表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

桔梗の花の咲く場所〜桔梗の姫は初恋の相手と結ばれる〜

作者: 桜百合

お読みいただきありがとうございます。

ふんわり設定です。

「そなた、いかがした? なぜ泣いているのだ」


 天楽元年の夏、会国城主の嫡男である中川義村は父の旧友である島沢城主、原岸正信の元を父と共に訪れていた。

 父達が酒を飲み交わして歓談で盛り上がるところを、義村は一足先に抜け出してきたのである。


 騒がしい居間を抜けて外廊下へ出ると、何やら子供の泣き声が聞こえてきた。

 そっと様子を伺えば、どうやら女の子どものようである。

 年は七歳くらいであろうか。

 いつもなら子どもなど面倒な事、見て見ぬ振りをするのであるが、今日に限っては何故か放っておけなかった。

 そして気づいたら声をかけていたのである。

 そんな己の行動に驚くが、もう止めることはできない。


 突然の義村の声かけに娘は一瞬ビクッと震えたが、恐る恐るその顔を上げた。

 その顔が視界に入った途端、義村はハッと息を呑んだ。

 ひどく泣き腫らした顔ではあるが、雪のように白い肌に大きな瞳、真っ赤な唇の非常に美しい娘である。

 

「私の……私の名前には毒があると言われたのです……」


 ぽつり、と彼女はそんなことを呟いた。

 

「名前に毒だと? そなたの名は何と申すのだ」


 義村は動揺を隠し、あくまで冷静を装って問いた。

 少女は鼻をすすり上げ、その問いに答えた。


「桔梗……桔梗です」

「なるほど、桔梗か……」


 桔梗は非常に美しい花ではあるが、確かに毒を持ち、間違えて食すと命に関わることもある。


「あなたもお思いですか? 私は毒持ちだと」


 グスグスと手で顔を覆い泣く娘に、義村はつい手を伸ばしそうになる。


 (何を……まだ子どもではないか)


 そしてその行為を思い留め、そっと腕を下すとこう言った。

 

「まさか。お前桔梗の花言葉を知っているか?」

「花言葉?」

「ああ。桔梗の花言葉は、変わらぬ愛だ。将来そなたと一緒になる男は幸せ者であろうな」


 義村は微笑みながら娘の頭を撫でる。

 その行為に邪な気持ちは一切なかった。

 

 これまで泣き続けていた娘は、目を大きく開いて義村を見つめるが、何も言葉を発しようとはしない。


「まだ子どものそなたには、少し難しかったであろうか」


 子ども相手に真剣な話をしてしまった己に、思わず笑ってしまいそうになる。


 (本当に、今日の俺はどうかしている)


「変わらぬ、愛……」


 するとそれまで口を閉ざしていた娘が、先ほどと同じような小声でそう呟いた。

 

「……ああ。だからそのようなくだらない事を言う奴らのことは忘れるんだ。そんなことを言う奴らの方が、よほど毒だろう?」


 義村はそれだけ言うと、娘が口を開く前に父の元へと戻るため引き返して行く。

 

 娘は男の姿が見えなくなるまで、その場でずっと立ち尽くしていた。


 これが、義村と桔梗の出会いであった。

 後に義村は、この桔梗という娘が父の旧友である原岸正信の娘だということを知る。


 ◇


「何ですって!? 父上、私の聞き間違いでしょうか。あの桔梗という娘と私が婚儀など……」


 二人が出会ってから十年の月日が流れたある日のこと。

 義村は突如父に呼び出され、今年中に桔梗を妻として、正室として迎える事を伝えられた。


「桔梗は我が友である正信の娘。聞くところによるとかなりの美しい娘に育っていると聞く。何も問題はなかろう?」

「ですが父上、桔梗はまだ子どもです!」


 義村の記憶には、七歳ごろの桔梗の記憶しかないのだ。

 その名を毒持ちだと言われて泣いていたあの時の幼げな様子しか……

 とてもではないが彼女と夫婦となり体を繋げ、添い遂げるような真似はできない。


「馬鹿め。あれから何年経ったと思っている。桔梗も十七歳になった。もちろん互いの気持ちも考えると、今すぐ閨などは早いだろう。だが早めにこちらに来てもらって、お前に慣れてもらった方がいい。とりあえず形ばかりの輿入れを行い、桔梗が十八となった暁には正式な婚儀を行うつもりだ」

「ですが父上!」

「うるさい、これはもう決まりなのだ。我が家を断絶させるつもりか? お前が口出しする余地はない」


 父は颯爽と去って行ってしまった。

 残された義村はその場に唖然と立ち尽くす。

 

 今年二十七になる義村は、桔梗よりも十も歳上である。

 周りの男達はこの歳ならとっくに結婚して妻を迎えているのだが、義村はどうもそういったことに疎いらしい。

 

 見目麗しく武芸にも秀でている義村の元へは多くの見合い話が持ち込まれたが、それを適当にあしらっているうちに、この歳まできてしまったのだ。


 義村の頭の中には、初めて会ったあの日の桔梗の様子が浮かぶ。

 泣き腫らした娘の顔は、確かに幼児ながら美しいものがあった。

 きっと成長した今はさらに美しくなっているのだろう。


 義村の中でそんな想像が膨らむ。

 

「っ……俺は馬鹿か。あのような子どもに……」


 父の様子から行くと、婚儀を取りやめることは不可能だろう。

 

 果たして自分は桔梗を妻とすることが嫌なのか?

