホワイトデーに持っていかなければいけないらしい。男が選んでくる菓子なんて微妙なものが多いから、女子が代わりに買ってくるのが彼女の会社では習わしになっているのだそうだ。

 その役目が今年は彼女に当たった。


 お菓子くらい自分で買ってこいよ、なんて偉そうなことをもちろん透は言えない。なぜなら透の会社でも、事務方の女性社員たちが透にホワイトデーのお菓子を持たせてくれるからだ。

 気分は、初めてのお使いをする子供……いや、どちらかと言うと回覧板を回すように母親に言いつけられた子供の方が近いか。

『いい? ちゃんとにご挨拶するのよ。途中で寄り道して来ちゃだめよ。振り回したりして汚さないように気をつけるのよ』と言い含められた営業たちは、神妙な顔でキラキラしたお菓子の紙袋を受け取り、自分の営業バッグよりも数倍気を遣って出かけていく。

 時々、地味なスーツに似合わないファンシーな紙袋を持って歩くサラリーマンを見ると、お互い大変ですねと目で語りたくなる。


 バレンタインで取引先からもらってきたチョコレートは、その大半が会社の女性社員の腹の中に収まるのだから妥当といえば妥当な役割分担。……だと言えないこともないが、男がそんなことを口にしたら最後、女子から総スカンを食らうのは目に見えているから、透もありがたく、女性たちのお眼鏡にかなったスイーツを頂戴する。

 そして取引先のお世話になっている方々に、僕が選びましたよという体でお渡しする。そのお菓子の評価が営業の評価にも繋がるとなれば、男女ともガチである。


「どっちにしようかな……どっちがいいと思う?」

「こっちの大きい方でいいんじゃないの?」

 透は適当に大きめの缶を指差した。大は小を兼ねるというし、でかい方が文句を言われないだろうという理屈だ。


「そうなんだけどさ、こっちだとちょっと予算オーバーなんだよね。あそこの取引先は大したものをくれなかったから、やっぱりちゃんとしたものをくれたところとは格差をつけないと。なんか格安サイトで輸入物を買ったみたいなんだよね」

「……そうか」

 そんなところまでチェックしているのかよと驚きつつ、彼女の言うことには否定をしないというのが、円満な同棲生活を送る第一ヶ条だ。

 しかしそれにしても、よくもこんなに長いこと同じようなお菓子を見て飽きないものだ。


 早々に飽きてきた透は、少しずつ彼女から距離を取ろうとして後ろに後ずさりしていった。が、彼女がくるっと後ろを向いた。


 こいつは後ろに目でもあるのか?


 透は『だるまさんが転んだ』のようにフリーズした。

「もうちょっとで終わるから待っててくれる?」

 彼女は子供に言い聞かせるようににっこりと笑った。だが、目が笑っていない。透は無言でうなずいた。


 ◆◇◆◇


 彼女との関係は少し微妙なところにある。付き合いだして五年、同棲して二年。彼女は中堅の会社に勤めているOLで、透は別のこれまた中堅の会社に勤めている営業だ。

 出会いは特になんてことない、合コンで知り合った。お互い違う大学に通っていたが、おんなじサークルに入っていたことがわかったのだ。そのサークルは、一応テニサーではあったが、ガチにテニスをやるやつ、飲み会にだけ参加しているやつ、普段の飲み会には来ないけどイベントにだけ来るやつなど、みんなのびのびとゆるい感じで活動していた。

 透も彼女もなんとなく参加している組で、知り合いの知り合いの話をしたり、クリスマスや新年会の話をしているうちに仲良くなった。


 たくさん食べ、たくさん飲み、たくさん笑う彼女を好きになるのにそう時間はかからなかった。指通りの良い長い髪、すべすべの肌、透の腕の中にすっぽり収まる体は、いつも透の心を掴んで離さない。

「前世でもきっと付き合っていたんだよ」なんて星占いを見ながら言う彼女に「そうかもな」なんて返すくらいには相性がいいと思っている。時々喧嘩もするけど、お互いのことを嫌になった事はない……と思う。少なくとも透は。


 いわゆる適齢期というものを迎えた同い年の二人ともなれば、次に期待されるのは『け』から始まるイベント。時々、薄氷を踏むような場面が出てくるようになったのはいつ頃からだろうか。同棲を始めた頃か。いやもう少し前からだろうか。


 つい最近でいうと、先月のバレンタイン。

 会社で配るバレンタインのチョコレートを買いに行くから付き合ってと、これまたデパートに借り出された透は、お菓子といえば地下だろうと下りのエレベーターに乗り込もうとしたところで、彼女に腕をぐいと掴まれた。

「バレンタインの特別会場は、こっち」

 彼女が指さしたのは、デパートの上の方の階だった。会場についてみると、そこは人でごった返していた。


 当然といえば当然だが、九割がたは女性客だ。残りの一割は透のように誰かの荷物持ちとして駆り出されたであろう男や、売り子の男たち、あとはパティシエ? だかショコラティエ? だか、とにかく真っ白い制服を着た彫りの深い異国の男たちだ。爽やかに笑って、にこやかに女性客にチョコレートを売っている。女性客はそこに吸い寄せられていく。


