プロローグ
窓際のベッドを見つめながらそっとドアを閉めた紫苑は、ドアがピタッと閉じた瞬間に小さく溜息を吐いた。少々疲労感を感じてその場で立ち尽くしてしまう。
しかし、すぐに気を取り直すとエレベーターに乗り込んで1階のボタンを押す。エレベーターを降りると、すれ違う職員に会釈をしながら正面玄関へと向かった。
「飛鳥井さん、おばあ様のご様子どうでした?」
玄関付近の事務所から中年の女性が声を掛けてきた。ファイルを抱えてどこかへ向かう様子の女性は、すっかり顔なじみの紫苑にいつも気さくに声を掛けて来るのだ。
「はい、今日はだいぶ落ち着いていました。相変わらず事業の話ばかりでしたけど」
「紫苑さんとの時間がよっぽど楽しいんでしょうね。お見舞いに来るのは紫苑さんぐらいだし、ついおしゃべりに花が咲いてしまうのかも知れませんよ」
「すみません、うちの者はみんな何かと忙しいみたいで、お見舞いは難しくて」
「いえいえ、それはご家庭それぞれのご事情がありますから。そんな中で紫苑さんは本当におばあ様思いですよね」
「そんなことは」
紫苑は、はにかみながら謙遜してみたが、実際この介護付き有料老人ホームへ祖母を見舞いに来る親族は紫苑以外には全くいない。
それもこれも祖母の激しい気性によるものだから、仕方ないと言えばそうなのだが。
祖母はもともと大きな地主の家系生まれで気位が高く、旧家の長男と結婚してからは一族を取り仕切り、ありとあらゆることに目を光らせて生きて来た。見識高く、家柄的に顔も広いことから夫を積極的に支援しては事業拡大を成功させ、地域にも多大な貢献をもたらした女傑として名を馳せた。
しかし、誰もが知るところなのだが、祖母の気性の激しさは人付き合いに軋轢を生むことも度々あった。自分にも厳しいのだが、他人に対する祖母の厳しさは、場合によっては度が過ぎる程であり、それは自分の子供達に対しても同じだった。
子供達は大きくなるにつれ母親に対する不満がつのり、反抗期を経て一時は家庭内が相当荒れていたと噂されている。しかし、それも子供達が社会人になる頃にはひとまず小康状態に落ち着き、適度な距離を保てばやっていけると思っていたところ、また違う問題が発生してしまった。
それは何かと言えば、子供達が結婚して家庭を持ったことだった。
祖母は自分の息子や娘のみならず、その配偶者にも高い要求を課したのだ。そうなると当然子供達の家庭にあれこれ口出ししては喧嘩となり、自分の思い通りにいかないとなると様々な手段を使って支配しようとした。長年一族を取り仕切って来た祖母にとっては、子供達の家庭を管理することは当たり前だと思っていたに違いない。
まずいことに祖母を止められる者は誰もいなかったので、大小様々な諍いを経た後、親子の関係はついに修復不能となり、ずいぶん前から絶縁に近い状態になっていた。大勢いる孫達は祖母と顔を合わせた事もほとんど無いだろう。
夫を数年前に亡くし、通いのお手伝いさん以外に寄り付く人もおらず、独りになっていた祖母は1年前に階段から落ちて骨折して以降、介護が必要な状態になってしまったのだが、身内の誰も介護を引き受けるはずもなく、早々にこのホームへと入所させられてしまった。
体は不自由でもその気性の激しさは健在で、介護士も対応に苦労していたようだ。そんな折、孫の一人である紫苑が突然見舞いにやって来た。絶縁状態の親族の中でも心優しい紫苑だけは、顔も覚えていないような祖母の寂しい現状に心を痛め、それからは週に一~二回は見舞いに通って来るようになった。
紫苑は春休みの間は毎日通い、新学期が始まってからは忙しい大学生活の合間に、時間を作っては見舞いに来るようになった。そうして数ヶ月が経ち、祖母は精神的に安定したのか、ずいぶん丸くなったと職員達の間で評判だった。
