第5話 王太子のお誘い
日暮れ近くまで孤児院で過ごした紫苑は、別れを惜しんで寂しそうな顔をしている子供達に手を振り、広場へと戻る道を歩いた。
紫苑は楽しく過ごしたが、ヴァルターもリラもなんだか疲れているように見えた。いつも澄ました顔をしている二人だが、子供のパワーには勝てないらしい。
そして紫苑は帰路につき、馬車に揺られながら考えていた。
ここが異世界かどうかは置いておいても、儀式とやらが終われば解放されるらしい。しかし、言い換えれば儀式が済むまでは絶対に帰してもらえないということだ。ならばここは我慢して時期を待つしかないのかも知れない。少しの間なら元の世界を不在にしても、たぶん問題はない。
そして、この先どうなるにせよ、この世界のことはもっと知っておいたほうがいいと紫苑は思った。 これまでに召喚された聖女が元の世界へ帰ったのかどうか、帰ったのならばその方法も調べなければならない。それにはバーラーニと直接話し合えるようになる必要がある。
「リラさん、わたし、この国の言葉を覚えたいのですが、教えてもらえますか?」
紫苑がぼーっとした顔をしているリラへそうお願いすると、リラはハッと意識を取り戻したような顔をした後、背筋を伸ばしてこう言った。
「聖女様、言葉を覚える必要はございません。通訳はわたくし共が致しますし、必要なことはわたくしに申し付けてくだされば問題ありませんので」
「でも、それじゃ不便ですし、この国のことを知るにはやはり言葉が分からないと……」
「聖女様をそのようなことで煩わせるわけにはいきません。何でもわたくしにお申し付けください」
「そうは言っても……」
「いいえ、聖女様は何の憂いもなく健やかにお過ごし頂くことが一番大事なのです。それに、申し訳ありませんが、聖女様のご負担になるような事をすると、わたくしが叱責を受けるのです。どうかご理解ください」
リラは頑なに拒否してきた。
立場的に上から命じられた通り仕事をするしかないのだろうし、余計な事をすると叱られるという事情もあるようだ。無理にお願いをするとリラに迷惑が掛かってしまうのなら仕方がない、と紫苑は一旦諦めることにした。
きっとヴァルターにお願いしても同じ返事が返ってきそうだ。二人はいつもだいたい同じ事しか言わないから。
昨日と同じく西の空の夕日を眺めながら、紫苑は次の策を考えることにした。
そう言えば、この国の言葉が分からないのでは、あのハムもどきの精霊を使役することも出来ないのではないか?だったらせっかく契約しても意味が無い、それではただのペットだ。
不満な気持ちを抱えながらも、馬車の揺れで眠気がこみ上げてきた紫苑は、窓枠に肘を置いて頬杖をつこうとした。その時、ふいに気付いたのだが、マニキュアの色がおかしい。薄いピンク色だったはずが、なぜかオレンジ色になっている。
(子供達に何かイタズラでもされたのかな?)