 あまりの人の多さに圧倒された透は、早々と隅っこのベンチに避難して、スマホをいじりながら待機することにした。

 ベンチの横のテーブルに置いてあるチョコレートの祭典のチラシを、見ることもなく眺める。

 チョコレートと同じくらい、いやそれより大きくデカデカと写真が載っているのは、ベルギーだのフランスだのイタリアだのから来た、ショコラティエと呼ばれるチョコレートを作る専門職の男たちらしい。

 にこやかにカメラに向かって微笑む男たちはイケメンと言って差し支えないほど整った顔をしているが、思わずアイドルかよとツッコミたくもなる。

 どんな男が作ろうが、味は大して変わらないだろうなどというのは無粋というものだろう。


 しばらくして、紙袋を両手に抱えた彼女が帰ってきた。

「見て! 見て! これ! この店のショコラティエがサインしてくれた。ブリュッセルから来たんだって」

 頬を上気させた彼女が透に見せたのは、長方形の箱に入ったチョコレートだった。箱の上に手書きらしい文字が躍っている。何と書いてあるかわからないが、おそらくこれがそのパティシエの名前なのだろう。


「すごくない? めっちゃかっこよかった。笑顔がまぶしくて歯がめっちゃ白かったの! この箱は取っとこう!」

 彼女は胸にその箱を抱きしめた。


「なんだよ。サインくらい俺がいくらでもしてやるのに」


 透がからかいながら彼女にそう言ったその瞬間、彼女の体が強張り、確実に周囲の気温が二度は下がった……気がする。


「……私が透にサインしてほしい書類は一枚だけだから」

 彼女は低い声でつぶやいた。

 彼女が言っている『書類』というのはもちろん、あれのことだ。

「……」


 やっちまった。


 透は頭の中で頭を抱えるという器用なことをした。つい先日あったことなのに、この容量の小さい頭はすっかり忘れていたのだ。あの『事件』のことを。


 自宅のテーブルにいつの間にか結婚情報誌が置かれているというのは、都市伝説だと思っていた、今の今までは。だが、つい先日自分の身にも同じ事件が起こったのだ。

 透が仕事から帰宅してリビングに入ると、目についたのはテーブルの端にさりげなく置かれたある雑誌。透でも知っているくらい有名な結婚情報誌だった。


 真っ白なウェディングドレスを着た美女が満面の笑みでこちらを見ている。

 彼女のプラチナブロンドの髪の後ろには、突き抜けるような青空。奥に見えるのはヤシの実が数本と、真っ青な空と同じくらい青い海。


 タイトルは『実証! 海外ウェディングの本当のところ』。


 触ることもできず、どけることもできなかった透は、それがあたかも存在しないかのように振る舞った。そして都市伝説にありがちなように、それはいつの間にか消えてなくなった。(……嘘です。本棚の一番端にこっそりと置かれています。ちなみに、いつの間にかどんどん増えていっています。スライムかっ!)


 この微妙な雰囲気を払拭するため、透は一大決心をした。今後二度と、いや、一生文句を言われないように、このホワイトデーは、白で埋め尽くしてやろうじゃないかと。その日から、透は着々と準備を始めた。


 俺の本気をなめるなよ!


 ◆◇◆◇


 ホワイトデー当日の朝。

 透は彼女より早く起きて、リビングの遮光カーテンを音を立てないようにそっと開けた。

 透の念が強かったからかどうかはわからないが、屋外は真っ白の世界だった。バルコニーにも、近隣の家の屋根にも、道路にも、雪が降り積もっている。

「ああ……」

 透は思わずため息をついた。平日だというのに、しかも三月も中旬だっていうのに、昨夜から記録的な大雪が降ったのだ。


 昨日の日中はまだどんよりとした曇り空だった。が、どんどん雲は厚くなり、日が落ちたと同時に気温はカクンと落ちた。パラパラと降ってきた雨はみぞれになり、やがて雪に変わるのにそれほど時間はかからなかった。夜のうちに止むかもという楽天的な希望を裏切って、雪は夜中降り積もっていたようだ。


 諦めてテレビをつけると、どこのニュースチャンネルでも大雪情報というテロップがデカデカと表示されている。各地でどれだけ雪が降り積もっているかを、レポーターが興奮気味に話している。

 テレビの下側には、交通機関遅延のお知らせが次々と流れてくる。

「ああ……」

 透は、もう一度深いため息をついた。


 よりによってこんな日に!

 透はちっと舌打ちをした。


 パタンと寝室のドアの開く音がする。

「おはよう。今日は早いね。てか寒い。なんでエアコンつけないの?」

 パジャマ姿の彼女が腕をさすりながら、エアコンのスイッチを入れた。

  透はそこで初めて自分の体が冷えていることを感じた。違うことに気を取られていたから気がつかなかったのだ。

「嘘、マジで。電車遅れまくってるじゃん」

 彼女が不満な声を出した。

「信じられない。今日、外回りなのに。あんなばかみたいに重い資料を持ってこの雪の中をヒールの靴で歩くなんて、何の修行だ。大体、女は外回りに行くときはヒール靴を履くこと、なんてわけわからない決まり事、江戸時代かっつうの。鎖国中か」


