第8話 聖女のレシピ
リラの生家は代々上級貴族のクラマーシュ家の従士を務めてきた家系である。しかも「日本語」と呼ばれる異界の言葉を受け継ぐという重大な任務を帯びた家系なのだが、かといって普段その「日本語」というものを活用した仕事があるのかと言えば、まったく無かった。
だからリラはリーガン家の女子の慣例として、十四歳からずっとクラマーシュ家やその親族の令嬢の侍女を務めてきたのだ。
しかし、ある日突然クラマーシュ家の当主に呼び出され、何を申し渡されるかと思えば、異界から来た聖女の侍女をすることになるかも知れないので、王城に参内するようにと命じられたのだった。
かも知れない、というだけで決定では無いということだったが、主人の命に従い王城へ行くと、何の運命か聖女の話す言葉は「日本語」だった。
以来、リラは聖女に仕えることとなり、お嬢様の世話から解放されることになった。
リラがクラマーシュ家に仕えていた時は三女の担当だったが、とにかく上級貴族という、この国の中でもごく一握りの高貴なる家系の令嬢であるがゆえか、気まぐれで我がままで、世話を焼くのは大変だった。
三女だけでなく、長女と次女を見ていても、そして交友関係の他の御令嬢達を見ていても、だいたいは自分こそが世界の中心とでも思っていそうな気位の高い娘ばかりだった。
平民の中でも富裕層の家庭では同じような現象が見られることから、生まれや育ちによって人の性質は変わるのだとリラは思っていた。
また、元は貧しい平民の女が貴族や富豪の愛人になって贅沢に慣れてしまえば、それまでが嘘のように自分も生まれつきの貴婦人であるかのような振舞いになる、などとはよく聞く話だ。
つまり何が言いたいかというと、その人を形作るものは環境によって左右される部分が大きいということだ。
そういう実例を見て来た経験上、金も時間も自由に使ってよい環境で人々から崇められてちやほやされれば、いずれ聖女様も傲慢で扱いにくい令嬢のようになるのだろうとリラは思っていた。
しかし、リラは今、目の前で繰り広げられている光景を見ていると、自分の予想がバッサリ裏切られたことに戸惑いを感じて仕方なかった。
「もう、やったなー、待て待てー!」
聖女はそう言ってはしゃぎながら、あちこち逃げ回る子供達を追い掛けて泥だらけになっていた。
街の服飾店で仕立てた、まるで使用人が着るような黒や紺色のワンピースを着た聖女は、みすぼらしい恰好の子供達に混じって畑いじりをしたり、一緒になって遊んだり、粗末な食事を共にしたりと、自分に与えられた特権など見向きもしないような毎日を送っている。
ワンピースの襟には孤児院の少女達が刺してくれた刺繍が目立ち、聖女はそれをとても気に入っているようだ。地味な服装にとってはせめてもの華やかさと言える。
最近は動きやすくするためか、孤児院にいる時は長く美しい黒髪を三つ編みのおさげにするようになった。それも相まって誰が見ても庶民に馴染みすぎて聖女には見えない。
侍女というよりただのお守り役になってしまっているリラは、時折通訳をして聖女と子供達との意思疎通を手伝う他は、ほとんど孤児院の仕事を手伝っているような状態だ。
通訳の甲斐あって聖女と子供達はすっかり仲良くなり、今日は聖女の考案で何やら作ると言っていたのだが、まずは子供達とめいっぱい遊んでからということらしい。
『あの方って本当に聖女様なのかしら?』
リラはポツリと呟いた。
『上が聖女様って言うんだからそうなんだろ?異界の言葉を話してるし』
ヴァルターはリラのようには、聖女の行動にそれほど違和感を感じていない様子だった。
リーガン家と同様、ウテワール家も「日本語」を伝承する家系だが、下級士族であることから本業は貴族家の護衛や戦への参戦だ。
しかし、任じられたからにはヴァルターは聖女の護衛としてどこへでも同行する。
『聖女様って何をするの?国の危機を救ってくださるって言うけど』
『さあ、オレみたいな身分じゃ分からないよ』