 必死にそう問いかけるが、決してそのような気持ちはなかった。


 自分の中での桔梗の印象は、子どもの時のあどけない様子のまま。

 加えて自分は彼女より十も歳上の男なのだ。


 噂に聞くほど麗しい女人に成長した桔梗ならば、何もこのような年嵩の男に嫁ぐ必要などないのではないか。

 有り余る富を持つ大名家など、いくらでも嫁ぎ先はあったであろうに。


 父同士の約束が盛り上がり過ぎてしまった結果なのだろうか。


 義村は答えの出ない問いと必死に戦い続けるが、やはりその思いは報われない。

 こうして彼は戸惑いを隠せぬまま、桔梗の輿入れの日を待つしかなかったのである。


 ◇


「姫様、大変お美しゅうございますよ」


 一方輿入れの日を迎えた桔梗は、会国城の義村の元へと向かうため籠に乗っていた。

 実家から共に会国へ向かう侍女の千は、主の美しさに惚れ惚れとした様子でそう告げる。


「私、緊張しているみたい……」


 義村とは桔梗が七歳の時に一度会ったきりである。

 自分のことなど、ただの子どもだと思っているに違いない。

 むしろ桔梗のことを覚えていてくれるかどうかさえも怪しいほどだ。


 だが桔梗は違った。

 

 あの日泣いていたところを義村に励まされてからずっと、彼女は義村に恋をし続けていた。

 十七歳を迎えた桔梗はそれはそれは美しく育ち、多くの大名家から婚儀の申し出があったのだ。

 

 だが桔梗はどうしても義村以外の男の妻になることが考えられず、父に無理を迫った。

 桔梗に甘い父は、旧友の息子である義村と桔梗の結婚を認めたのだ。


 もちろん桔梗の父は、義村が幼い桔梗に与えた影響についても知っていた。

 あの日以来桔梗が事あるごとに、義村のことを話すようになっていたからだ。


 幼い頃から自らの思いを内に秘めて抱え込んでしまう桔梗のことを、父や母は兼ねてより心配していた。

 そんな桔梗がこれほどに自分から何かを望んだことは初めてであったのだ。


 娘の初めての願いを叶えてやりたいと、両親が思うのは自然の流れであった。

 

 一方で義村の父からしてみても、跡取り息子ながら一向に身を固める気配のない義村は悩みの種で。

 婚儀に対して後ろ向きな息子でも、父の旧友の願いだと言えば断れないだろう。

 桔梗の父と義村の父、互いの利が一致したのである。


 (たとえ愛されなくても構わない。あのお方の姿を一目でも見たい……)

 

 そんな切なる願いを抱いて、桔梗は実家を出たのである。


 籠が城へと到着すると、桔梗は用意された自身の部屋に通されて支度を整えた。

 

 まだ仮の輿入れのため本格的な婚儀はおこなわれないが、夫となる男性との初めての対面である。

 桔梗の世話をする侍女達の腕にも力が入った。


 黒々と輝く長い髪、雪のように白く透き通るような儚さの肌、そして真っ赤な唇。

 どこをとっても人間離れしたような美しさである。


 (義村様も、姫様のお美しさにきっと驚かれるはず)


 侍女の千は満足気に桔梗に向けて頷いた。


 ◇


 「義村様は、大広間でお待ちです」


 侍女頭にそう告げられると、支度を終えた桔梗は義村の元へと向かう。

 大広間へ足を踏み入れる際、緊張のあまり息が止まりそうになるが、大きく深呼吸して落ち着かせた。

 

 色鮮やかな朱色の打ち掛けを手に持ち、ゆっくりと大広間へ足を踏み入れる。

 すると突き当たりに、肘掛けにもたれかかるようにして腰掛ける義村らしき男の姿が。

 

 桔梗はすうっと息を吸い、覚悟を決めて義村の元へと歩みを進める。

 そして彼のそばまで歩み寄るとその場に腰掛けて手をつき、頭を深く下げた。


 ピク、と義村は僅かに反応したのだが、桔梗は気づいていない。


 「原岸正信の娘、桔梗にございます。お久しぶりにございます」


 まるで鈴のような、軽やかな声が広間に響く。

 

 「面を上げよ」


 十年ぶりに耳にする義村の声は、あの時の記憶と相違なかった。

 桔梗はゆっくりと顔を上げて義村を見つめる。

 その途端、義村は目を見開き動揺した様子が見て取れた。


「そなたがあの桔梗か……?」

「はい……お久しぶりでございます」

「驚いた。初めて会った時、そなたはまだ子どもであった。なんというか……美しくなったな……」


 あの時も、幼いながらに確かに美しい娘であった。

 だが今はどうだろうか。

 

 かぐわしいほどの黒髪に、変わらず雪のような白い肌。

 濡れたような大きな瞳に、真っ赤な紅をさした唇が妖艶に義村を誘う。

 

 まだ齢十七であるというのに、人はこうまで変わるものなのかと義村は絶句した。


「私は、あの時のお礼をずっとお伝えしたいと思っておりました」

「礼?」

「泣いていた私を慰めてくださったこと、忘れたことは一度たりともありませんでした」

「ああ、あのようなことは大したことではない」


 義村はそう告げると、何でもないかのようにひらひらと手のひらを振る。

 しかし桔梗はそのまま続けた。


「いいえ。私にとっては大したことであったのです。あの日のあなたのお言葉は、私の支えです」

「……それほどのことをした記憶はないが……そなたがそう言ってくれるのならば、私も嬉しい」


 桔梗はその義村の言葉にほっとしたような笑みを浮かべた。

 まるで花々が咲き乱れるようなその微笑みに、義村は思わず言葉を忘れて見惚れてしまいそうになるのを必死に堪える。


「……だがそなたはこれでいいのか? 私はそなたより十も歳上だぞ? そなたほど見目麗しければ、私などよりも似合いの男がいるはず」


 桔梗は黙ったまま、じっと義村の様子を見つめる。

 

 十年前よりも精巧さを増したその表情は男らしさに溢れ、程よく締まっている身体も日々の鍛錬の成果を表していた。

 

「歳など、気にしておりません。あなた様の妻になりたいと父に我儘を申したのは私なのです」


 義村の目が僅かに見開かれる。

 