 透は黙ってそれを聞いた。ここで、江戸時代にヒール靴なんてないだろう、などというツッコミは決してしてはならないのである。

 かけるべき言葉は、「大変だな。滑らないように気をつけろよ」だ。


 彼女は、ブスッとした顔をしつつも、無言で頷いた。どうやら及第点をもらえたようである。

 セーフ。今日は彼女の機嫌を損ねてはならない。


 それから、二人とも言葉少なげに準備を始めた。

  彼女も透も朝に強い方ではない。透だって、いつもならもっとダルそうに、のそのそと準備をしているはずだ。でも今日はそんなことは言ってられない。


 なにせ、白で埋め尽くす日 aka(またの名を) ホワイトデーなのだから。


 妙にテンションが高く、妙に無駄な動きが多い彼氏を怪しんだ彼女が「どうかしたの?」と聞いてきた。

「や、何でもない」

 透は必要以上に早口になり、さらに目を泳がせるという、やましいことがありがちな人のやりそうな典型的な行動をとってしまった。彼女の目がすっと眇められた。

 危険を察知した透は、慌ててリビングの戸棚に隠しておいた物を取り出すと、彼女の胸に押し付けた。

「これ、ホワイトデーのお返し」


 白く柔らかく、ふわふわのお菓子。一口サイズのそれは、容量にして一リットルほどの透明な瓶にたっぷりと詰められている。

「ありがとう、これ……?」

「マシュマロ」

「……マシュマロ」

 何ともいえない微妙な顔をしながら、彼女はマシュマロを見ている。

「えっと、……ありがとう?」

 疑問系なのは、何で今? というのと、なんでこれ? という言葉を言外に含んでいるからだろう。透はそれに気がつかないふりをして続けた。

「綿あめもあるけど、今食う?」

「綿あめ……は、今はいいかな。ありがとう」

 納得しないながらも嬉しいと答えてくれる彼女に、もう少しいけるかと踏んだ透は、さらに続けた。


「キシリトールのタブレットもあるけど、食う?」

 さすがに彼女の眉間にしわが寄った。

「キシリトールのタブレット? なんで?」

「白いから。すっとしてお口爽快だぞ」

 透はそれがさも当然の答えだというように、きっぱりと言い切った。


 口を開いて閉じた彼女が何かを言い出す前に、透は戸棚からキシリトールのタブレットを取り出して彼女に渡した。ついでに綿あめも押しつける。

 何度か無言で瞬きをしていた彼女は、「私、先に出るね。道路が凍結して滑って転んだら嫌だから」とだけ言うと、キシリトールのタブレットを鞄に突っ込んで玄関に向かった。その後を慌ててついて行った透は、靴を履いている彼女の背中に向かって話しかけた。

「今日俺が夕食作るから」

「今日は私の当番じゃなかったっけ?」

「いや、俺が作る」

「……そう?」

 釈然としない顔をしながらも、彼女は分かったと言うと玄関を出ていった。


 ドキドキドキドキ。

 やべ、今のは結構危なかったな!

 玄関の扉が閉まると、透はやっと詰めていた息を吐き出した。


 ダイニングテーブルには、彼女が置いていった白いマシュマロと白い綿あめが無造作に置いてある。


 白いマシュマロは比較的簡単に見つかったが、綿あめはなかなか見つからなかった。そもそも綿あめというのは、縁日などで食べるものであって、スーパーなどに常にストックしてあるお菓子ではない。何軒もスーパーをはしごして見つけられなかった透は、こりゃ綿あめを作る機械を買わなければいけないか? とまで思い悩んだ。


 だが今の時代、たいていのものはネットで売っている。なんと綿あめ専門店のサイトを見つけたのだ。透がイメージしている通りの白いふわふわの大きい綿あめはバスケットボール大で、その道何十年の職人さんが全て手作りで作っているらしい。オーダーメイドで色をつけることもできるが、透は白一色でお願いしますと頼んだ。結果として送料の方が高くなってしまったか、透は非常に満足している。彼女も夜になったら食べるだろう。

 透ははっとして時計を見た。いつも家を出る時間はとっくに過ぎている。

 やばい!


 鞄を掴んで駅まで走ろうとしたところで、二度ほど滑って転びそうになったのは仕方がない。雪がめったに降らない地域に住んでいる人間は、凍った地面の歩き方などわからないのだ。

 それに透は怪我などしている場合などではない。本番はこれからなのだから。



 何とか午前中の業務を終わらせた透は、食堂でスマホを見ながら定食を食べていた。唐揚げをほおばりながら唸る。

「どうした?何か悩み事か?」

 先輩が隣に座って透に聞いてきた。

「いや、今日食事当番なんすよ。どうしようかなと思って」

「お前、彼女と同棲してるって言ってたもんな。ちゃんと飯作ってて偉いな。俺は嫁にしょっちゅう怒られてる。『あなたは何の家事もしない』って。俺としてはいろいろやってるつもりなんだけどな」

「俺もしょっちゅう怒られてますよ。カロリーの高いものばっかり作るなとか、肉焼くだけで料理したなんて思うなよとか」

 透は乾いた笑いをこぼした。


「どうしてもワンパターンになっちまうよな。肉焼くだけでも結構大変だと思うぞ。それで今晩の夕食に悩んでるってわけか?」

「そうなんです。今夜は気合入ってるんで、俺」

「おっなんだ? ついにプロポーズでもするのか?」

「……」


 透の微妙な間を感じ取った先輩は、慌てて付け加えた。

「そんなに焦ることでもないしな」


「今日はホワイトデーですからね、彼女さんの機嫌を取っておかないといろいろ面倒くさいからじゃないですかね」

 さりげなく会話に入ってきたのは透の後輩だ。


「ホワイトデー?……ああ、今日だったっけ? 三月の……今日は一四日か、すっかり忘れてた」

 先輩が、なるほどとうなずいた。

 一般的な男の、一般的な反応だ。普通の男は、ホワイトデーなんて覚えちゃいない。彼女にせっつかれた人間だけが、重い腰を上げて何かを買いに行く日で、何かを渡す日なのだ。