と紫苑は思い、それ以上は考えることもせず瞼を閉じて馬車の揺れに身を任せた。
十分程経つと馬車は城壁の西門を通り、城の出入り口に到着した。
紫苑は既にかなりの空腹を感じていたので、ようやく夕食だと思うと余計お腹が鳴るような気がした。
ヴァルターのエスコートで馬車を降りた紫苑が大きく伸びをしているところへ、何やら東の方から数人の衛兵がやって来るのが見えた。
それに気付いたヴァルターとリラは、一歩下がると頭を垂れて礼を示した。
衛兵の集団かと思いきや、一人の人物が衛兵を引き連れているのだ。
その人物はきめ細かい模様の入った絹地に金糸銀糸の刺繍が施された高位の衣装を着ている。昨日謁見した王と同じ系統の服だが、年齢ははるかに若い二十歳前後の青年だった。
『そなたが聖女か?昨日は謁見に立ち会えず残念に思っていたのだ、会えるのを楽しみにしていたぞ』
青年はさわやかな印象だったが、身分の高い者特有の尊大さが見て取れた。
「聖女様、こちらは王太子のベルナール殿下です、礼をお示しください」
ヴァルターに言われて、紫苑は慌てて礼をした。
『よい、そんなかしこまらなくても。何せ我が国を救ってくれる聖女だ。私個人でも歓迎したく、今日は共に晩餐をと思って帰りを待っていたのだぞ』
ベルナールの言葉を聞いて、紫苑は頭が重くなるのを感じた。王族と食事だなんて、気を使ってゆっくり味わえないに決まっている。疲れているし、すごーくお腹が空いているのに、と紫苑は思った。
ベルナールは紫苑へ近づき、紫苑の右手を取ると手の甲へキスした。現代人には無いこの習慣に紫苑は一瞬体をこわばらせたが、ベルナールの指にはめられている指輪に気付くと興味深そうに観察した。
紫苑がもらった精霊の銅の指輪と同じ意匠で、しかし色は金色、しかも三本を重ねづけしている。指輪には金、銀、銅の三種類があり、上に行くほど上級の精霊と契約出来るそうだが、金の指輪を三本もはめているとは、さすが王族と言えるのかも知れない。
指輪に集中しすぎて嬉しそうな顔をしない紫苑を見て、ベルナールの一歩後ろにいる青年が眉をしかめた。
『殿下が食事を共にと、わざわざ出迎えにいらっしゃったのに、いかに聖女様と言えど恐れ多くも敬意を失するとは』
と、その青年が不快そうに言い放った。
よく分からないが、とにかく喜べと言いたいのか?紫苑は仕方なく作り笑いをしながら「身に余る光栄です」とおべっかを言っておいた。
しかし、ベルナールの方は特に気にした風でもなく、紫苑の腰に手をまわすとエスコートを始めた。
成すがままに、紫苑はベルナールに連れられて東側の一室へと通された。
そこは賓客をもてなすダイニングのようで、長くて大きなテーブルに銀の燭台や花が飾られていた。
晩餐をいただくのはベルナールと紫苑だけらしく他に客の姿は無い。
席につくと早速食事が給仕され始めた。
『まずは聖女の来邦に歓迎の祝杯を上げよう』
ベルナールはそう言うとワインの入った金彩のゴブレットを手にして、紫苑にも勧めた。
通訳は紫苑の後ろの椅子にヴァルターが、ベルナールの後ろの椅子にリラが座って担当している。
仕方なく紫苑は一口ワインを飲んだ。渋みの強い赤ワインで、紫苑には美味しいと思えなかったが、ベルナールは上機嫌でワインを飲んでいく。
『それで、今日は街の様子を見に行ったとか?』
ワインの進まない紫苑を見て緊張しているのだと思ったベルナールは、何気ない会話で打ち解けようという気遣いを見せた。
「はい、とても興味深く散策致しました」
『この国で一番に栄えている街だ、満足してもらえたなら嬉しいが』
「はい、見慣れないものばかりでとても新鮮でした」
『街で気に入ったものがあったら私に言うといい。商人を城に呼んで何でも贈呈しよう』
「そんな、とんでもない、わたしにはもったいないお話です」
『遠慮することはないぞ』
「遠慮ではありません。広い部屋にたくさんのドレスや装飾品まで用意していただいて、本当にわたしは何ひとつ不自由しておりませんので大丈夫です。そのお気遣いだけで十分です」