「あの日からずっと、あなた様をお慕いしておりました」

「そなた……」

「私を、あなた様の妻にしてくださいませ」


 桔梗は思わず涙ぐみそうになりながらも、最後まで自分の意思を言葉で伝えることができた。

 思わず俯き、膝の上に置かれた手が震えてしまいそうになる。


 するとその手の上に、温かく大きな手のひらが重ねられた。

 ハッと見上げれば、義村が自らの手を重ねていた。


 その目尻は少し赤らんでおり、恥ずかしさを誤魔化すかのように視線を横へと逸らしている。


 (お父様、私幸せになれそうです)


 幼い頃から恋心を抱き続けた男の元へようやく嫁ぐことができたことに、桔梗は心からの幸せを感じていたのである。


 ◇


 それからというもの、義村は多くの時間を桔梗と共に過ごすようになった。

 慣れぬ地へ輿入れした桔梗に、会国の文化や自然を見せて回った。

 

 桔梗の生まれ育った島沢の地とは違い、会国は雪国である。

 そのため冬には多くの雪が降り、厳しい寒さが人々を襲う。

 冬に備えて人々は、食糧などを秋のうちに蓄えておくことが必須となっているのだ。


 会国の文化の中でも桔梗が気に入ったのは、雪割草であった。

 春の訪れを知らせるその可憐な花は、過酷な会国の冬が終わった事を意味するのだ。

 

 輿入れしてから初めての春は雪割草をたくさん摘んで、まるで子どものようだと義村に笑われた。


 子ども扱いされたことが少し悔しくありつつも、どんな姿でも笑って受け入れてくれる義村への思いは募るばかり。


 そんな何気ない日々を桔梗と過ごしていくうちに、義村も自らの気持ちの変化に気付き始める。

 

 初めはその見た目の美しさに惹かれていた部分が多かったものの、共に過ごすにつれて彼女の素直さや利発さを目にする機会が増えたのだ。

 

 この世の穢れなど一切知らぬような澄んだ瞳は、義村の心を癒した。

 彼女の笑い声は音色のようで、聞く者を虜にする。

 その明るい笑顔を見れば、どんな疲れでも吹き飛び、どんな困難でも乗り越えられるような気がした。

 

 いつしか義村にとっても桔梗は離れ難い存在となっていたのである。

 彼の父はそんな二人の様子を、満足げに遠くから見守っていた。


 ◇


 こうして輿入れから一年の月日が経ち、桔梗は十八歳を迎えた。

 取り決め通りに二人は婚儀を執り行い、正式に夫婦として認められたのだ。


「これで、ようやくあなた様のものになれました。初めてお会いしてから十一年、ようやくですわ」


 見れば僅かに涙ぐんでいるかのように見える桔梗がいじらしくて、義村は彼女の手を握りながらこう誓った。


「桔梗……必ずお前を幸せにする」


 こうして二人は遂に名実ともに夫婦となったのである。


 ◇


 初夜を終えた桔梗は、義村の腕を枕にしてそのまま寝入ってしまった。

 義村はそんな彼女の寝顔をじっと見つめる。

 

 純粋無垢な彼女を、自分が手折ったのだ。

 生涯をかけて桔梗を守り抜かなければならないという決意を心に誓う。

 

 それと同時に、もはや自らも桔梗無しでは生きていけないと思うほど彼女の虜になっていることに気付いた。

 

 初めて桔梗と出会った時の自分に聞かせたら、どんなに驚くことだろう。

 

 (……愛している)

 

 義村は汗で湿り気を帯びた桔梗の額に張り付く黒髪を、愛おしげにそっと耳にかけたのであった。


 

 次の朝。

 桔梗が目を覚ますと、隣には微笑みながらその様子を眺める義村の姿があった。


「いやだ、ずっと見ていたのですか? 恥ずかしい……」

「あまりにそなたが美しくて目が離せなかった」


 突然の言葉に、彼女は顔を赤らめる。

 義村はそんな彼女の様子などお構い無しに、こう続けた。

 

「桔梗、俺は十も歳下のそなたの虜になってしまったようだ。どう責任を取ってくれる?」


 義村はサラリとした桔梗の髪を一房取ると、その束に顔を寄せる。

 桔梗はその姿から漂う色気に気がおかしくなりそうになりながら答えた。


「私は、ずっとずっと前からそうですわ。初めてあなたとお会いした時からずっと」

「俺と初めて会った時のそなたは、まだ子どもであったではないか」


 義村はクスクスと笑いながら、再び桔梗をその胸の中に抱き締める。


「もう、ひどい。あの時から私がお慕いした殿方は義村様ただ一人ですわ……」


 桔梗の可愛さに耐えきれず、義村は桔梗を抱き締める腕に力を入れた。


「会国でも、桔梗の花が咲くと良いのだがな」


 会国は夏でも涼しい気候のせいか、桔梗の花が咲くことはない。

 いつか城の庭に桔梗の花が咲くことを密かに義村は願っていた。



 義村と桔梗の仲は非常に睦まじく、両家の父だけでなくその家臣達も温かくその様子を見守った。

 やがて桔梗は立て続けに二人の子どもを出産する。

 

 一男一女の子ども達は、それぞれ幸村、お菊と名付けられてそれはそれは大切に育てられた。

 

 そして後継となる幸村の誕生をきっかけに、義村は中川家当主の座を継いだ。


「そなたを妻にできたことが、俺の人生で何より幸運な出来事だ」


 義村は閨で桔梗を抱きしめながらそう呟く。

 桔梗はその広い胸に寄りかかって安心したように目を瞑る。


「この幸せが、永遠に続きますように」

「当たり前だ。そなたは変わらぬ愛を持つ、桔梗の花であろう?」


 そんな幸せな二人の生活であったが、お菊を出産してから三ヶ月になる春の終わりのこと。

 義村は戦のために長く城を空けることとなった。

 