「僕は今夜はホテルのディナーに行きますよ」

 後輩がドヤっとして言った。

「お前、年度末に余裕じゃねえか」

「いや、余裕じゃないですよ。今週の頭まですっかり忘れてて、慌てて調整しましたから。ほんとっす。仕事は問題ないっす。レストラン予約しておいたからって言ったのも昨日だし。先輩は何を作るんですか?」

 先輩に凄まれた後輩は透に話を振ってきた。


「そうめん」

 透は米をかっこみながら言った。


「そうめん?」

 先輩と後輩の声が重なった。


「そう。そうめんが冷たいままだと彼女が文句を言いそうだから、これをなんとかあったかくすればいいと思うんだけどさ。なるべく醤油は使わない方向でレシピを検索してもあんまりないんだよ」


「あったかいのはにゅうめんって言うんですよ」

 後輩は親切に訂正した。


「そうか」

 透は頷いた。


「……なんでそうめんなんですか?」

 ツッコミ待ちだと思った後輩は聞いた。


「白いから」

 透は答えた。


 それ以上待っても話が続かないと悟った後輩は続ける。

「えっと、白いからそうめんなんですか?」

「そう」

 透は最後の唐揚げを口に頬張った。


 数日前、白い食べ物って何だろう? と考えながらスーパーで買い物をしているときに、そうめんを見つけたのだ。

 頭に電球が灯る瞬間とは、こういうことを言うのかと思った。


「お前、変わってるな。白い麺類って言ったら、普通最初に思い浮かぶのは、うどんだろう」

 先輩が――なんとうどんを啜りながら――変な生き物を見るように透を見た。


「……うどん?」

「そうだろう、なんでそんな驚いた顔してこっち見てるんだよ」

「先輩……天才!」

 透は箸を置いて、先輩の左手を握った。


「ははっ、そうか? そうかもな」

 先輩はまんざらでもないように笑っている。


 白い食べ物といえばうどんがあった。

 なんで気づかなかったんだ。そうめんのレシピねぇなとひたすら検索をかけていた時間を返してほしい。


「どうせだったら、トッピングも白で統一したらどうですか? ほら、かまぼことか」

 後輩が提案する。


「かまぼこか。それは俺も考えたんだよ。あと何かの野菜を入れればいいかなって思ってるんだけど」

 野菜が入ってないと彼女が怒るのだ。炭水化物だけじゃ太るでしょっ!? と。


「白い野菜か。長ネギの白いところでいいんじゃないか?」

 先輩もアイデアを出してくれるらしい。


「いいっすね! あとは……」

 透は宙を見た。

 先輩と後輩も目線を上に漂わせている。

「もやし」

「白菜」


 順番に白いものを言い合うゲームが始まった。


「大根」

「大根か。そしたら、白カブ」

「うーん、寒天!」

「先輩それ、厳密には白くないっすよ」

「そうか? 寒天て白いイメージあるけど」

「それは火を通す前です。火を通すと透明になるんですよ」

 ドヤとした顔をして透は言った。

 彼女が以前ダイエットにと、寒天ヌードルというものにハマっていたのだ。それに付き合わされたことがある透はしっかりと覚えている。


「お前、物知りだな。じゃあ、卵の白身」

「ああ! 言われた! あとは白ゴマくらいしか思い浮かばないです」

 後輩は眉を下げた。


「もう十分だ、ありがとう。これで完璧な夕食が作れる」


 男三人は、やりきったという顔でうなずき合った。


「それは、ほんっとうにやめておいた方がいいと思う。彼女きっとキレるわよ」

 あきれ返った声で話しかけてきたのは、新人のときにお世話になった透の先輩の女性。今でも頭が上がらない頼もしい姉御だ。


「そうですか? 僕たちの渾身のアイディアなんですけど」

 後輩はわざとらしく驚いた。

 お調子者の後輩が悪ノリしているだけだということは、透も十分にわかっている。

 でも素晴らしいアイディアだと思ったんだけどな。


「もっとあるでしょう。今日みたいに寒い日にふさわしい、温かくなる白いものが」

 姉御はやれやれというように頭を振っている。


 温かくて、白くて、寒い日に食べたいもの。


 三人は腕を組んで考えた。

「あっ!  俺はわかっちゃった」

 先輩は得意げな顔をしてにやっと笑った。


「いいか、白くて温かくて寒い日に食べたいもの。それはズバリ!」

 先輩が人差し指を立てて言葉を区切った。


「それは、ズバリ?」

 透と後輩は身を乗り出す。


「鍋だ。それも豆乳鍋」

 先輩はきっぱりと宣言した。


「豆乳鍋! 先輩、天才や!」

 後輩が手を叩く。


「いや本当それ全然気づかなかったわ、先輩さすがです」

 透もお見事と先輩を拝んだ。


「いやあ、それほどでも。俺はあんまり好きじゃないけどな。女子は好きだろう、豆乳鍋。ヘルシーで、ソイパワーがうんちゃらなんだろ」


 透も同意した。

 女子は好きらしいけど、透もあまり好きではない。ぼやっとした味がするというか、味がないというか。決してまずくはないが、上手くもない。微妙という表現がぴったり合う。それが、豆乳鍋の印象だ。