『王太子様が聖女様にご執心みたいだけど、もしかしてこのまま王太子様の側室になったりして』
『ははは、例えそうなったって、オレらには関係ないだろ』
『まあ、そうだけど……』
リラはヴァルターに聞いたところで、聖女の使命について詳しく分かるとは思っていなかったが、ヴァルター自身は身分を弁えてあまり関心を示さないでいることは分かった。
王妃や王太子妃の殆どは二十七ある上級貴族家の令嬢から選ばれる。もしくはよっぽどの理由があればそれ以外の貴族家から輿入れする場合もある。あとは国同士の政略によって婚姻関係を結ぶことも過去にはあった。
聞くところによればそれ以外の人間が王族の正室になった歴史は無いので、聖女が王太子と結ばれるなら側室になるのではないかと思われる。
もし側室になったら、いつかは聖女もリラが考える貴婦人のようになるのかも知れない。今はまだこちらの世界に来て日も浅いから、生来の慣習が抜けないだけかも知れない。
リラは最近よくそんな事ばかり考えている。なぜなら昼間は侍女とは言えない仕事ばかりで、緊張感が無くなってしまうからだ。
もう割り切って聖女と一緒に子供達と遊べばいいのかも知れないが、上や父親からは謹厳実直であるよう厳しく言われている。仮にも聖女の侍女なのだから、誰に見られても恥ずかしくない行動をしろと言うことだ。侍女の行いひとつで、聖女の品格を貶めてしまいかねないから、と。
しかし、当の聖女の振舞いは子供達と同レベルだ。服装も行いも庶民そのもの。
ただ、言葉遣いや何気ない所作は丁寧で美しいので、育ち自体は良いのではないかとリラは思っていた。
「リラさん、そろそろ作ってみようと思うので手伝っていただけますか?」
紫苑に声を掛けられ、ハッとしてリラはすぐに駆け寄った。
リラは指示されるまま台所のかまどに火を入れ、大き目の鉄鍋をセットし、たっぷり油を注いだ。
そこへ紫苑が用意して来たのは乾燥したトウモロコシだった。
「聖女様、何をされるんですか?それは家畜の飼料ですよ」
「上手くいくといいんだけど、まあ見てて」
そう言うと紫苑はトウモロコシを熱した鉄鍋へと流し込んだ。
するとしばらくしてポンッと爆ぜる音がした。続けてポンポンと音が立ち始める。次に聖女は鍋にフタをして、ミトンをつけた手で鍋をゆすりながら火にかけ続けた。
ポンポンという音はどんどん激しくなっていって、いったい鍋の中で何が起きているのかと、子供達も興味津々にかまどを取り囲んで見ている。
辺りには香ばしい匂いが立ち込め、みんな不思議そうな顔をしながら匂いをかいでいた。
「そろそろいいかな?」
爆ぜる音がしなくなると、紫苑は鉄鍋をかまどから下ろしてテーブルの上に置き、フタを開けた。
ふわっと立ち昇る湯気と、香ばしい匂いとが一気に台所へ広がる。
熱々のうちに紫苑はバターを入れて混ぜ、塩を振って更に混ぜた。途中ひとつふたつと口に放り込みながら味見をし、うんうんと頭を縦に振りながら、納得いった後にそれを大きなボウルに移し替えると紫苑は息をついた。
「良かった、思ったほど焦げてなくて」
『聖女様、これは何?』
「これはポップコーンというのよ」
『ぽっこーん?』
子供達は鍋のまわりに群がって、初めてみる食べ物を口を開けて見ていた。
「さあ、どうぞ、みんな食べてみて」
わあっと子供達が歓声を上げると、次々手を伸ばしてポップコーンを掴み取っていった。少しドキドキした顔をしながらひと粒口へ入れると、軽い食感と塩バターの味わいにすぐに満面の笑みを浮かべた。
『おいしい!!』
子供達は嬉しそうにはしゃいで、次々とボウルへ手を伸ばす。止まらない美味しさにポップコーンはどんどん減って行った。
「これじゃ足りないわね、もう一回作りましょ。司祭様とユリアンの分も取っておかないと」
司祭とユリアンは教会の用事で外出していた。子供達の中でも特にユリアンは大人びていて賢く、仕事も出来るのでよく司祭の手伝いをしているのだ。
