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6.〝蛟竜、雲雨を得〟

 忠邦が体を深く沈め、疾走の態勢をとる。

 その心中は僅かな迷いこそあれど、どこか澄み渡っていた。

 近い内、弟と対峙するかもしれないと――頭のどこかで考えていたからだろうか。

 ――それは他者に対する嘲弄を隠そうともしない、明確な変調を始めたから頃からか。

 ――それとも、自分の事を「おれ」と言わなくなった頃からか。

 足腰の弱くなり始めた師に頼み事をされて忙しく、いずれ弟を支える裏方になるのだと、相談を先延ばしにするべきではなかったと……この瞬間にさえ、忠邦は憂えていた。

 もしくは、或いは……次々と可能性が浮かんでは消える。

 どれも確定的な材料とはなりえず――この局面まできては、下手人と討手という関係性が変る筈もなかったのだが。

 長距離を走り続けていた忠邦だったが、すでに息は整っている。

 それは鉦巻にしても同様であるらしく、実に落ち着いた様子で手ぐすねを引き佇んでいた。

 思考の片隅で、まるで鎌首をもたげた蛇だと考える。

 生物が好きな弟だった。

 中でも特に蛇が好きで、(まむし)山楝蛇(やまかがし)といった毒蛇に噛まれては大変だと――無毒な蛇である青大将を捕まえては木の洞に放り込んでやったのを覚えている。

 幾ら尽くしても足りない、愛情を注いできた。

 だが、その関係は――


「「……っ!!」」


 ――今、終焉を告げようとしていた。



    ◆



 伊草兄弟には五つほど歳の差がある。

『伊草』は『戦』に通じるとされた伊草家が、まだ兄弟だけでなかった頃。

 流行した麻疹に罹った鉦巻の為、忠邦は毎日山と家を往復して野苺や桑の実といった滋養が付くであろうものを必死に拾い集めて届けた。

 例え口にした途端に吐き出してしまっても、根気よく笑顔で続けた。

 一方の鉦巻は甘味や酸味が強過ぎるものより、彼が野苺と見分けがつかずとってきた味の薄く不味いはずの蛇苺をこそ好んで食していた。

明らかな選び損じだったが、嬉しいと言ってくれる弟の為に忠邦は走り続けた。

 畑仕事を終えてから遊ばず、毎日欠かさず日暮れまで。

 ……とてもではないが、無尽蔵と喩えられる子供の体力にしても異常な健脚である。

 大人でも可能とする者は少ないだろう。

 弟の命を諦めてか、自分にばかり山盛りの飯を寄越し、胃の弱い鉦巻の為の粥を作ってくれない両親への反抗心もあっただろう――だが、無償の愛で育った忠邦は、罵倒をする前に出来る事があるはずだと考え、神仏へ祈る前に行動を起こした。

 その甲斐あって鉦巻は回復。

 蛇を素手で捕まえるほどの健康を取り戻せたのである。

 ――ミオスタチン関連筋肉肥大という疾患がある。

 無自覚ながら、忠邦はこれに罹っていた。

 先天性の遺伝子疾患である為に治療法は存在せず、発症すると何もしていないのに筋肉が発達し続けるホルモンの異常である。

 脂肪は殆ど貯えられず、筋肉を維持する為に大量の熱量を必要とする――忠邦ほどの金食い虫はいなかっただろう。

 胃の弱い鉦巻より、忠邦にこそ一粒でも多くの飯をと自分達の食べる量すら節制せざるを得なかった両親の心中たるや、事情を知れば誰もが察するに余りある。

 ……しかし両親の気持ちを察せなかった忠邦を責めるのは酷というものであろう。

 彼もまた、大人以上の事が出来ても心は子供でしかなかったのだから。

 満腹という無二の愛を受け、怪力を誇る童となった忠邦。

 飛び掛かる蛇すら凌駕する、異常な動体視力を持つ鉦巻。

 ――その人生の転機は夜半、口笛の合図と共に訪れた。

 略奪してくる野盗から両親を守り抜く事こそ叶わず、屋敷も火を放たれ喪ってしまったが――齢十程の子供が殺人に手慣れた大人全員を、何人か逃してしまったものの返り討ちにしたのだから。

 その噂を聞きつけたのが、弟子を探していた刃鳴流師範――谷上彦市である。

 素質、境遇、経歴と――後に二人が双璧と謳われる事になるのは必定の流れと言えた。



    ◆



 忠邦が駆け、鉦巻が待つ。

 ……奇しくもそれは、彼らの最も穏やかな日々と似た形だった。

 五間の距離を挟みつつ、二人が先を読み合う。

 刃鳴流道場において牛すら止める怪力無双を誇ったのは弦一だけではない――彼をして、単純な力比べでは終始忠邦に勝る事はなかった。

 そして鉦巻は受けの稽古でなければ誰もが攻撃を掠りもさせられず、寝技に至っては予知でもしているかのように先読みをされて、蛇の如く絡まれ関節を固められて動けなかった。

『伊草兄弟には稽古ができぬ』――そう語り草になる通り、少なくとも道場内で彼らに勝る者は居らず、二人はお互いがいなければ稽古すらままならなかったのだ。

 であれば――己にとって最高の好敵手もまた、お互い以外にあり得なかったと言える。

 弦一の走りを熊の闊歩と喩えるなら、忠邦は風である。

 水面、跳脚、踏鳴――師から教わった技だけでなく他流派の術理も吸収して、幾つも織り交ぜ最適化をした彼の走りは見切りを許さぬ一陣の疾風であった。

 対する鉦巻は巌が如く、静かに佇む。

 ――〝死返シ(まかるのがえし)〟は本来、先に踏み出して繰り出す技ではない。

 弦一の時は手の内が見え透いており、〝死返シ〟を知らなかった為にあのよう形での使用となったが――幾ら早くとも、所詮は二の太刀に近い技である。

 最速かつ最適の間合いから繰り出される一閃に勝るような技では無い。

 ――〝死返シ〟の真髄は必殺を期したもに拘らず、躱された場合にこそ発揮される。

 そして、それ以上に二の太刀や打撃、時には鉄鞘を用いての殴打――更に組み付かれたなら寝技をかけるという応用性を備えて、その上に飛び道具も見切ってから撃ち落す非凡な遣い手だからこそ〝死返シ〟は必勝不敗の秘剣として鉦巻を君臨させたのだ。

 以前に彦市立ち合いの下、内々に行われた次期師範を決める戦い。

〝死返シ〟の前に、秘剣を持たぬ忠邦は下された。

 鉦巻が剣士として、止揚の高み――絶頂へ上り詰めた瞬間だったと言えよう。

 ……だが、その時は木刀を用いた勝負だった。

 加えて忠邦は『自分は裏方に回る方がお似合いだ』と常々言っており、その切先は鈍いもののように感じられた。

 その姿勢からして……鉦巻には本気に見えていなかったのだ。


(だから――こうするしかなかったんだ)

(だから――こんな事をしたのか)


 剣を輝かせるには、実績が無ければならない。

 本当に強い、という真実が。

 今、両者が握るのは木刀より重く鋭い鋼であり――一太刀で、どちらかが死ぬ。

 これが最初にして最後となる、彼らの真剣勝負(ほんとうのたたかい)だった。


 ――あと、四間。

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