「豆乳鍋なら、具材は豆腐とかもいけるんじゃないですかね」

「そうだな。あとはさっき言ったネギとか大根とかの白い野菜がそのまま使えるだろう。女子は野菜野菜ってうるさいから」

「はんぺんもいけるかも」

「きりたんぽとか」

「ホタテ」

「餅はきりたんぽとかぶるか。じゃあ、白身魚」

「あ! えのきって真っ白じゃないっすか!?」

 おおー! と先輩と透は後輩を見た。


「くそっ、もう何も思い浮かばない。いっそ隠し味に、ヨーグルトとか。女子好きだろ。ヨーグルト」

「先輩、それもう闇鍋っすよ」


 はっはっはと男三人は笑った。


「違うっ!」

 姐御が水の入ったコップをがたんとトレーに置いた。


 男子三人はポカンとした顔をして、姐御を見た。


「鍋なんていつでも食えるわ! オシャレとまでは言わないけど、もっと味がしっかりしてて、温まって、作りようによっては見栄えがいいものがあるでしょうが!」


 なんだ? と、男はお互いの顔を見合った。

 三人とも全くわかりませんと顔に書いてある。


 姐御は、はぁーと重いため息をついた。


「シチューよ。ホワイトシチュー。冬の定番中の定番でしょうが。今日は寒いから、冬括りでいいじゃない」


「シチュー」

「ホワイトシチュー」

「そんなものもあったな!」


 男三人は目を見開いた。


「さすがっす、姐御! さすが女子! 目の付け所が違う!」


「あんたたちね……」

 脱力しながらも、女子の先輩はホワイトシチューに入れても違和感のない白い具材を教えてくれた。


「それでも、半半の確率で彼女は怒ると思うけどね」という不吉な予言を最後に落としていったが。


 ◆◇◆◇


「さてと、」

 透はキッチンに入って、腕まくりをした。

 必要な材料は全てスーパーで手に入れてきた。


 ホワイトソースを作ろうなんて生意気なことを考えないで、市販のホワイトシチュー用のルーを買ってきなさいという姐御の教えに従ったから、準備はばっちりだ。

 むしろ、ホワイトソースは自作できるというのが初耳なくらいだ。


 ジャガイモの皮をむいて、適当な大きさに切る。

 涙が出るのをこらえながら、玉ねぎを切る。

 カブも適当に皮をむいて、鍋に突っ込む。

 そんなに広いキッチンではないから、切った具材は次々に鍋に放り投げていく。水を適当に入れてグツグツと煮る。

 要は、火が通ればいいのだ。

 肉はホワイトミートの代表格の鶏肉だ。フライパンで焼き目をつけて、なんて面倒くさいことはしない。


「いいこと? 絶対に、絶対に、もやしなんかを入れようとは思わないことよ」と姐御に念押しされたので、もやしは泣く泣く諦めた。

 切らなくていいし、ボリュームもあるし、安いし、かさ増しになるし。いいアイディアだと透は思ったのだが。


 何となく火が通ってきたなと思ったら、ホワイトマッシュルーム(そんなものがあるなんて初耳である)を適当に切って入れる。


 ついでに、ソーセージコーナーにあったドイツの白いソーセージもぶっこむ。


「えーっと、なになに? 具が煮えたらホワイトシチューの素を入れて、よく溶かして、もう少し煮て、最後に牛乳を入れればいいんだな?」

 ルーの裏側に書いてある手順を読みながら、楽勝じゃないかと透は自分の手際の良さに満足した。

 セットしておいた米も、いい感じの時間に炊けそうだ。もちろん白米だ。パンは却下である。


 シチューをかき混ぜながら、透はこれからの手順を頭の中で反芻する。

 最重要事項は、彼女をキレさせないようにすることだ。

 そして、キレさせないように注意しながら、できるだけ多くの白いものをぶっ込んでいくということ。

 白いものは多ければ多いほど良い。が、それで彼女がキレたら、今までの苦労は全て無に消えてしまう。

 そのさじ加減がな……どうかなと思いながら、透は『白いものたち』を隠しているリビングの戸棚をチラリと見た。

 今朝、綿あめとマシュマロと、キシリトールタブレットを取り出したあの戸棚だ。


 ふっ。無造作に開けているようで、実は中にもまだいろいろと隠れているんですよ。

 怪しまれないコツは、なるべくさらけ出すこと。

 隠したいものほど、大っぴらに見せておくこと。

 昔読んだミステリー漫画に、カバンの中に殺した男の生首を入れていた話があった。そこまでとは言わないけど、要は堂々としていれば意外と大丈夫だってことだ。


「ただいまー」

 玄関のドアの開く音がして、透はビクッと飛び跳ねた。

「あれ、今日早いね? どうしたの?」

 寒さに頬を赤くしながら、彼女がリビングに入ってきた。


「仕事が早くカタがついて」

 嘘だ。今日はこの日のために、二時間早帰りをしている。


 俺の本気をなめるなよ! 年度末がなんだ!