子供達全員が満足いくまで食べられるように、紫苑はポップコーンの第二弾を作り始めた。
この街に通い始めて市場で様々な物を見て来た紫苑だが、自分の世界にはあってこの世界に無い物をいくつも発見していた。
家畜を見ても食品などを見てもさして大きな違いは無いが、文化的、文明的な違いは色々ある。そこで自分の知識で出来る物を子供達に作ってみることにしたのだ。
ポップコーンは子供達に大好評だった。市場で爆裂種のトウモロコシらしき物を見つけた時からポップコーンを作ってみようと計画していた紫苑は、この成功に大いに満足した。
家畜の飼料としてしか利用されていないトウモロコシがこんなお菓子に変身するとは、子供達だけでなくリラもヴァルターも驚いていた。
「聖女様、これはウマいですね。酒のつまみにもいいかも知れません」
ヴァルターは酒が好きなのか、晩酌を想像しながらポップコーンを食べているようだった。いつも無表情に近いリラもちょっと顔をほころばせて美味しそうに相伴に預かっている。
ポップコーンを作り終えた紫苑は、今度は次の作業に取り掛かった。何種類かのナッツをまな板の上に広げると、ひたすら包丁で刻みだしたのだ。
「刻むより砕いたほうが楽なんですけど、砕く道具が無かったので、今度市場で作ってもらいましょう。今日はとりあえず包丁でがんばります」
そう言って紫苑はナッツをどんどん細かくしていった。好みの大きさの粒状になったら一旦それをボウルに入れて置いておき、次は牛乳と砂糖を用意した。
二つを鍋に入れるとかまどで火にかけ、木べらで混ぜながら煮詰めはじめた。かまどは火力の調整が難しく、鍋を下ろしたり火にかけたりを繰り返しながら苦労して煮詰めていると、次第に甘い香りが漂いはじめた。
『あまーい、いいにおい!!』
子供達は大はしゃぎだ。明らかに甘いお菓子を作っているのが分かると目を輝かせて待っている。
材料が茶色く煮詰まって来ると、紫苑は油を少し足してまた混ぜ続けた。火加減に苦労しながら固さを見て、良い具合と判断すると砕いたナッツを鍋に投入した。
更に混ぜて混ぜて、だいぶ固くなったあたりで鍋をテーブルへ移し、用意しておいた油紙を敷いた木のトレーに鍋の中身を薄く広げた。
「よし、これで大丈夫かな?あとは冷えるまで待ってね」
『聖女様、これなにー?お菓子?』
「少ない材料で簡単キャラメルナッツよ」
『きゃらめっつ?』
冷えるまで待ってと言われた子供達は、トレーを囲んで今か今かと待っていた。
まだ涼しい季節なので冷えるまではそれほど時間もかからず、すっかり冷めて固くなったのを確認すると、紫苑は包丁で縦横に四角く切り分けてから味見をしてみた。
「うん、かなり上手くいった!我ながら凄いわ。さあ、みんな食べてみて」
そう言われると、子供達は一斉にキャラメルナッツを手に取り、がぶっとかじりついた。
パリパリ、ザクザクとした食感とちょっぴり焦げた風味の甘い味に、子供達はぴょんぴょんと飛び跳ねるほど感激したらしい。
リラとヴァルターもまた相伴させてもらうと、二人もその美味しさに唸った。
「聖女様、こんなどこにでもある材料でこんなウマいものが出来るんですね!」
「うふふ、簡単でいいでしょ。でも考えてることがあるから、ポップコーンもキャラメルナッツも、作り方は誰にも教えないでね、約束よ」
紫苑の言葉をヴァルターは肝に銘じ、リラも子供達にも約束を守るようにとしっかり言い含めておいた。
これまで紫苑は毎日市場をリサーチしてきたが、ポップコーンとキャラメルナッツ以外にもアイディア次第ではこの世界にとっての新しい物をたくさん生み出せると紫苑は考えていた。
司祭とユリアンはまだ帰って来る様子が無かったので、二人の分を別に分けておいて、後はみんなで美味しくいただいた。
子供達の幸せそうな笑顔を見ながら紫苑はお茶を飲み、お菓子作りで疲れた体をしばし休憩させることにした。
調理道具の後片付けが終わる頃には日暮れが近くなり、紫苑は帰る支度を始める。