『はは、聖女とはこうも謙虚なものか。贅沢に慣れた令嬢達に見習って欲しいくらいだな』
ベルナールは紫苑の態度に素直に感心しているようで、興味深そうな笑みを浮かべた。
その後もベルナールは上機嫌で次々と紫苑へ話題を振って来た。紫苑の世界の事をあれこれと聞いたり、紫苑自身の事を聞いたり、自分の事を話したり。
それはいいのだが、紫苑が気になったのはベルナールの言葉の端々に権威的な響きが感じられる点だった。もちろん王族が庶民に対するのだから上から目線になるのは当然とも言える。
しかし、元の世界で王族だ貴族だなどという異世界ならぬ別世界の人々と接する機会などあるはずもなかった紫苑にとっては、この庶民とは違う感覚の差がしっくりこなかった。
ベルナールといると居心地が悪く、常にぎこちない態度になっていて不興を買わないか不安になる。だが、今この時を我慢してやり過ごせばいいのだ、と紫苑はなんとか笑顔を絶やさずにベルナールとの会話を弾ませようと努力していた。
そもそも聖女の役割は儀式を行うことだと言うのだから、普段から王族と関わる必要性は無いと思われる。昨日の王や貴族達の態度からしても、儀式さえちゃんと行ってくれればそれでいいという感じを受けた。
接点を持つ必要は無いが、今回ベルナールが紫苑を晩餐に誘ったのは、きっと彼の好奇心からだろう。
聞けば前回の聖女召喚は四十年近く前だという。ならばベルナールは聖女なるものを初めて見たのだ。聖女がどういったものか近くで品定めしてやろう、そんな好奇心から紫苑を晩餐へ誘ったのだろう。
『何か困ったことがあれば私に言うのだぞ。私がお前の後見人になってやろう』
晩餐も終わりに近づいた頃、ベルナールが突然そのような事を言ったので、先程のお付きの青年が慌てたような顔をした。
『殿下、後見人などと、そのようなことを勝手に言われては困ります。聖女様に関する全ての決定権は国王陛下にあるのですよ』
『案ずるな、父上はまた私の悪い癖が出たと苦笑いするだけさ』
『しかし……』
『トビアス、お前は真面目で頭が硬い、それでは女性にもてないぞ』
『殿下、そんなことはこの際関係ありません』
青年がベルナールに対して何やら苦言を呈しているようだったが、リラが通訳をしないので紫苑には内容が分からなかった。恐らく、後見人になると言った事についてだろうとは予測できるが。
デザートのフルーツパイが美味しくて、これだけは本当に嬉しそうに食べた紫苑は、最後にワインを一口飲んでホッと息をついた。
会話のほとんどはベルナールがしゃべっている状態だった晩餐もようやく終わりを迎え、紫苑は解放されることになって安堵した。
『楽しかった晩餐も終わりだな、私はこの後行く所があるゆえ、ここで失礼するよ』
「殿下、お忙しい中、本日は歓迎の晩餐、真にありがとうございました」
紫苑は立ち上がって恭しく礼をした。
ベルナールは紫苑の前に立つと、頭を下げている紫苑の顎に手を当て、顔を上向かせると頬にキスをした。
『また会おう、聖女よ。次の機会にはもっと親密になれると良いな』
そう言って機嫌の良いベルナールは手を振りながらダイニングを後にした。その後ろ姿を、不意打ちのキスで体をこわばらせた紫苑は無言で見送った。
「つ、疲れた……」
ベルナールの姿が見えなくなって呪縛から解かれたように力の抜けた紫苑は、ダイニングを出ると城の中を通ってではなく、庭園から西棟へ帰ろうと思い外へ出た。
外はもう真っ暗だが、松明の明かりが等間隔に並んで見え、衛兵の姿も所々に見える。しかし、人の話し声などは聞こえず、とても静かな夜だ。
「聖女様、何故外から戻るのです?足元が暗くて危ないです」
「いいの、外の空気が吸いたかったし」
そう言って紫苑は大きく深呼吸をした。
空には満点の星が輝いていて、星座を探すのが難しい程の星の海だった。紫苑が住んでいた場所では人工的な明かりが多くて、こんなにも多くの星を見たことは無かった。しかし、この空に果たして自分の知っている星座と同じものが見つかるのかどうかは分からないが。
