夜のオフィスに伸びるもの
「草太くん、あなた先に帰っていいわよ。あとは私がやるから」
草太は春野主任と共に残業していた。仮眠させてもらった条件が残業だったが、草太にとっては少しも苦ではなかった。なぜなら、美しい主任と共に仕事ができるからだ。彼女の息遣いを感じながら仕事に励むのは、むしろ喜びだった。だから最後まで一緒に仕事がしたかった。
「女性である主任を、おひとりで帰すわけにはいきません」
「大丈夫よ。タクシーチケットあるから」
紳士を気取ってみたが、糠に釘、暖簾に腕押し、春野主任にとっては全く意味がなかったらしい。
「悪いけど、草太くんにやってもらえる仕事は、もうないの」
「そ、そうすか……」
申し訳なさそうに、そっと主任は告げた。容赦のない現実。草太は黙って受け入れるしかなかった。
「すみません。お先に失礼します」
「はい、お疲れ様でした」
美しい微笑みで応えてくれたが、すぐに仕事の顔に戻ってしまう。パソコンのデータを真剣に見つめる主任は、どこか楽しそうだった。
(本当に、この仕事が好きなんだな)
春野主任は誰より努力家であることは、社の誰もが認めるところだった。そして相応の結果も出してきた。草太にとって、春野主任は憧れであり、尊敬する上司でもあった。
「そうだ。せめて主任の好きなチョコレートでもさしいれしよう」
公にはしてないようだが、春野主任は甘いもの、特にチョコレートが好物らしい。仕事の休憩時に、よく食べているからだ。
チョコを口にふくんだ瞬間にだけ見せる、とろけるように幸せそうな顔。
あの顔を近くで見られないのは残念だが、仕事に集中する主任の邪魔はしたくない。少し高級なチョコレートを買ってきて、そっと置いていこう。
ひとり考えを巡らした草太は、我ながら名案だと手を叩くと。近くの店に走った。
チョコレートを買ってきた草太は、オフィスに戻った。春野主任のそばに、紙袋ごとそっと置いておこうと思ったのだ。様子を伺おうと、そっと中をのぞき込んだ。
主任はデスクで眠ってしまっていた。その寝顔はあどけなく、歳上の女性とは思えなかった。
「主任、無用心だなぁ」
憧れの人の寝顔を垣間見ることができて、正直嬉しい。しかし誰もいないオフィスでひとり眠らせておくのは、さすがに気が引ける。草太はスーツの上着を脱ぐと、主任にそっと掛けてあげた。
(疲れてるんだ。しばらく寝させてあげよう)
春野主任が目覚めた時に驚かせないように、少し離れた場所で見守ることにした。春野に背を向け、オフィスの窓を見た時だった。信じられないものがそこに映っていた。とっぷりと暮れた暗闇の中に、白くて細長いものがうごめき、長い黒髪がゆらゆらと揺れている。
(ん……??)
驚いた草太は、慌てて振り返り、春野主任を見つめた。春野は、確かにそこにいた。先程と変わらず、体だけは机で休んでいる。しかし春野の美しい顔が、そこにはないのだ。
春野主任の美しい顔を支える細くて白い首が、音もなく、するすると伸びている。しゅるしゅると伸びる首は、眠りこける春野の可憐な顔を天井まで運んでいく。
(しゅ、主任のくび、首が、なんで??)
酸素を摂りたい魚のように、口だけをパクパクと動かす。声がでない。声を出そうとすればするほど、頭がおかしくなりそうだ。
(これは、夢だ。夢に違いない)
天井に到達した春野主任の頭が、こつんと天井にあたる。その音で、春野はそっと目を開けた。下を見下ろし、デスクに座ったままの自らの体を確認する。
「やだ、もう。私ってば、またやっちゃった」
小さな失敗をごまかすように、春野は舌を出し、てへっと可愛らしく微笑んだ。その顔はまさしく、いつもの春野主任だった。
草太はその場でへたりと座り込んだ。腰が抜けてしまったようだった。
「しゅ、主任……」
草太はやっとのことで声を出した。
春野の頭がぴくりと揺れた。長く伸びた白い首をくねらせ、声がしたほうへおそるおそる顔を向ける。主任の美しい顔が草太を見下ろしている。
「そ、草太くん……なの?」
「は、はい」
部下の田村草太であることを確認したらしい。その瞬間。
「キャー! いやぁぁ〜〜!!!」
春野美冬は金切り声で叫び、草太もつられて叫ぶ。
「うわぁぁぁ〜〜!!」
闇夜に包まれたオフィスに、春野と草太の叫び声が響く。まともに叫べたことで、これが紛れもない現実であることを思い知った。
ややあって、オフィスに向かってドタドタと走ってくる音が聞こえる。
警備員だろうか? 草太は助けを求めるように手を伸ばした。
「美冬、どうしたぁ!? 暴漢に襲われたのか? そうなんだな!」
オフィスに飛び込んで来たのは、警備員ではなかった。
「しゃ、社長?」
全社朝礼会の時のみ顔を見ることができる、株式会社ロクノの代表であり、社長の六野宗次郎であった。
「こいつか。こいつが私の愛娘に不埒なことをしようとしたのかぁ!!」
床にへたり込んだままの草太に、勢い良く社長が飛びかかる。
「お父さん! 待って、違うの」
春野は首をするすると伸ばし、六野社長に絡みつくように動きを止める。
草太の近くにも、美しい春野主任の顔が近づいている。その下には白くて、長く伸びている首。
「お、お父さん……? え、でも春野主任は『春野美冬』ですよね。『六野』ではなくて。あれれ、僕の頭がおかしいの?」
草太の思考回路は、そこまでが限界だった。体の力がゆっくりと抜けていく。
「草太くん、しっかりして!」
心配する主任の声を聞きながら、草太はゆっくりと気を失った。