「うーん、いい匂い。今日のご飯、何?」

「ホワイトシチューだよ」

「わー、嬉しい。今日めちゃめちゃ寒かったから、温たまるものが食べたいなって思ってたんだ。ありがとう」


 姐御、ありがとう。あなたは女神だ。

 透は心の中で手を合わせた。


「何か手伝う?」

「や、大丈夫だから、座ってゆっくりしたらいいよ」


 首をひねりながらも、彼女は着替えるために寝室に向かっていった。


 ドキドキドキ

 小心者の俺が、やり遂げられるだろうか。いや、できる。俺はやればできる子。やればできる子。そう、やればできる、と心の中で繰り返しながら熱々の鍋をぐるぐるとかき混ぜていたからか。跳ねたシチューが指にかかり、「あっっちい!」とうっかり鍋をひっくり返しそうになった。


「わー、美味しそう……」

 テンションが微妙に上がりきらない声で彼女が言った。

 ダイニングテーブルに置かれているものを見ているのだろう。


 テーブルに並べられているのは、白い食材だけで作ったもの。

 ホワイトアスパラガス(ネットで調べたところ、今はシーズンから外れているということで、缶詰のもの)

 冷奴

 らっきょう

 大根サラダ

 である。あとはメインのホワイトシチューと白米を置く予定。


「えっと、お豆腐は醤油いるよね」

 彼女がキッチンに入りそうだったので、透はそれを手で制して席に座らせた。


「今日の冷奴は塩でと思って」

「塩?」

「そう。この前沖縄に行った人の土産で、なんちゃらかんちゃらっていう塩をもらっただろう。天然のやつ。あれを使おう」

「……うん」


「それと、ホワイトアスパラガスはマヨネーズで食うから。大根サラダも」

 透は有無を言わずに言い切った。


「……わかった。ホワイトシチューにブラックペッパーはかけない。……んだよね、きっと」

 無言で首を振った透に、彼女はさすがに今日の趣旨を理解したらしい。

 彼女が決定事項の確認といったふうに言ったそれに、透は無言でうなずいた。


 これは二人が同棲を始めたときに決めたルールの一つである。

 家事は交代制、そしてお互いの料理に文句はつけないこと。

 育ってきた環境が違うから、食べ物の好みも慣れ親しんだ味も違う。だからお互いの料理は文句を言わずに食べる。

 もし、自分流の料理が食べたかったら、自分が当番のときに作ればいい。

 幸いなことに、今まで食に関する喧嘩はしたことがない。


 気を取り直していただきますをした彼女は、シチューをスプーンですくって口に入れた。

「うん、美味しい」

 味には特段の問題はないようだ。


 こうして穏やかな夕食が過ぎていく。

 後片付けもいつもだったら一緒に行うが、今日は彼女を椅子に座らせた。

「たまにはゆっくりしなよ。デザートもあるよ。食う?」


「あらやだ。今日はいたれり尽くせりじゃない。ありがたくいただきます」

 彼女は嬉しそうに笑った。


 透は、すかさず冷蔵庫と冷凍庫から、四つの品を取り出してきた。

「はい、どうぞ」

 それを四つ並べて彼女の前に置く。

 右から順に、牛乳プリン、杏仁豆腐、パフェ、バニラアイスクリームだ。


 彼女のこめかみがピクリと引きつったが、透はそれを見て見ぬふりした。


「真ん中のやつは……多分、パフェだと思うんだけどさ、パフェって普通、フルーツとか入ってない?」

 さすが女子。めざとい。


「抜いた」

 透は正直に告げた。

「抜いた?」

 彼女がおうむ返しをする。


 フルーツなどという彩り鮮やかなものが入っていたら、白のコンセプトが崩れてしまう。

 だから、上に乗っていた真っ赤なチェリーも、みかんもブドウもコーンフレークも全て抜いたのだ。虫食い状態になってしまったのは仕方がない。


「……なるほど。で、このアイスクリームはもちろん、バニラアイスなんだよね?」

「そうだ」

 もちろん某有名メーカーのものだ。


「えーっと、せっかくだからアイスクリームをいただこうかな」

 彼女はぎこちない笑みを浮かべながら、アイスクリームを手に取った。


 残りのものを冷蔵庫にしまった透は、彼女のためにドリンクを作った。

「はいどうぞ」

「…………ありがとう」

 彼女の声が一段低くなっている気がするのは、透の気のせいだろうか。