ヴァルターが松明を一本取って来てくれて、暗い庭園の小道を三人で歩いた。夜風が冷たかったが、頭はすっきりした。
東棟から西棟へ移動するにもけっこう距離がある。松明の明かりがあっても暗い夜道を歩くのは思ったより時間が掛かった。
西棟に着くと、疲れた体で急な階段を四階まで上った紫苑は、部屋へ到着するなりソファへと寝転がった。
街から帰ったらゆっくり食事をして、湯浴みをして、あとはお茶でも飲みながら読みかけの小説でも読もうかと思っていたのに、紫苑はいきなりのベルナールとの晩餐で余計な体力を消耗してしまった。
「聖女様、お疲れですね。お茶を淹れて、すぐに湯浴みの支度をします」
「リラさんのほうこそ疲れてるのではありませんか?明日は特に予定も無いですし、湯浴みは明日にしますから、リラさんはもう休んでください」
「ですが……」
「大丈夫です。お茶は自分で淹れますし、飲んだらもう寝ますから」
「分かりました。では、お言葉に甘えて失礼します」
疲れた顔をしているリラは正直嬉しいのではないだろうか。紫苑より早起きして仕事をしているのに、更に紫苑が寝るまで世話を焼くなど申し訳ない限りだと思う。
ヴァルターにも自室へ下がるように伝えると、ひとりになった紫苑はのんびりお茶を淹れはじめた。
リラが火の入った炭だけ用意しておいてくれたので、ケトルに水を入れて炭網の上に乗せる。
リラにお茶の種類について少し教えてもらったので、紫苑はまだ飲んでいないものを試してみようと思った。残念なことに、いわゆる紅茶や日本茶のようなものは無く、ハーブやフルーツ、花などをお湯で蒸らすハーブティーが一般的だそうだ。そうなると、いずれ茶葉が恋しくなってしまうだろう。
紫苑はポットにレモングラスとドライフルーツを数種類入れてお湯を注いだ。蒸らし終わるまでに外出用のドレスを脱いで、寝間着に用意されているネグリジェへ着替える。
ドレスは様々なサイズのものが用意されていたので、背の高い紫苑でも着られる物がたくさんあって助かった。でも、色やデザイン的に見ても着るのはごく限られた数着になりそうだと、脱いだドレスを洗濯カゴへ入れながら紫苑は思った。
実はコルセットも用意されていたが、使い方が分からなかったし、苦しいのは無理なので使わないでおいているが、貴族の令嬢達はおしゃれをするのも大変だ、と紫苑は同情した。
お茶がほどよく出来上がったので、カップに注いで一度香りを堪能してから紫苑は口をつけた。本当に良い香りで、ホッとする甘さで美味しい。これで一日の疲れも癒されるというものだ。
先程リラに明日は予定が無いとは言ったものの、何もせずにぼーっと過ごす気は毛頭無いので、紫苑は行動出来る範囲で何かしらするつもりでいた。
籠の鳥でも考える頭はあるのだ。自分にとって何が脅威なのかは見極めなければならない。
紫苑は衣装部屋からトートバッグを持って来て中を見た。仕舞った時と同じで何も無くなったりはしていなかった。
持ち物に手を出される心配は無さそうだが、大事なものは引き続き肌身離さず持っていることにしよう、と太ももにベルトで巻いたポーチを取り出した。ポーチの中にはスマホと小型のモバイルバッテリー、ワイヤレスイヤホン、手帳が入れてある。
トートバッグの中にはノートパソコンも入っているが今は活躍の場は無いだろう。以前、災害で停電した時に困ったことを踏まえて大容量のモバイルバッテリーもあるので、パソコンを使わないなら当分スマホを使うことが出来る。たまには音楽くらい聴かないと気が滅入りそうだし。
紫苑の部屋には鍵のかかる棚などは無かったので、残りの持ち物は没収されないことを祈るのみだ。
紫苑はポーチをまた太ももにくくりつけると、残りのお茶を飲み干し、ランプの灯を消してベッドへと潜り込んだ。
昨日はなかなか寝付けなくて寝不足だったが、今日は大いに疲れたこともあり、紫苑はあっという間に眠りに落ちて行った。