ユリアンと同い年の少女で、今いる子供達の中では年長のレナーテが紫苑と入れ替わるように台所に立って夕飯の支度を始めた。
「夕飯のお手伝いをしてから帰りましょうか」
『いいえ、聖女様、スープを作るだけですから、そんなに手間は掛かりません』
にこりと笑ったレナーテは年下の子供達の頼もしいお姉さんであり、しばしば母親役を務めるほどしっかりとした娘だ。紫苑が持ってくる刺繍糸でいつも刺繍の練習をしている。いずれはこの孤児院を出て行かなければならないので、その時のために熱心に取り組んでいるのだろう。
平民の女の子は小さい時から家事手伝いをしているが、だいたい十四歳くらいから外に働きに出るという。職種としては、食堂や宿屋の下働き、裁縫師の見習い、機織りの見習い、洗濯婦、富裕層の使用人など、安い賃金の仕事ばかりだが何とか自立してやっていくことは出来るようだ。住み込みの仕事は衣食住にあまりお金が掛からないので人気らしい。
レナーテは刺繍が上手だから、いつかは刺繍師として独り立ち出来るのではないかと司祭は期待している。腕前が良ければ賃金も高くなる。少しでも暮らしが楽になればと司祭は祈っていた。
帰り支度を終えて孤児院を出ようとした紫苑は、レナーテがスープを作る後ろ姿をそっと覗き見た。今日の夕飯は固いパンとスープだけに違いない。肉の入っていない野菜だけのスープでは栄養が足りないのは明らかだが、孤児院の財政は上向きになる要素が無く、仕方のないことだった。
玄関から出た紫苑は子供達に手を振って別れると、馬車へ乗り込み王城への帰路についた。
この世界へ来てそろそろ一ヶ月が経とうとしている。今の生活にはすっかり慣れた紫苑だが、元の世界へ帰れる日がいつ来るのか分からないと思うと、やはり溜息が出る。
生活には何も困らないし、毎日自由にやりたい事をしていて正直楽しい。ただ、やはり自分の先行きが見えないと、漠然とした不安が心の中にはあるものだろう。
一日の終わりには疲れに身を任せてボーっとしてしまうのも、馬車の窓越しに夕暮れの街並みを見ながら、故郷の風景を重ね見ることも、寂しさの表れかもしれない。
城門が開くギシギシとした大きな音で、紫苑は城へ帰って来たことに気が付いた。
間もなくして西棟の入り口へ馬車がつくと、その付近にベルナールの側付きの従者が立っているのが見えた。また紫苑を迎えにやって来たのだ。今日はいつもより割と早い時間だった。
『お帰りなさいませ、聖女様。王太子様が晩餐をご一緒にとお待ちでございます。ご同行ください』
「あの、わたしこんな格好ですし、着替えていてはお待たせしてご迷惑になるのでは」
『問題ございません。お着替えをどうぞ、お待ちしておりますので大丈夫です』
「ありがとうございます」
紫苑は丁寧に礼を言った。
紫苑はすぐに自室へと戻り、汚れたワンピースを脱いで着替えをする。浅葱色のドレスを選び、化粧を直して三つ編みも解いた。ゆるくウェーブした髪を手櫛ですいて、準備が整うとリラを伴い従者に案内されて東棟のダイニングへと向かう。
ベルナールと初めての晩餐を共にして以来、紫苑は頻繁に誘われるようになった。昼間は紫苑は街へ出掛けているし、ベルナールも公務があるので時間が取れない。だから会えるのは晩餐の時間くらいなので、定番の逢瀬のようになっていた。
紫苑に対してベルナールが特別な興味を抱いている様子は明らかだった。貴族の令嬢方とのお茶会やパーティーなどは減らし、その分を紫苑に会う時間に当てている。ベルナールは誰の目があっても構わず、紫苑をエスコートしては庭園を散歩したりなどもした。
最初は異界の話が面白くてしきりに聞きたがるのかと思っていたが、そうでない会話も多く、紫苑自身の事に興味を持ち、自分にも興味を持ってもらいたいという気持ちが表れていた。
次第に二人の距離は近付き、今では友人のような関係にまでなっていたので、王太子が聖女にご執心だという噂は社交界で広く囁かれるようになった。
そんな二人は今夜もまた晩餐の席を共にすることになった。