 透が彼女に差し出したドリンクは、ホットミルクだ。


「あと、チョコレートもある」

 某有名チョコレートメーカーの丸いホワイトチョコレートをホットミルクの隣に置く。

 キャンディのような包み紙をわざわざ一枚一枚外して、白い皿にぎゅうぎゅう詰めに盛ったのだ。


 彼女が無言になったのを横目で見ながら、透は戸棚から白いものたちを取り出した。

 今なら勢いで押せる。そう踏んでのことだ。


「プレゼントがある」

 透が最初に取り出したのは、ポケットティッシュの四つ入りパックとマスクだ。ポケットティッシュは柔らかいふわふわのやつで、保湿成分が入っているらしい。

 マスクは真っ白なものの大容量パック。決して女子が好きそうな、ピンクやら、黄色やらのものではない。


「お前、花粉症だろう。いっぱいあったら便利かと思って」


 無言でポケットティッシュとマスクを見ていた彼女が、ギロリと透をにらんだ。


「ていうのは前振りで! 本命はこちらでございます。お納めください、お代官様」

 透は、細長い四角い白い箱を彼女に差し出した。


「……これ……」

 彼女は無言でその箱を開けた。


 箱の中身から箱そのもののデザインに至るまで、ディテールにこだわる企業理念を反映するかのようなその白い箱は、どこにも引っかかることがなく、滑らかに開いた。


 彼女は箱の中から白いペンを取り出した。

「……タッチペンだね」

 彼女が喜んでいいかどうか微妙な顔をして言った。


「なんだよ! お前がお絵描きするのに欲しいって言ってたタッチペンだろうが! リンゴ社の純正品だぞ!」

 透は慌てて言った。


 たかがタッチペン、数千円で買えると思っていたら、これはなかなかいいお値段がした。


「ごめんごめん。ありがとう。なんか白ばっかり続いて、ちょっとお腹いっぱいだったっていうか」

 彼女は気を取り直したらしい。嬉しそうにしている。

「ついでにこれも」

 透はもう一本の白いペンを彼女に渡した。

「これは?」

「これはただのボールペン。インクは黒」

「わかった。ありがとう」


 けっこうイケるかもと調子に乗った透は、白いものをどんどんと積み上げていった。


 白熊のぬいぐるみ

 メラニンスポンジ

 割烹着

 白いタオル

 カシューナッツ

 白い靴下


 彼女は戸惑った顔をしている。

 透はさらに続ける。


 プレーン味のプロテイン。

 は? っていう顔をされた。


 コラーゲンパウダー。

 ちょっと嬉しそう。


 プラセンタの錠剤。

 微妙な顔。なんでだ? 『女性の美容と健康に』ってネットに書いてあったのに。


 カルシウムのサプリ。

「……まだ骨粗鬆症とか大丈夫なんですけど?」と彼女がつぶやいた。何が地雷だった?


 米麹の甘酒。

 首を傾けながらも、彼女は無言でうなずいた。


 重曹。

 ちょっと待て、その拳はなんだ! 茶渋が取れるらしいぞ!


 クエン酸。

 拳を下ろしてくれ! ポットの湯垢にいいって! パッケージの裏を見てくれ!


 砂糖。

 なんだよ!砂糖切らしてるって言ってたじゃないか!


「ちょっと待った。もう十分だから!」

 彼女が慌てて止めたが、もう遅い。

 ダイニングテーブルは白いもので溢れかえっている。

 ダメ押しとばかりに、透は先ほどの白いボールペンを彼女の目の前に置き直した。彼女はぐっとボールペンを掴んで、口を開いた。


「わかった。透の気持ちはよーくわかった。来年のバレンタインを覚えなさいよ? 私も黒づくめにしてやるから」


 彼女はブツブツと黒いものを呪文のように唱えていく。

「黒ごま、わかめ、昆布、イカスミ、黒豆、コーヒー、プルーン……ああ、墨汁も黒いわね? ふふっ」


 さすがにやりすぎたようだ。

「や、その、なんだ、待ってくれ、話せばわかる」


「大丈夫ですよ。態度で示していただいたので、十分伝わりました。では私はお先に失礼して、お風呂をいただきますね?」

 作り笑いでにっこりと笑うと、彼女はだんっ! とボールペンをテーブルに置いて、リビングを出て行った。


 やべえな、さすがにやりすぎたか。でもこれくらいやらないと。

 俺だって今、自分の限界と戦ってるんだっ!