 桔梗と結婚してからというもの平穏な世が続いていたため、これが結婚後初めての戦である。

 桔梗は義村の無事を祈り、布に刺繍をしたためて、それを義村の腕に巻き付けた。


「必ず、ご無事でお戻りくださいませ」

「ああ。必ずそなた達の元へ戻ってくる。私を信じて城を守っていてくれ」


 二人は触れるだけの口付けを交わして、別れを惜しんだ。


 桔梗は義村の言いつけ通り、残された家臣や侍女達を統率するとともに、二人の子ども達の養育に力を注いだ。

 

 輿入れしてから五年の月日が経ち二十二歳になった桔梗は、会国にとってかけがえのない存在となっていた。

 分け隔てなく家臣達や民達に接する彼女の態度は当主の妻の鑑であり、その美しさは会国の誇りであった。


 一方義村は戦で奇跡的な闘いぶりを見せ、戦は中川家の仕える宮代家の勝利となったのだが、その勝利を祝う宴の席でのこと。

 

 義村は主である宮代家当主、宮代塚元に呼び出された。


「……ご用件とはなんでしょうか?」


 義村が主の側に膝まづきその顔を窺うと、塚元はこう告げた。


「この度の働き、大したものであった。礼を申すぞ」

「ありがたいお言葉でございます」


 そこでだ、と塚元はこう続けたのである。


「褒美として、金に加えてわしの末の娘をそなたの側室にしてはどうかと思ったのだが。いかがかな?」

「……は?」


 予想もしていなかった提案に、思わず間抜けな声が漏れた。

 

「末娘のお雛は今年で十八歳になる。二人の間に子どもが生まれれば、我が宮代家と中川家の繋がりもより一層深まるだろう」


 義村はあまりのことに頭が真っ白になる。


「し、しかしながら……私には桔梗という大切な妻がおります……」

「なあに、そんなことは知っておる。そなたと奥方の仲睦まじさは有名であるからな。だからこそ、無理に正室に迎えろとは言わん。側室でいいと申しているだろう」


 直に正式な使いを遣わすと言いながら、塚元は去っていった。

 

 残された義村は唖然とその場に立ち尽くす。

 武家社会において主君の命は絶対であり、断ることはその家の断絶を意味するも同じ。

 義村に断るという選択肢は存在しないも同然であった。


「桔梗は……なんというだろうか……」


 桔梗以外の女性など、欲しいと思ったことは一度もない。

 きっとこれから先も、死ぬまで桔梗だけが義村の唯一なのだ。

 

 中川家の跡継ぎには、すでに桔梗が産んでくれた幸村がいる。

 

 今更側室など娶る必要はないというのに。

 義村は項垂れながら頭を抱えたのであった。



「何ですって? 義村様に、ご側室が!?」


 それから少しして、会国城に残された桔梗の元へも非情な知らせがもたらされていた。

 宮代家からの使いが城へ到着し、末娘のお雛を義村の側室とする旨を伝えにきたのである。

 

 戦に勝った喜びから一転、今度は一気に地獄へと落とされたような悲しみが桔梗を襲う。

 彼女は白い顔をさらに青白くさせた後、その場に力なく倒れ込んでしまった。


 「奥方様、気をお確かにっ……」


 暗闇の中で千の慌てふためく声が聞こえたが、体に力が入らずどうすることもできない。

 桔梗は遠のく意識の中で、優しく微笑む義村の幻影を感じながら気を失った。



「私……」


 目が覚めると、桔梗は自室に敷いた布団で横になっていた。

 倒れた時は大広間にいたはずなので、恐らくあれから皆がこちらまで運んでくれたのだろう。


「奥方様……桔梗さま、お目覚めになられましたか!?」


 わあっと千が泣きながら桔梗に擦り寄った。


「ごめんなさい。心配をかけてしまって」


 桔梗はそんな千を慰めるかのように、優しく背中をさする。

 千は失礼を承知の上で、ボロボロと涙を流しながら主を庇った。

 

「桔梗様のせいではありません。全ては義村様のせいでございます。あんまりではありませんか、これほど会国のために身を削られてきた桔梗様を、蔑ろにするような……」

「そのようなことは言ってはなりません。義村様の方にも、何か事情があるのでしょう……」


 大方、主君の命に背くことができなかったのだろうと桔梗にはわかっていた。

 

 主君に逆らうことはお家取り潰しと同じこと。

 義村は大勢の家臣たちの命を背負っているのだ。

 

 これまで会国のために尽くしてきた家臣達のことを思えば、桔梗ただ一人のために勝手な判断はできないだろう。


 だが。


「義村様の隣に他の女性が並ぶ日が来るなど、思ってもいなかった……」


 よく考えてみれば、この武士の世の中側室を持つのは当たり前のことではないか。

 

 むしろ結婚してからというもの側室の一人も持たずに桔梗だけを愛してくれた義村が稀有な存在であったのだ。

 

 しかし桔梗は義村に限って側室など持たぬと、どこかで期待していたところもあった。

 自分たちの絆は特別であるのだと。

 

 その期待がバラバラに裏切られ、桔梗の心も壊れてしまいそうになる。


「申し伝えそびれておりましたが……。先日の戦の勝利を報告するため、一月後に義村様は一旦ご帰城されるそうです……」

「一月後……」


 一月後とは。

 まだ何も心の準備ができていないと言うのに、何とも急な話ではないか。

 

 側室の話を耳にするまでは、その帰りを今か今かと待ち侘びていたはずなのに。

 

 今は義村の帰りが辛い。


「ご挨拶をしないわけにはいかないわよね……」


 たかが側室を持つごときで寝込むような女だと思われたくはなかった。

 桔梗の中にも意地のようなものがあったのかもしれない。

 しかしその意地とは裏腹に、体は正直であった。

 

 義村が城へ到着するまでの一月もの間、桔梗はほとんど飲み食いすることもできず、床からも起き上がれずに衰弱していったのである。

 