祖母は年のせいか実際は気弱になっていた部分もあったのだろう。表向き気丈に見えても内心は不安で寂しくて仕方なかったのかも知れない。孫である紫苑が見舞いに来てくれ、おしゃべりに付き合ってくれると、その日は一日機嫌が良くて世話をする者達も大変助かっていた。
「では、わたしはこれで失礼しますね。祖母の事、よろしくお願いします」
紫苑はにこっと笑うと職員の女性に会釈をし、女性に玄関ドアのロックを解除してもらうと外へと出て行った。
「あら、飛鳥井さんのお孫さん、今日も来てたの?」
通りかかった介護士が女性職員にそう声をかけると、
「そうなのよ、甲斐甲斐しいわよね」
「最初は毎日怒鳴られてたのに、よくめげずに通い詰めたものよね」
「ホントそう。忍耐強くて優しくて、さすがのあの飛鳥井さんも根負けしたんでしょ」
「実の子供とは仲悪くても、孫はやっぱり違うんじゃない?」
「それもあるだろうけど、あのお嬢さんは人間性が素晴らしいのよ。職員みんなにもいつも笑顔でありがとうございますってお礼言ってくれて、困ったことがあったら自分がなんとかしますからって気遣ってくれるしね」
二人は紫苑の姿が消えたドアの向こうを見ながら、とても感心したように頷いていた。
「あんな良いお嬢さん、そうそういないわよ。すらっと背が高くて美人で、髪もロングのさらさらストレート。モデルさんみたいよねえ、うちの息子のお嫁さんに欲しいわあ」
「やっだ、相手にされないってば。良いとこのお嬢様なんだし」
「分かってるってば、妄想ぐらい許してよ」
二人はあはははと笑いながら、それぞれの仕事へと戻って行った。
紫苑は施設を出たあと、一度空を仰ぎ見ながらトートバッグを肩に掛けなおすと、駅へと向かって歩き出した。駅からは徒歩二十分と少し遠いのだが、周りは緑が多く、静かで良い環境だ。介護施設を運営するには利便性より大事な要素だろう。
五月晴れで暖かく、散歩と思えば駅までの距離も苦にならない。
駅までの途中には森林公園があり、遊具のある場所には親子連れがたくさん遊びに来ていた。道からは少し離れた広場に子供達の走り回る姿が見え、はしゃぐ声が響いている。
紫苑はしばらく横目でそれを見ながらゆっくりと歩を進めていた。公園を通り過ぎると駅が見えて来る。
中学生や高校生の下校時間なのか、駅から生徒がぞろぞろ出て来るのが見える。都心からは離れた郊外の静かな住宅地が賑やかになる時間だろう。
駅から出て来た人々ともうすぐすれ違うかという時、紫苑はふと、街路樹の間に何かが光るのを見た。
鏡かガラスのようなものに陽の光りが反射しているのだろうか?と、なんとなく気になって立ち止まってしまった。
しばらく見ているとまた光った。さっきよりも光の強さが増したように思える。しかし、だからと言ってその程度のことに時間を割く理由も無い。
前から歩いて来る学生達はその光には気が付いていないようだ。紫苑もその光に関心を持つことをやめ、歩き出そうとしたその時、花火が弾けるように大きな光が広がった。
反射光どころではない強烈な眩しさに、まともに目を開けていられなくなった紫苑は両腕で顔をかばうような姿勢をした。
光のせいなのかそれとも別の要因があるのか、気が付けば周りの景色がぐにゃぐにゃと歪んで見える。次に地面を踏みしめている感覚がなくなり、重力すらも消え失せたような、不安定な空間に放り出されたような、そんな気持ち悪さに紫苑は襲われた。
膨れ上がった光がすべてを飲み込むと、辺りは何も存在しないただ真っ白な世界に変わってしまった。
紫苑は自分の体が粉々に砕かれて分散し、煙のようにかき消えてしまうような幻覚とともに意識を失った。