夜のオフィス
田村草太は、2つの思い違いをしていた。
ひとつは、春野美冬の本性を知らなかったこと。
もうひとつは、美冬の父である六野宗次郎という男を、あまく見ていたこと。
草太は後に、嫌というほど思い知らされることとなるのである。
春野美冬が田村草太に、自らの秘密を教えて三ヶ月が経とうとしていた。
表面上はなんら変わりはなかった。美しくて優しいが、仕事には厳しい主任の春野美冬と、春野主任の側をまとわりつく部下の田村草太。
だから他の社員は全く気付いていなかった。この二人はもう、ただの上司と部下ではないことを。
多くの社員で賑わっていたオフィスに、夜の帳が下りようとしていた。
春野美冬と田村草太は今日も残業している。
「草太くん、もうみんな帰った?」
「まだです。何名か残ってます」
「もう! 早く帰ってくれればいいのに」
「残業してる人もいますから仕方ないですよ」
「草太くん、私もう、我慢できない……」
「もうちょっとだから我慢してくださいね」
「もう無理……出ちゃう……」
「美冬さん!? ダメですって。まだ社員残ってますよ」
「草太くん、手を握って。頑張って我慢するから」
「はいはい、わかりました」
残業していた社員も仕事を終え、夜の街へと消えていった。オフィスに残るのは、春野美冬と田村草太のみとなった。
「美冬さん、みんな帰りました。もう大丈夫ですよ」
「本当?」
言うが早いか、美冬はピシッと伸ばしていた背筋の力を抜いた。途端に美冬の首は、音もなくするすると伸びていく。頭が天井まで行き着くと、器用に顔の向きを変え、自分の本体である体の横にいる草太に、満面の笑顔を見せる。
「あ〜スッキリしたっ! やっと首を伸ばせたわぁ」
「美冬さ〜ん、あんまりヒヤヒヤさせないでくださいね」
「ごめんね、草太くん。でもあなたがいてくれたから我慢できたわ」
「じゃあもう、手を離していいですね」
「やだ、まだ離さないで」
「だって誰もいませんし」
「もうちょっとだけ、お願い! 誰もいないとなんだか怖いし」
美冬は首をしゅるしゅると伸ばして、美しい顔を草太の顔面近くにもっていく。
闇夜にろくろ首の女がいるほうがよほど怖いのでは? と思ったのはすでに昔のこと。草太は今やすっかり慣れていた。
いたずらっぽく微笑む美冬の顔だけを見れば、ろくろ首の子孫とはとても思えない。全身を見れば一目瞭然ではあるのだが。
「わかりました、もうちょっとだけですよ」
「ありがとう、草太くん」
田村草太に秘密を明かしてからというもの、春野美冬は草太に心の窓をしっかりと開いていた。それはもう存分に。
(あの春野美冬主任に、こんな素顔があるなんて誰も知らないだろうなぁ……)
一般的に女性には、いろんな顔があると言われている。昼と夜の顔が違う女性の話は、さして珍しくはない。しかし美冬ほど、昼間と夜の顔が違う女もなかなかいないだろう。
なにしろ、昼間は企画部主任として多くの社員を引っ張るエリート社員なのに、夜はろくろ首状態になる、あやかし系の女性なのだから。
草太は苦笑いを浮かべながら、愉しげに首をくねらせる美冬を見守った。手はしっかりと握りしめたままだ。
(女性には二面性があるって聞いたことあるけど、こんな楽しい二面性なら、僕は全然かまわないんだけどな)
今の草太には、美冬がろくろ首状態になることさえ、可愛く思えるのだった。なぜならそれは、草太との時間を心から楽しみ、リラックスしている証拠だからだ。
春野美冬はろくろ首の子孫であり、ろくろ首体質の女である。
同時に心を許した人には、甘えまくるタイプの女だった。