 まるでこれまで張り詰めていた糸がプツリと切れたかのようであった。



「桔梗様……もうすぐ義村様が到着されるとの連絡がありましたが……いかが致しますか?」


 千は困惑の表情を浮かべながら女主人を見つめる。

 その視線の先にいる桔梗は、この一月ですっかり痩せ細ってしまったように見えるが、それが返って人間離れした美しさを増しているのだから皮肉だ。


 ここ数日はほとんど床の上で過ごしており、起き上がることもままならぬほど弱りきってしまう日もあった。

 果たして義村の帰城を出迎えることができるのであろうかと、家臣達は心配していたのだ。

 

 これが病によるものなのか、気の煩いによるものなのか、医者に見せてもはっきりとしたことはわからないまま。


「大丈夫よ。義村様の妻として正室として、立派にお役目は果たしてみせるわ」


 無理して作る微笑みが、千には痛々しく見える。

 

「桔梗様……」

「約束よ? 絶対に、義村様に私の体のことは言わないでちょうだい」

「ですが桔梗様……」


 千の気遣わしげな言葉に被せるようにして、桔梗は告げた。

 

「お願いよ、千。これは私からの命です」


 義村にいらぬ心配をかけたくない桔梗は、自らの体調についての報告は一切義村に伝えるなと、家臣達に命じていた。

 

 当初は戸惑いを感じていた家臣達も、健気なほどの桔梗の思いを受け入れてくれた。

 

 恐らく今日義村と顔を合わせた際に、側室の件について釈明されるであろうことはわかっている。

 

 隠し事のできない、正直すぎる夫のことだ。

 側室の件もありのまま正直に桔梗に伝え、謝罪するのだということはすぐにわかる。

 

 その義村の行動に他意はないと解りつつ、今の桔梗にとってはその誠意が辛い。


 ◇


「桔梗……そなたは……随分と痩せてしまったのではないか?」

「産後の肥立ちがなかなかよくならないのです。夏の暑さが体に堪えているのかもしれません」


 約三ヶ月ぶりに顔を合わせた義村は、案の定桔梗の変わり具合に驚いて心配の表情を浮かべる。

 

「何か病に罹っているのではあるまいな? 医者には見せたのか?」

「はい。夏の暑さで疲れが出たのだと言われております。もう秋になりますので、そろそろこの暑さともお別れですわね」


 桔梗は初めて義村に嘘をついた。

 彼の前では嘘偽りなく正直な自分でいたいと誓って、輿入れしてきたはずなのに。


 義村のことを裏切ってしまったような気がして、胸がツンと痛くなる。


 当初は心配そうな表情を浮かべていた義村は、涼しそうな顔でそう答える桔梗の様子を見て、少し安堵した。


 しっかり者の桔梗のことだ。

 自らの体の具合は彼女自身が一番よくわかっているはず。


 そして何より普段から桔梗の身の回りの世話をする侍女たちが、気付かぬはずはないと。


「そなたがそう言うのならば、大丈夫であるか……。くれぐれも体には気をつけてくれ。そなた無しでは俺は生きていけない」


 そう言うと義村は桔梗を抱き締めた。

 久しぶりの彼女は折れそうなほどにか細く、元々白い肌は今にも透き通りそうなほどである。

 

 だがそれが返って天女のような美しさを放つようになっており、義村は改めて惚れ惚れとしながら妻の姿を眺めた。


 その瞬間、これから彼女に伝えなければならない酷な事実が頭をよぎる。

 避けて通れるものならばそうしたいのは山々だ。


 しかし桔梗の許可を得ずに側室を娶るなど、とてもではないがそんな不誠実は真似はできなかった。

 彼女に側室を迎えることへの許可を求めるという行為も、義村自身の満足を得るためのものにすぎない。

 ただ桔梗のことを深く傷つけてしまうだけのこと。


 そのようなことは彼自身も重々承知していた。


 だが桔梗に隠し事はしたくなかったのだ。

 そんな堂々巡りで答えの出ない思いがぐるぐると頭の中を駆け巡る。

 これは義村にもどうしようもないことであった。


 彼は桔梗を抱きしめたまま、意を決したように口を開く。


「実はな……桔梗。そなたに話しておきたいことがある」


 その瞬間桔梗の体が固くなり、二人を取り巻く空気が冷ややかなものへと一変する。


「……ご側室の話でしょうか」


 その声はいつもと同じように、鈴のような声色のはずなのに。

 なぜか今日に限っては感情のこもっていないような、凍るような冷たさを感じる。

 

「そなた、知っておったのか?」

「はい。宮代様からの遣いの者が参りました」


 まさかすでに桔梗がその事実を知っているとは思ってもみなかった。

 義村は予想外の事実に戸惑い、その瞳が不安げに揺れる。


「そなたが嫌だと申すなら、俺は断るつもりだ」

 

 気付けば咄嗟に出た言葉はまたしても予想外なもので。

 すると腕の中にいた桔梗が、フッと自重気味に笑う。

 

「そのようなこと、できますでしょうか……? 主の命に背けばこの中川家は滅ぼされます」

「だが俺にはそなたが何より大切なのだ。桔梗の嫌がる真似はしたくはない。それに……そなたに嫌われてしまっては、生きてはいけない……」


 義村はすがるような目で桔梗を見つめ、その肩を抱く。

 しかし桔梗は全てを悟ったかのような表情で静かに首を振ると、こう告げた。


「武士の家に嫁いだのです。側室を持つことは当たり前のこと。私もあなた様の妻として、覚悟致します」

「だが、桔梗……」

「私のせいで中川の家に何かあったら……皆様に申し訳が立ちません」


 二人はこれ以上この事に関して口を開こうとしなかった。

 代わりにただ寄り添い沈黙の時を過ごしたのである。


 数日後、義村が再び戦の後始末へと向かうのを桔梗は見送った。

 そしてそのまま気落ちするかのように床につき、以前にも増して起き上がることができなくなったのである。

 

 次の義村の帰還は恐らく一月から二月後。

 その際には例の側室を伴っての帰還となるだろう。

 