 とりあえず最後の仕上げをするために、透はため息をつきながら、白いものたちをテーブルの端によけていった。



「ミホ」

 彼女が風呂から出たタイミングで、透は彼女を呼んだ。


「何?」

 声の低さからいって、まだ少し怒っているようだ。

 冷蔵庫の中から麦茶を取り出した彼女は、「はあっ!?」と声を出した。


「ちょっと何!? 冷蔵庫、白いものだらけじゃない。どうすんの、これ?」


「それはいいから、ちょっとこっち来て」

 透の硬い声に何かを察したのか、彼女は素直に透の座るダイニングテーブルにやってきた。

「座って」

「うん、透、何かあった?」

 彼女が心配そうな顔になる。


 不安にさせてはいけない。

 そう思うのに、顔は引き攣るし、額から汗が流れてくるし。

 どう考えても冷静とは言い難い。


「最後にもう一つ、渡したい物があって」

 硬い声のまま、透は一枚の紙を彼女に差し出した。


「いい加減にして! 最後はコピー用紙かよ!」

 ガチギレした彼女は、その紙を掴んで破ろうとした。


「待て! それは裏だ!」

「……裏?」

 彼女は紙を裏返した。白い紙を凝視して、固まる。


「これって、まさか。え、何? どういうこと? これって、」

 紙を持つ彼女の手は震えている。紙と透の顔を交互に見て、声を詰まらせた。


 白い紙の一番上に書いてある文字は『婚姻届』。

 一番シンプルなデザインを選んだ。

 さすがに白紙のまま彼女に渡すわけにはいかないと、自分の署名は済んでいる。


 まだ続きはある。

 声を出さないと、と口を開いたところで、透は自分の口がカラカラなことに気づいた。喉が張り付いて声が出ない。

 軽く咳払いをして、声を絞り出した。


「ミホ、泣きたくなってきただろう、さっきのポケットティッシュを使うといいよ」

 透はポケットティッシュを指さした。テーブルの上に山積みになっている白いもののてっぺんに置かれたポケットティッシュのパックは、雪化粧をした富士山の頂上のようだ。


「家にいるのに、ポケットティッシュなんて使わないよ」

 動揺していても冷静なツッコミができるところは、さすが透の彼女だ。

「そう言わないで、一番上のやつを使うといいよ」


 渋々といった感じで、彼女は山積みのてっぺんにちょこんと乗ったポケットティッシュのパックを取り出した。

 四個セットになっているそれのテープを剥がそうとして、テープの粘着力が弱いことに彼女は首を傾けた。


「あれ? これなんかテープ緩くない? 不良品じゃないの?」

「まあまあ、いいからいいから」

「一番上のやつってこれ? ミシン目が開いてるんだけど、誰か使ったんじゃないの?」

「まあまあ、いいからいいから」


 彼女の指がティッシュのミシン目の中に入っていく。

 そこで、はっと息をのんだ。

 彼女の指が掴んだのは、きらめく一粒の石がついた指輪だった。


 透は席を立ち上がると、彼女の足元にひざまずいた。

「俺と結婚してください」

 透は彼女の手を取って結婚を請う。


「え、やだ、今? ティッシュって、意味わかんない……」

 そう言いながら、彼女は目に大粒の涙を溜めた。乱暴に手で擦ろうとするのを透は手でやんわりと止めた。そして、彼女の頬を愛おしげに撫でて涙をそっと指で拭った。

「ね、ミホ、結婚、しよう? 一生大事にする」

 彼女は唇を噛み締めながら、何度も何度も頷いた。そして、涙声で「はい」と言った。


 透は慎重に彼女の指に指輪を通した。

 スラリとした長い指。冷え性の彼女は指先がいつも冷たくて、それを温めるのが透の役割だった。だが、今日は役立たずだ。透の指も緊張で冷たくなっている。

 せめてもと、ぎゅっと手を握ると、彼女はとうとう声を上げて泣き出した。

 透はきつく彼女を抱きしめた。透も涙ぐみそうになるが、ぐっと堪える。


 もう泣かせたりしないから、ずっとそばにいて。


 透は彼女の髪に、おでこに、頬に、唇にキスを落としていく。

 涙を溜めた彼女の瞳は、どんな宝石よりも綺麗だ。

 お互いの視線が絡み合い、二人は深いキスをした。涙味のそれを、透は一生忘れないだろう。



 お互いの息が整ったころ、透は彼女の体をぺりっと剥がした。

「さ、本日のイベントはまだ終わりじゃないぞ。ほら、早くサインして」

 透は彼女に婚姻届をずいっと差し出した。

 少し早口になってしまうのはテレと、焦燥感からだ。「やっぱちょっと考えさせて」なんて言われたら、透は地球の反対側まで沈むかもしれない。

「うん……えっと、ペンは……」

 まだとろんとした目の彼女が席を立とうとする。透はそれを押し留めて、彼女の顔の前にずいっとペンを差し出した。

 さっき彼女がテーブルに押し付けていった白いボールペンである。


 彼女は目を細めて透を見た。


 いや! 真っ白なボールペンって意外と見つからないんだよ! 文房具店ハシゴしたんだからな!


「ゴホン、な、だからペンは必要だろ?」


「バカバカ! 透のバカ! サプライズが斜め上すぎるのよ! 何の嫌がらせかと思ったでしょ! それに、これ! ただのコピー用紙だと思って、上のほうちょっと破いちゃったし!」

 確かに婚姻届の上のほうには破り目ができている。さらに、彼女がきつく握ったから皺もできている。


「大丈夫だ。三枚用意してきたから」

 透は鷹揚に言った。

「三枚?」

「そう。一枚はミホが破る用、もう一枚は書き損じと涙で濡れる用。最後の一枚で成功すれば、それで全部OK」


「なによう、それもぅ」

 彼女は泣きながら笑った。

 しばらく俯いて涙を堪える彼女を透は抱きしめた。髪を撫でて腕の中に閉じ込める。誰にもやらない。ミホは、俺のもの。


「よし、書く」

 涙を引っ込めた彼女が、決心したように言った。

 さすが切り替えの早い透の彼女だ。これから何があっても、きっと二人で乗り越えていけるだろう。


 彼女が署名し終わって、透は詰めていた息をほっと吐いた。


 テーブルの上には白いものの山。

 冷蔵庫も、冷凍庫も。

 なんなら、戸棚にも寝室にもまだ隠してある。


 でもこれは全部、前振り。


 すべては、白い紙(婚姻届)白金(プラチナ)の指輪を渡すため。


 やり切った、俺。やればできる子。

 透は心の中でガッツポーズした。


 白白ずくしのホワイトデーから、真っ白なウェディングドレスへ。


 お後がよろしいようで。


 なんちゃって。


 ◆◇◆◇


 照れてるくせにー


 うるさい!黙って泣いてろ!


 泣いてるのはそっちのくせにー


 ちげえ!これは花粉症だ!


 彼女の楽しそうな笑い声につられて、透も声を上げて笑った。

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