 果たして自分は、その時に笑って二人を迎え入れることができるのだろうか。

 最近横になっているときは常にそのことばかり考える。


「桔梗様……このままではお命にも障ります。どうかお食事を……」


 悲痛そうな表情を浮かべて千が重湯を持ってきたが、口に入れると喉が重苦しく飲み込むことができない。

 腹がむかつき、吐き出してしまうことも多々あった。

 

 体が生きることを拒否しているのだろうか。

 

 近頃は、このまま天に召されてもいいような気もしてきた。

 義村が他の女性と閨を共にし、仲睦まじく過ごす様子を目にするくらいなら、いっそのこと死んだ方がましなのかもしれない。

 

 自分がいなくなり宮代の側室が正室の座につけば、中川家と宮代家の関係もより強くなり、全てが丸く収まるのではないか。

 

 自分が邪魔者なのではないか、という気さえしてきた。

 

 ただ心残りなのは二人の幼児のことである。

 我が子、幸村とお菊は共に可愛い盛り。

 義村と自分の血を引く最愛の二人を残してこの世をさることは憚られた。

 しかしその思いとは裏腹に、心と体がついてきてはくれないのだ。



 その頃、義村は再び宮代家の屋敷を訪れていた。


「おお、来たのか。どうだ、お雛を側室にする件だが奥方の了承は得られたかな? 一応遣いは既に出したのだが……」

「その件なのですが……」


 結局義村は、お雛を側室にすることを断った。

 何か咎められるようなことがあれば、家臣たちの命と引き換えに自らの処分を覚悟して。

 

 主はさぞ激怒するかと思ったが、意外にもあっさりと引き下がった。


「そこまで器の狭い男ではないのでな。似合いの二人だと思ったが……残念だ。だがそれほどまでに仲睦まじい夫婦の元に送られるお雛も不憫じゃ」

「は、はあ……」


 決死の覚悟で伝えた決断を呆気なく受け入れられた義村は、呆気にとられる。

 

「それにしても、そなたの奥方は幸せ者だ」


 主が立ち去った後、義村は庭を眺めながら桔梗のことを思い出していた。

 

 桔梗は側室を持つ事を最後まで反対はしなかった。

 だが思い返せば、無理をしていたのだとわかる。

 

 中川家のこと、義村のことを考えて自分の思いには蓋をしたのだろう。

 まだ二十二の桔梗にそれほど辛い思いをさせたことが申し訳なかった。

 

 義村には桔梗しか愛せない。

 この時代に生きる男としては情けないのかもしれないが、何と言われようと構わなかった。


「おや……?」


 ふと目をやると、庭の隅に紫色の何かがあるのが見えた。

 庭へ降りてよく見ると、それは桔梗の花である。

 

 ふいに十五年前に初めて会った時の桔梗を思い出す。

 桔梗の花には毒があるとからかわれて泣いていたあの時の少女は、今ではかけがえのない愛しい女性となっていた。


「桔梗に会いたい」


 帰城の予定を早めて桔梗に早く会いに行こう、そう決心したその時だった。


「殿! 」


 何やら屋敷が騒がしくなり、一人の男が廊下を走ってこちらへやってくる。

 義村は何事かと剣に手をやり身構えるが、近づいてきた男はよくみれば中川家の家臣であった。


「なんだ、いかがしたのだ」

「奥方様が、会国のお城にてお倒れになられました。病状は一進一退のご様子。命も危ないと」

「なんだと!?」


 次の瞬間義村は廊下を駆け出し、急ぎ馬に乗る準備をする。

 後ろから家臣が何か叫びながら追いかけてくるが、聞かずに足を進めた。


「今すぐ切り上げて会国へ戻る!」



 その頃会国城では、衰弱しきった桔梗の姿があった。

 より一層青白く透き通るようになってしまった肌が痛々しく、その顔も隈が目立つ。

 これほどまでにやつれ痩せ細ってしまっても、眠っているその姿の美しさは変わらず、恐ろしい輝きを放っている。


「桔梗様……姫様……なんてこと……」


 日中ほとんど眠ったままの桔梗の横で、千は泣きながら看病を続ける。

 

 桔梗は千にとっての憧れであった。

 父に連れられて初めて原岸の城に参上した際に、なんて美しく、澄んだ目を持つお方なのかと思った。

 

 生涯このお方に仕えたいと心に決めて、桔梗の輿入れにも同行したのだ。

 それがなんということだろう。

 

 医師は、本人に回復する気がないと話していた。

 本人にその気がない以上、手の施しようがないと。

 そしてこのままいけば、後一月もつかどうかもわからないとも。


「奥方様……桔梗様……千を残していかないでくださいませ」


 湯で手拭いを絞り、桔梗の体を優しく拭きながらそう話しかけると、しばらく眠ったままであった桔梗が薄らと目を開けた。


「千……あなたに迷惑をかけてしまってごめんなさい。だけど私はもう生きる気力が無いの……。手足に力も入らないし、このまま命を吸い取られてしまいそう」


 弱々しくそう話す桔梗の手を、千はずっと握りしめていた。


「このまま楽になってしまいたい」

「桔梗様! いけません……そのようなこと」

「ああ、でも幸村とお菊と離れ離れになるのは辛いわ。あの子たちに会いたい」


 桔梗の体調不良の原因がわからず、流行り病の可能性も排除できないことから、桔梗は我が子たちとの対面を叶えることができずにいたのだ。


「早くお元気になってくださいませ。そうすればお子様たちにもお会いできます」


 それから数日経っても、もちろん桔梗の症状は変わらないまま。

 どんなに高名な医師に見せても、病気なのかなんなのかわからないと言われており、医師達もお手上げのようだ。


 この日、千がいつものように桔梗の体を手拭いで清めると、今日はいくらか気分がいいのか桔梗は目を開けていた。


「義村様は……あのお方は今頃何をしておられるのかしらね……」

「戦の後始末に追われていらっしゃることでしょう。ですがあと一月もすれば、ご帰城されるはずです。その時までにはお元気になっていただかないと」

「……そのときはご側室も一緒なのかしら」


 ハッとして千が桔梗の方を見ると、桔梗はどこか遠くを眺めるような目をしていた。

 その目はもはや現実にあるものを見つめてはいないような、浮世離れしたもので、千は思わず青ざめる。


「桔梗様……」

「義村様にはあんな強気なことを言ったけれど、側室のことを誰よりも受け入れられないのはこの私なんだわ。あのお方が違う女性と愛を交わすくらいなら、いっそ命など無くした方が楽なのではと……」

「そのようなこと! 義村様が悲しまれます」


 千にはわかった。

 桔梗はこのまま消えてしまうことを望んでいるのだと。


「心残りは幸村とお菊のことだわ……」

「桔梗様……」


 千は耐えきれず溢れた涙を拭う。

 桔梗は久しぶりにたくさん話して疲れたのか、ほうっと息を吐いて目を閉じた。


 すると、その時。

 奥の廊下からドタバタと大きな足音がこちらへ近づいてくるのがわかった。

 千が様子を確認しようと襖に手をかけたその瞬間、反対側から思い切り襖が開かれる。


「と、殿……?」


 そこに立っていたのは義村だった。

 息は切れ髪も乱れており、さぞ急いできたのだろう。

 

 義村は千の呼びかけには反応せずに、部屋の中央に敷かれた布団に横たわる桔梗の元へと走り寄る。


「桔梗! 桔梗っ……」


 グッタリと青白い顔で目を閉じている彼女の姿を見て、義村の顔に焦りが生じる。

 まるで生気がなかった。


 彼女は死んでしまったのだろうか?

 自分は間に合わなかったのか?


 そんな恐ろしい不安がよぎるが、かろうじて上下する彼女の胸元に、その不安は間違いであったと悟った。


「なぜだ!? 一体いつからこうなった!?」

「一月ほど前からお身体の調子を崩しがちではありましたが、殿が再び戦の後始末へと向かわれた後から急激に……」

「なぜ言わなかった!? そのような報告は一度もなかった! 知らせを聞いていたら、すぐにでも駆けつけたと言うのに……」


 義村の目には怒りの色が見て取れる。

 千に八つ当たりしても仕方ないのかもしれないが、怒りの持って行き場がない。


 しかし千は主の夫に対して怯む様子は見せなかった。


「桔梗様が、そう命じられたのでございます。殿にご迷惑はかけられないと……。自分の体調の事は一切報告せぬようにと」

「そんな……桔梗……」


 義村は恐る恐る桔梗の頬を撫でるが、薄ら冷たく感じる。

 死が近いのであろうか。


「奥方様は……桔梗様は、殿がご側室をお迎えになるという話をお聞きになられてから体調を崩されるようになりました」


 千は批判を覚悟でそう告げた。


「俺のせいなのか……俺が桔梗を……」


 義村は唖然としながら掠れた声でそう言った。


「桔梗様はあなた様の事を心から愛しておられるのです……殿にご側室ができるなら、死んでしまった方がいいくらいだと……」


 その時、僅かな声と共に桔梗が寝返りを打つような仕草をして目を開けた。

 そして義村の姿を捉えて驚く。

 

 大きく見開いた目は、痩せてしまったこともあって今にもこぼれ落ちそうなほどであった。


「義村様……」

「桔梗、なぜだ……なぜこのような」


 義村は耐え切れず泣き出すと、桔梗の上半身を抱き起こし、そのまま抱きしめた。


「なぜこちらに? ご帰城まではまだ日がありますのに……」

「そなたの命が危ういと、知らせを受けた」


 途端に桔梗は視線を逸らして黙り込んでしまった。


「なぜ俺に報告するなと命じたのだ。俺たちは夫婦だろう。俺はそなたがいないと生きていけないと、知っているであろうに……」

「私の代わりに、宮代のご側室を妻としてくださいませ」


 そのか細い体のどこにそれほどの力があったのだと思わせる力強い声で、桔梗は義村の言葉を遮った。

 思わず彼は息を飲む。

 

「っ何を言う……」

「私がいなければ、宮代から来たご側室も肩身の狭い思いをしなくてすみます。やがてそのお方が正室になれば、宮代家との繋がりも深くなり、全ては丸く収まるかと……」


 桔梗はここまで告げると、激しく咳き込み始めた。

 今にも折れそうな細い体が、激しい咳で折れてしまうのではないかと義村は心配になる。


「もう喋らなくていい、無理をするな。それに、俺は宮代から側室は娶らない」

「え……」

「俺が妻にしたいと思うのは桔梗、そなただけだ。頼むから俺のそばから離れないでくれ……」


 義村はそう言うと桔梗のか細い体を再度そっと抱きしめ、愛おしそうに乱れた髪を整える。

 桔梗は何も喋ろうとしない。

 ふとその顔を覗き込むと、桔梗は静かに涙を流していた。


「桔梗……」

「それではいけないのに……私がいない方が、中川の家にとってもいい方向に進むはずなのに……」

「中川の皆はそなたの事を慕っている。誰もそなたの死を望んではいない」

「私は武士の妻として失格なのです。これではいけないと思いながらも、あなたの隣に私以外の女性がいるのは耐えられません……」


 桔梗は両手で顔を覆って啜り泣く。


「桔梗、俺は生涯側室は持たないと誓う。中川家の跡取りには幸村がいる。お菊に婿を取らせる事だってできるんだ」

「宮代様はどうなさるのですか……主の命に背いたならば、中川家が取り潰されます」

「宮代様にも先日側室の件はお断りを入れてきたのだ。先方はすんなりと引き下がった。そなたが気に病むような事は何もない」


 嬉しさと、申し訳なさと、言葉では説明できない気持ちが桔梗の中でぐちゃぐちゃと入り交じる。


「今はとにかく養生して、早く元気な姿を見せてくれ。命を粗末にするな……俺のためにも、子どもたちのためにもな」

「義村様……」

「そうだ、そなたにこれをやろうと思ってな」


 そう言うと義村は何やら着物の懐から布を取り出した。

 見覚えのある刺繍のついた布は、義村が戦に出陣する際に桔梗が刺繍し持たせたものである。

 

 義村がゆっくりと折り畳まれた布を開いていくと、中に紫色の花が入っていた。


 桔梗は吸い寄せられるように、その布の中身を見つめる。


「これは……」

「桔梗の花だ。宮代の庭で見つけたんだ。これを見つけてそなたに会いたいと思ったところで、丁度知らせが来たのだ」


 義村は布の中から萎れた紫色の花を取り出すと、そっと桔梗の手のひらの上に乗せた。

 桔梗はまじまじとその花を眺める。


「少し萎れてしまったがな。会国に桔梗の花は咲かない。久しぶりに目にしただろう?」

「……はい。ありがとうございます。まさかここで桔梗のお花が見れるなんて……。この花を見ると、あなた様と初めて会ったあの日のことを今も思い出すのです」

「あの日、俺が言った事を覚えているか?」

「……え?」

「桔梗の花言葉は、変わらぬ愛だと。桔梗、俺のそなたへの気持ちはずっと変わっていない。愛している。生涯ずっとだ」


 桔梗はわあっと泣き崩れた。

 途中咳き込みそうになるところを、義村が背中をさすり宥める。


「俺の気持ちはわかってくれたか? わかったなら、何度も言うがもう命を粗末にするような真似はするな。これは俺の命令だ」

「義村様……申し訳ありません」

「今日からそなたの横で共に寝ることにしよう。そんなに痩せてしまっては、夜冷えしてしまう。俺が隣で温めてやる」


 義村は桔梗にそっと口付けた。


「愛しています、義村様……」


 桔梗は安心したかのような笑みを浮かべた。

 そしえ泣き疲れたのか、そのまま気絶するように眠ってしまった彼女を優しく抱き締めたまま、義村は朝まで過ごしたのである。



 それからというもの、桔梗の具合は日に日に良くなっていった。

 

 もちろんかなり衰弱してしまっていたため、すぐに元のようにとはならなかったが、それでも日中起きていられる時間は格段に増えた。

 

 食事も規則正しく三食摂れるようになったことが大きいだろう。

 

 義村は付きっきりで桔梗の看病にあたり、庭を散歩するにもどこに行くにも一緒だ。


「私にばかり良くしていただいて、お仕事は大丈夫なのですか?」

「案ずるな。今はそなたに寄り添うべきだと、家臣達も言ってくれている」


 中川家の家臣達は、桔梗の体調が回復傾向にある事を何よりも喜んだ。

 しばらく義村が桔梗とゆっくりと過ごすことのできるよう、領内での政務は家臣達が代わりにおこなってくれている。

 

 宮代塚元は桔梗の噂を耳にして少なからず罪悪感を覚えたらしく、しばらく義村に休暇を与える事にしたらしい。

 

 会国で桔梗姫と呼ばれるほど領民からの支持を得ている彼女を追い込んだとなれば、宮代の評判も悪くなるということがよくわかっているのだろう。


「だいぶ、顔色が良くなってきたな。少しずつではあるが肉付きも戻ってきたようだ」


 庭に出て外の景色を眺めていた桔梗を愛おしそうに見つめながら、義村が言った。

 日を増すにつれて彼女への想いは強くなるばかりで、時折恐ろしくなるほどである。

 

 彼女を失うかもしれないと覚悟したあの日、自分も命を絶ってしまおうかと思うほどであった。

 それほど桔梗の存在は義村にとっての全てなのだ。


「まだ完全には戻っておりませんけれども、大分元の様になりました」


 桔梗は義村を見上げて微笑んだ。

 その微笑みはやはり天女のような美しさと儚さをはらんでいた。

 その儚さが義村に時折不安をもたらす。


「腹の調子はどうだ? 痛みは無いか?」

「まだまだ産み月までは時間がありますもの。しばらく大したものを食べられていなかった分、これからはちゃんと栄養を摂ってあげなければ」


 実は、桔梗の腹の中には三人目となる子が宿っていた。

 義村が勝利報告のために一時帰還した際の逢瀬でできた子である。

 懐妊が明らかになったのはつい数日前のことなのだが、桔梗は心から安堵した。


「よくあの状況で、流れずにお腹に留まっていてくれたと思っています。子に申し訳ない事を……」

「あのときは致し方無かった。桔梗のせいではない、もう忘れろ。今は養生して、親子元気に出産を終えることだけを考えよう」


 義村はそう言うと、桔梗を後ろから抱き締めつつその腹に手を置いた。

 まだ膨らみの少ない腹ではあるが、確かにここに二人の血を引く命が宿っている。


 そう思うと愛おしくてたまらない。


「男と女、どちらだろうか」

「私はどちらでもいいですわ。あなた様との子なら」


 二人は微笑みながら幸せを噛み締める。

 その様子を、後ろで嬉し涙を流しながら千が見つめていた。


 ◇


 そして数ヶ月後。

 桔梗は立派な男児を出産した。

 二人にとって次男となるその男児は、利村と名付けられた。

 義村が心配していたような事は起こらず、母子共に健康だ。


 それから彼らの間にはさらに数人の子が生まれ、夫婦は生涯仲睦まじく暮らした。

 

 やがて桔梗が先に儚くなってしまった後、義村も後を追うようにして病に倒れ、半年後に亡くなった。


 二人が世を去った年のこと。

 会国では不思議な現象が起きたのである。


 城の庭に桔梗の花が咲いたのだ。

 雪国である会国には決して咲かないはずの桔梗の花。


 まるで天上から二人が見守っているかのようなその出来事に、家臣たちは涙を流したという。


 やがてその伝説は桔梗姫とその夫の愛の奇跡として、後世まで語り継がれることとなったのであった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

よろしければ★をいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